-4話
シンリー・ヨークが停学になった間にレインは何度か彼女の部屋を訪れたがその姿を見ることはなかった。
あの時間、あの場所に彼女が来ることもなくなった。ぽっかりと空いたのは特定時間のレインの隣だけ。二人の関係が実際にあったものなのか、輪郭から始まり、次第に中身までぼやけていった。なにを話し、笑いあったのか。レインとサラダ__シンリーの間にあったものを証明する記録などなかった。きっとシンリーが意図して作っていなかったのだろう。
穴が開いたのはレインの心だけで、それ以外は変わらない日々が続いていた。
シンリーのことを心の片隅に置きながら、レインは友人と学生を謳歌し勉学に励んだ。気がつくとすぐそこまで夏季休暇が近づいていた。
幸い、夏季休暇前の期末試験は嫌なことを忘れさせるのにぴったりだった。呪文学。魔法薬学。魔法動物学。頭の中を埋め尽くす知識が、思考を麻痺させる。
レインは昨年度から変わらない学年トップの好成績を収め、銀のコインを手に入れた。
コインを得てもレインの表情は変わることがない。
それはいつも通りのことではあるが、親友のマックスから見ると、今のレインの状態はどことなく心配になるものであることも事実だった。
今のレインはずっと考え続けている。マックスにできることは、親友として、レインが考えすぎないように支えることだった。
「まあ今日はオレがコイン獲得祝いに飯おごるから元気出せよ」
「オレは元気だ」
「また嘘が下手になったな」
「そんなことは……」
レインは動きをピッタリと止める。心臓まで止まったように、瞬きもせずに、通りがかった席に座っていた女子生徒を見つめる。
「やぁ」彼女が軽く挨拶する。手をひらひらとこちらに振りながら、目の前に山盛りにつまれたお菓子を口に運ぶ。これから食べるつもりのなのだろうか。見ているだけで胸やけがしそうだ。
「サ……、ボ……シンリー・ヨーク」レインは間違いそうになりながら正しい名前を絞り出した。
「なぜここにいる」
「学生だから。まだ食堂は出禁になってないよ」他の場所は出入り禁止になっているのか__と聞きかけて口をつぐんだ。今はそんなことを聞く時ではない。
「すまなかった」
謝らねば、と思った。あの日、踏み入ったこと。望む答えを渡せなかったこと。けれど、腰から頭を下げ、地面を視界に入れたレインの頭の上に降ってきたのは「なんで謝るの?」という嘲笑だった。
「ああ、あの日、断ったこと? 気にしなくていいよ。たまにいるんだ。いざとなってひよる子」
「決心がついたならわたしの部屋に来てよ。レインなら特別に良くしてあげる」シンリーがレインの手を握ろうとするのを咄嗟に手を引き逃げる。生理的な不快感がこみあげてくるのに思わず「やめろ」と強く出た。
「オレはお前と」「友達になりたかったはやめてよ。馬鹿みたいだから」シンリーの口調にまた嘲笑が混じる。
“レインはわたしとどうしたいの?”まだこの問いの答えがわかっていなかった。
「あはは、まだ答えられないんだ。やっぱりかわいいよレインって。弱くって、小さくって、情けなくってさぁ」シンリーはけたけたと幼なげに笑う。妙に乾いた笑顔だった。
「少なくとも、お前がオレに求めてることを、オレは求めてねえ」レインは、なんとか思考を言葉にまとめようとする。
「別にわたしは君になにも求めてない。勘違いしないで」突き放すような言葉を発する時もシンリー・ヨークは笑顔のままだった。
「レインが遊んでくれないならそっちのお友達と遊ぼうかな」マゼンタの瞳がマックスを捉える。
レインが視線を遮るようにシンリーの前に立ち塞がる。
「コイツは関係ねえだろ」
「それは君が決めることじゃないよ」
「ふざけるのも大概にしろ」
「ふざけてないけど。まぁ、君にはその判断もつかないよね」
「テメェ……」レインの表情がより一層険しくなる。レインにも、シンリーが嫌がらせにマックスに危害を加えようとしていることは理解できた。
「どうしても言うこと聞かせたいなら杖を抜けばいい。ほら、どうしたの」
一触即発。このままでは食堂が半壊すると、周囲の生徒たちが教師を呼ぶことを考え始めた時だ。
「そこまでだ! ほら、2人ともストップ!」パンパンと手をたたき、アドラ寮の監督生__アーロが二人の間に入ってきた。いつのまにかレインとシンリーを囲むように集まっていた学生たちの顔に安堵が浮かぶ。
「おい、レイン。落ち着けって。な? ヨークもあまり彼を刺激するようなことは言わないでくれないか」
「な?」とアーロがシンリーの肩を掴んで逆方向に向ける。アーロがシンリーの耳元でなにか囁くと、彼女は「わかったよ」と渋々その場を去った。アーロが次はレインに話しかける。
「あいつはああいうやつなんだ。なるべく挑発には乗らないでくれ」
「……すみません。冷静さを欠きました」
「いいさ。アイツと関わるとみんなそんなもんだから」
「じゃあちょっと宥めてくるわ」とアーロがその場を去る。「びっくりした。あれがシンリー・ヨークさんか……。話は聞いてたけど」マックスは汗を拭った。
シンリーの独特の甘い匂いだけがそこに残っていた。



夜の校舎は締め付けられるような空気が充満していた。
一人で廊下を歩いているはずなのに、隣には彼がいる気がした。
いつの日か、二人で寮まで帰った日のことを思い出す。夜はいつも一人だった。夜闇の冷たさは心を凍らせる。
人間には休息が必要らしいが、少女には必要なかった。だから小さな背中にのしかかってくる夜の恐ろしさ、冷たさ、孤独が大嫌いだった。それを紛らわしてくれるのであれば誰でも良かった。良かったはずなのに。
この静寂には慣れている。廊下に立ち尽くす。風がびゅうと頬を撫でる。ローブの裾が弱く揺れる。誰もいない夜のさみしさが全身を襲った。
「……レイン」
友人だった人の名前を無意識につぶやく「え?」と口元を抑えた。意識とは真逆に溢れた名前に、シンリー自身が一番動揺していた。
「ばかみたい、ほんとにばかだ」
重い足を無理に動かし向かうのはアドラ寮最上階、監督生専用の部屋だ。ドアをノックすると扉が開く。アーロは自身で部屋の扉を開けたにも関わらず、ポカンとした顔でシンリーを見下ろした。
「こんにちは、先輩。遊びにきたよ」いたずらっぽく笑うとたいていの男が優してくれることをシンリーは理解していた。
「急に来て……誰かに見られたらどうするんだよ。早く入りな」
突然の来訪者に困惑していたアーロもため息をつくとシンリーを部屋に招き入れる。
(ほら。わたしは一人じゃない)
ざまあみろと心の中で悪態をついた。


甘い匂いが記憶からゆっくり薄れ始めた頃。
レインは監督生の部屋の前に立っていた。アーロから頼まれた長期休みに学校に残る生徒をまとめたリストを作成したため、渡しにやってきたのだ。
学校の創設当時から使われている監督生専用の部屋は一般の生徒が使うものよりも豪華に造られている。重厚なドアをノックすると部屋の中からこちらへ近づいてくる足音がした。
「はぁい」と鈴が鳴ったような声と共に扉が開く。目線を下げると、衣服を纏わない女がいた。局部は下着で隠れているが、纏っているのはそれだけ。とても人前に出られる姿ではない。見つめすぎる前に利性が働いて手に持っていた書類で目線を遮ることができた。
「部屋を間違いました」と自分で言っておきながら、一室しかない監督生専用の部屋を間違えるだろうかと疑問が浮かぶ。
「……レイン」ぐるぐる思考をめぐらしているなか、聞こえてきた声はここ数日で一番印象に残ったものと同じだった。
「なんでお前がここに」書類の隙間から顔だけ判別できる程度に目をのぞかせる。
「さぁて、なんででしょう。レインくんにわかるかな」
「……いも」
「兄弟じゃないよ」
「じゃあなんだ」
「なんでしょう」にこりと朝の挨拶でもするような表情になったシンリーは「入れば。わたしの部屋じゃないけど」と扉を部屋の中が見えるようになるまで開く。床に散らばった衣服だけが几帳面なこの部屋の持ち主らしくない。
「いやいい。これを渡しておいてくれ」先輩の部屋に勝手に入ること。下着姿の女子と密室に二人きりになること。先輩の部屋で下着姿の女子と二人きりになること。状況のすべてがレインに厳しかった。シンリーにリストを押し付けるように渡す。
「なにこれ?」
「夏休みに寮に残る生徒のリストだ。個人情報だから勝手に見るな……っておい」
「へー、コイツらが帰る家もない寂しい人たちかぁ」
シンリーはレインが制止する前に茶封筒から書類を取り出し自分のものかのようにめくり始める。茶封筒はぽいっと床に打ち捨てられた。レインがそれを拾い上げている間にも、シンリーが読むのをやめる気配はない。ぱらぱらと流し見していたのがあるページで止まる。
「君も残るんだ」
「帰る家もないからな」
「ふーん。寂しい男」
「……お前は帰るんだな」
リストにシンリーの名前がなかったことを思い出す。
「うん。だったら?」
「お前の家はさぞ居心地が良さそうだ」わがままで自分勝手な彼女はきっと、甘やかされて育ったに違いない。そんな彼女が羨ましくも、やっぱりその性格は改めた方がいいという気持ちも込めた言葉だった。
「……」シンリーは笑顔のまま、力強く扉を締め切った。しまった。と思った時には遅かった。
そう軽くない扉だが、あの細腕のどこにそんな力があるのだろうか。ようやく廊下に響いていた音がなくなってから、再び扉が開く。少しの隙間から先ほど渡した書類が出てくる。
「いらない」
手を離された書類たちは重力に従い、バサバサと音を立てて廊下に落ちていく。
「クソアマ……」
レインは跳ね除けるように締め切られた扉の前で立ち尽くした。

書類は翌日には渡すことができた。
放課後の食堂は自習に勤しむもの、小腹を満たしにきたもの、友人と雑談するものなどで、昼食時程度ではないが賑わっている。
監督生__アーロがこの時間はよく食堂で自習していると話しているのを思い出して、探したところ食堂の端の数人のグループの一人に彼を見つけた。集団の中心にやりかけの課題が広がっている。
友人たちと談笑しているところに声をかけるのは少し気が引けたがそう時間を取るものでもないだろうと考えた。書類を渡せばもう話すことはない。これ以上邪魔するのもなんだと考え、レインはその場を去ろうとした。
「……アーロさん。少しいいですか」「ん? いいよ? なに?」アーロがアーモンド型の目にレインを捉える。
「先日部屋に伺った時のことなんですが」
「おうよ」
「部屋に行ったらシンリー・ヨークがいました。なにをしていたんですか」
アーロが飲んでいたコーヒーを吹き出す。課題は気を利かせたアーロの友人が回収したので難を逃れた。
「大丈夫ですか」
「へ、平気……」
瀕死である。アーロの「まじかこいつ」みたいな視線にレインは気が付かない。
「それでなにをしてたんですか」
「マジでわかんない?」
レインは頭を悩ませる。男女が部屋に二人、夜通しやることといえば____。
「……トランプ、とかですか。ババ抜きとか……大富豪……あ、七並べ」
レインは思い当たるトランプゲームを手当たり次第挙げ連ねる。その姿に「童貞モンスターだな…」とアーロが漏らした。「なんですか?」レインが聞き返す。
「別になんでもないよ……。そのままのお前でいて」アーロは「マジで」と念押ししたのに、後輩であり彼を慕うレインははい、と従うしかなかった。
「アイツと、シンリー・ヨークと仲がいいんですね」レインが話を戻す。
「仲がいい……のかな。わかんないけど」アーロが続ける。「ヨークはさ、カラッとしてていいんだよ。アイツはめんどくさくないから楽なんだ」ただそれだけだよと苦笑いするのをレインは静聴しつつも、アーロが語る「シンリー・ヨーク」に違和感の正体を脳内で探っていた。
レインの知っている彼女はそんな人物だっただろうか。
どちらの方がシンリー・ヨークのことをよく知っているのかという問いは不毛だろう。
「……そこ、間違ってます」
 レインが指摘した問題をアーロが見返す。たしかに、魔法薬の調合で、最後に加える薬品が間違っていたのだ。その薬品は植物の種子からできてあり、適切な時期に涙を与えれば特殊な反応が起こるものだった。薬品は大量に使用すれば毒になるが、適切な量であれば万能薬になりうる。
「えっまじ!? ほんとだ…」アーロが消しゴムで元あった文字を消し、薬の量を書き換える。
「レインはなんでも知ってるよなぁ。頼りにしてるよ。」
アーロから向けられる笑顔を妙に眩しく感じた。
 そして夏季休暇が始まり、終わった。
 魔法局でのインターンシップと課題に夏休みの大半の時間を使ったせいか、中等部の頃から短く感じていた夏休みをさらに短く感じた。
その間もずっと、レインの心の端にはシンリーのことが引っかかっていた。
 秋が深まり、神覚者候補選抜試験が始まる時期になった。
 レインはレアン寮二年生のアベル・ウォーカーと並び、今年最も有力視される神覚者候補だった。もう一人、オルカ寮二年生のマーガレット・マカロンもその経歴から、神覚者候補として名前が上がっていたが、夏季休暇が終わるのと同時にそれまで集めていたコインを全て寮に寄付したらしく、早々に試験から離脱した。本人曰く、「研究に専念したい」とのことだった。
マカロンが試験から降りたことで、今年の神覚者はレインかアベルかどちらかが、すっかり学校中で議論の中心になっていた。
「学校中、すっかり君の噂で持ちきりじゃのう」
レインはウォールバーグ校長に呼び出され、また校長室にいた。
机の上に前までなかった写真が飾られている。古いらしい写真は日に焼けてところどころが破れかけている。額縁の中で少女が笑っている。光の加減で顔はよく見えないがどこかで見たことのある顔な気がした。
「その後、シンリー・ヨークの調査はどうかね」
「シンリー・ヨークは…」
言葉を選ぶのに時間がかかった。丁寧に言葉を繋ぎ合わせるがどれもレインの中の彼女を表現するには何かが足りない。
「まだどんな人物か判断しかねています。ご期待に添えず申し訳ありません」
「神覚者候補試験に出るだけのコインはもう手にしたんじゃろう。ならもうシンリー・ヨークのことは__」「いえ、もう少し」レインがウォールバーグの言葉を遮る。
「期待するような結果になるとは限りませんが、もう少しだけ調査してみます。いいですか」
「それならばよろしく頼む。それにしても君がそこまで入れ込むとはのう」
「……話が終わったなら失礼します」
レインが去った後、ウォールバーグは机の上に飾ってある額縁を手に取る。写真の中の少女を見つめる目線には複雑な感情が含まれている。
写真の中の少女は少し大人びていたが、シンリー・ヨークその人だった。
その周囲では若き日のウォールバーグやその友、師も同じように笑い合っていた。



はじめは興味本位だった。
金と黒の髪を持つアドラ寮生。一目で噂に聞くレイン・エイムズだとわかった。今現在、神覚者に最も近い男と呼ばれている男だ。
少し遊ぶ程度であればなにも問題もないだろうと、名前を聞いた。偽名を名乗ったのは気分だった。入学して間もないにも関わらず、シンリー・ヨークの名前が学校中に悪名として知れ渡っていたことを自覚していたからだった。別に知らない人に悪く言われていようとかまわなかったが、噂ばかりが一人歩きして、まともに相手してくれる人間がいない現状にうんざりしていた。
レイン・エイムズは思ったよりあっさり騙されてくれた。これで神覚者になれるのか疑問を持つような単純さだった。普通偽名だと気づくだろ。サラダ・ボウルだぞ。
ふふ、と笑みが浮かぶ。レインと過ごした日々は短くとも、片手で数えられる人生の中で一番楽しい時だった。
きっと、わたしでなければ良き友人となれたのだろう。と考えたところで思考を閉じた。
“わたしでなければ”は常だろう。後悔は彼に限ったことではない。
「シンリー・ヨーク!」
 自身の名前が廊下中に響き渡り、シンリーは煩わしそうに振り向いた。
その場にいた全員が少女に注目し、シンリー・ヨークであると認識すると、またか、という顔をした。何事もなかったかのように人が離れていく。すぐに男とシンリーの二人しかいない妙な空間が出来上がった。
大声を張り上げ、こちらを睨みつけるのはレアン寮の生徒だった。見覚えはなかったが、彼からすればこちらに用があるらしい。顔を真っ赤にして、今にも怒りで泡を吹きそうなところが茹でたカニのようで滑稽だった。
「あはは、なんで怒ってるの? おもしろいね」
「お前……! なんで昨日俺の部屋に来なかったんだよ!」
「めんどくさかったからだけど」はっきり言い切ると男は青筋を立てて、シンリーの胸ぐらを掴む。
「お前は俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ…!売女のくせに、立場ってもんがわからねえのか…!?」
バキッと骨が軋む音がした。頬が熱い。殴られた勢いで床に倒れ込む。拳を握り締め、したり顔をして見下ろす男子生徒の姿はなんとも哀れに見えた。
「……殴ったら言うこと聞くと思ってるの。本当に面白いね」
「テメェ……!」
シンリーが煽ると、額に血管を浮かび上がらせた男子生徒がまた、見せつける様に拳を振り上げる。
「何をやってる」それがシンリーに届く前に止めたのはレインだった。灰色の瞳が怒りに歪められる。男子生徒は怯む。
「ひっ…レ、レイン・エイムズ……!」
レインとシンリーを交互に見た男子生徒は最後には恨めしそうに「そうかよ…また新しい男かよ」とシンリーを睨みつけた。
「このカス女!もうテメェの相手なんてしてやらねえからな」
「はいはい。わたしも君みたいなのはごめんだよ」
男子生徒は捨て台詞を残して去っていった。
「ったく……バカなんじゃないか。あの子も、君も」レインに白羽の矢が立つ。
「わたしのこと助けて恩でも打ったつもり? 別にわたし一人で対処できたし必要もなかったのにわざわざありがとう」
「殴られてんだろうが」
「殴られたくらいなに? みんなそうするものだよ」
不快感に厳しくなったレインの表情が面白くて、シンリーは挑発的な言葉を続ける。
「レインもさ、気に入らないなら殴ればいいよ。ほら、わたしはなにも感じないから」
レインはシンリーの言葉にどんどん機嫌が悪くなる。ぐっと握りしめた拳は先ほどの男子生徒と同じだった。
これだ、これだったのだ。彼が自身に望むことを理解できた。肉体を手に入れることを望まぬ彼は、暴力による支配がお好きらしい。
 レインがシンリーの腕を掴む。逃さないという意志が腕を掴む強さになって現れていた。今まで思い通りにならなかった彼が、自身の言葉通りに動こうとしていることが、嬉しいはずなのに、なぜかじんわりと心は冷たくなっていった。
「こい」
「はは、やっぱりレインもあの子みたいにわたしと」
「血ィ出てんだろ。手当しねえと汚ねえ」
そこで、はじめて殴られたせいで鼻血が出ているのに気がついた。それに、頬も内出血してあざになっている。
「これくらい平気だよ。少し粘膜が切れただけ。すぐに止まる」
「今は血が出てんだろうが。殴られて血を流してる女子をほっとけるか」
「でもすぐに治るから__」シンリーが立ち止まり、少し腕を掴む力が緩んだ隙に距離を取ろうとする。
「うるせぇ。黙って来い」
ぐわんと視界が宙に浮く。浮遊館の後、お腹に全身の体重がかかる。レインが逃げられる気配を察してシンリーを肩に担いだのだった。まるで米俵のように肩にシンリーを乗せてそのまま歩き出す。
「ちょ、なに!? 離して__!! 大きい声出すよ!?」
「好きにしろ」
「このままいくつもり……」
結局シンリーが大声を出すことはなく、肩に担がれたままおとなしくレインの部屋まで運ばれていった。連れてこられたシンリーは、うさぎグッズに塗れたベッドに腰掛ける。「趣味悪…」と漏らしつつも、手の届く範囲にあったうさぎのクッションを抱きしめる。
「ねえ、もう血は止まってるよ」「うるせえ。ほっぺだせ」レインはデスクの一番下の引き出しから取り出した救急箱を開く。中にある絆創膏は当たり前のようにウサギ柄だった。
レインはシンリーと目線を合わせるためにかがみ、消毒を行ってから頬に絆創膏を貼った。
「いたっ……痛いよ。処置が下手」
「……集中してるから話しかけるんじゃねえ」シンリーに触ろうとする無骨な指先は目で見てわかる程度に震えている。
「不器用か…」と言いつつ不快感はなかった。ベタベタと我が物のように触れてくる人間よりはマシだった。
「こっちも見せろ」指が頬にかかった髪先を耳に持っていく。元の位置に戻りながら頬を撫でる手が少し唇に触れる。「痛くねえか」と問いかける声が遠い。
「別に……これくらいの怪我ならすぐに治るから……触らないで」拒否するだけの力がなかった。なぜか今だけは弱々しいただの少女に成り下がってしまう。
「本当に嫌ならビリっとしろ」
「嫌だって言ってるでしょ……! うざいなぁ」
「ケガは適切な処置をしなければ治らない。むしろ悪化する可能性もある。それに今、お前を放置してそうなったらオレの心が痛むんだよ」
「なんでわたしなんかのことで君が心を痛めるの。意味わかんない」
「それは……お前が大事だから……じゃないのか」
「はは、大事って、わたしと君はそんな仲でもないのに」
「今はそうかもしれねえ」
「金輪際、わたしが君とそんな仲になることはないから安心しなよ。わたしのことなにも知らないくせに」
「なにも知らない。だからこそ知りたい。お前が抱えてるものも全て」
「……何様のつもり?」冷ややかな目線がレインに刺さる。
「お前の友達だ。それじゃダメか」
「友達なんかじゃない。いい加減にして」
「待て」
シンリーが苛立ちながら立ちあがる。対話もままならなくなると危惧したレインは咄嗟にシンリーのローブの裾を引いた。華奢な体躯がシーツに沈む。ベッド脇に固められたウサギグッズが衝撃で崩れた。ベッドに倒れ込んだシンリーが暴れるのを腕を押さえ込む。
さら、と重力に従って横髪が頬を滑り落ちた。
「オレは信じている。オレが知ってるお前は、周りの奴らから聞いてるほど悪いやつじゃない」
「知ったような口……聞かないで……わたしは……いい子なんだよ」視線を逸らす。黒い絹のような髪に繊細な色をした瞳が隠れる。
「いい子でもねえよ。お前はお前だ」
「わたし……」そこで、声が止まる。レインがシンリーの顔を覗くと、頬に大粒の雫が伝っていた。
「ッ……!?」
突然の女性の涙。恋愛経験どころか、女性との交友関係ですら薄いレインは軽いパニックに陥った。
ハンカチで涙を拭う__。慰める__。慰めるのは逆効果か__。ぐるぐると思考が回していると、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
「レイン!! カブトムシ!!この季節に!! カブトムシ!! いたぞ!!」
ここでクイズ。季節外れのカブトムシ、もといよく似た黒々としたゴキブリを親友に見せようとしたマックス・ランドが見たものはなんでしょう。
答えは押し倒された女子生徒とその上で逃げないように女子生徒を押さえ込む親友の姿だった。そういう行為2秒前である。

「じゃ、邪魔したな……」

先ほどまでの態度はどこへやら、肩を縮こませて顔を覆うシンリーが恥ずかしがるふりをしてほくそ笑んでいることに、レインは計られたとやっと気がついた。

「違う。待て。なにも言わず扉を閉めるな」

マックスの誤解を解くのに時間がかかった。