「映画って、見れる?」

 あれだけ拒絶したにもかかわらず、ディーノは翌日には平然と部屋にやってきた。
両手でトレイを抱えている。
朝ごはんだと彼は言った。他人からもらった飯なんぞ食えるかと突っぱねたが、何も入っていないとアピールするためにディーノはその場で同じ飯を用意させ食い始めた。
病人に合わせて作られた塩気のない食事を彼はすぐに平らげて、早く食べろと私をせかす。
その姿は映画で見たことのある気のいいお兄さんそのものであり、マフィアのボスだとはとても思えない。その笑顔の裏にどんな本心があるのか__読みかねる。

考えていても腹は膨れない。
生きるためと割り切ってしぶしぶ料理を口にすることにした。
白く柔らかいパンに野菜のスープ。優しい味付けの、よくわからない煮込まれた主菜。
両手の分厚いギプスに邪魔されて食べにくいことこの上なかった。だが、誰かを頼るくらいなら死んだほうがましだと意地で食べきった。
薄味が舌に合わなかったが、数日点滴で延命していた身体は喜んで固形物を受け付けた。私が飯に手を付けるのを見てディーノは心の底から嬉しいです、とでも言いたげに笑う。飯を食べるのは生理現象だし、ディーノの笑顔に対して反応しないのは彼と私では会話が成立しないからというだけだ。
お人よしの勘違いを訂正することすら煩わしくて、閉口を貫き通した。ニコニコと気持ち悪い笑顔を浮かべるディーノを尻目に朝昼晩の食事をとることが当たり前になっていた。
常に横に部下を侍らせているからどれだけにこやかに笑いかけられてもうさん臭くしか見えなかったが。

食事中、会話を拒否する私の代わりにディーノはぺらぺらと喋り続けた。

ここはキャバッローネファミリーの持つ隠れ家らしい。ディーノは幼少期をここで過ごしたこと。父との思い出、失敗話、淡い初恋の話。
興味のない話ほど眠気を誘うものはない。
食べ終わって早々に何も言わずベッドにもぐりこみ寝たふりをするのがもはや食事の終わりの合図になっていた。
私がベッドにもぐりこんだのを確認するとディーノは静かにシーツを少し動かしてから部下とともに部屋を出た。静寂と不快感で満たされた部屋は朝ごはんの臭いがした。
こんなやり取りを一日のうち計3回やるのだから、私の心を削るには十分だった。

*

この部屋に滞在して数日経った。
いまだ引かない手先の痛みに鎮痛剤は不可欠だが、ようやく夜中に痛みで起きるようなことがなくなった。
いつも通り食事を持ってきたディーノに冊子を渡された。
「ほらこれ。怪我のほかに悪いところがないか一応医者に見てもらってたんだ……気を失ってる間に」
余計なことを……と気持ちがあふれていたらしい。睨まれたディーノがはははとから笑いでごまかしている。
「興味ない。痛むところもないってことは私は健康だよ」
「もう少し自分に興味を……」
「生きてさえいればいい。なに、これ以上ご注文がおありなら別途料金が発生しますが?」
嫌味の効き目は抜群で、歯切れの悪いディーノから食事だけを受け取った。
やわらかいパンはちぎりやすい。一口サイズになったそれをスープに浸してから咀嚼せず飲み込む。
食事が終わるころには先ほどディーノが持っていた冊子はベッド脇のテーブルに置かれていた。
いつもどおりディーノが部屋を出てから冊子状の診断結果を手繰り寄せる。
冊子をパラパラ捲ったが、文字の濁流に襲われて頭がくらくらとした。
一行一行なぞる代わりに目を凝らして読んでいく。読もうとする。

時計の音がうるさい。この部屋に壁掛け時計があったことに今気が付いた。風に揺れたカーテンの衣擦れの音が重なると楽器でも奏でているようだ。心臓は音を支えるように低くリズムを奏でる。光がまぶしい。この部屋は少し暑いかもしれない。食べ終わったばかりの朝ごはんが胃の中で呼吸している。
文字列を凝視するが文字は記号と変わらず見え、私の中では意味を持ち得なかった。言葉と言葉はうまく結び付かず、全てが無意味だった。
読もうとする私の努力ですら。

「……虫、血……A、……ばかばかしい」
冊子をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ入れた。紙ごみと共に複雑骨折しているそれが恨めしそうに見上げてきている気がして、ゴミ箱ごと遠くに蹴り飛ばした。中身が散乱する。それが余計にいら立ちを加速させた。
健康優良児でないことは自覚済みだ。
あんなものは必要ない。
ディーノがなぜ余計なことばかりするのか計りかねる。考えるだけ無駄なのだろうが、それでも未知の存在であるあのお人よしがどうしても脳裏から離れなかった。

*
数日後、再び医者がやってきた。中で折れた骨を固定するボルトがまだどうのこうの。でも固定具は外れますようんぬんかんぬん。耳なじみのない専門用語は耳を右から左へ素通りした。
いや、医者は私の左側で説明をしたので逆か。そんなことはどうでもいいが。
痛みを我慢するための睡眠が必要なくなり、私は暇を持て余すようになった。
大抵は窓の外を眺めて雲の動きを観察する。
そんな横顔に注がれる視線は感じていた。
心配していますと言われなくても伝わるうざったい目線に応えたくなくて、無視をしていた。

昼食の時間になりまた部屋にディーノが来た。
いつもより少し風の強い日だった。いつもは光を取り込んでいる窓が小さく音を立てて震えている。
昼食のメニューは変わらない療養食で味気がない。それよりも目を引いたのは彼が一緒に持ってきた本だった。
「暇つぶしになればいいんだけどよ」
サイドテーブルに数冊の本が置かれる。どれもこれも皮や布張りでできていて重そうだ。
いつも通り、ご飯を食べてベッドにもぐりこんだ。
部屋に一人きりになったのを確認してから座りなおす。
「余計なことを……」
部屋に声がおちる。誰も拾い上げない。
忌々しげに装丁を見つめてからページをめくった。
文章を彩る上下の装飾が寝具の植物柄に似ている。食べられるものだろうか。
その本にはすぐに興味がなくなった。テーブルの上に置かれた本を手に取っては閉じる動きを繰り返す。

その中の一冊が目に入った。ビビッドな色合いの表紙では少女が逆さまに穴に落っこちている。その目線の先には格式張った格好のうさぎが少女に目もくれず懐中時計に夢中になっていた。

これは前に映画で見たことがあった。
確かアニメーション映画で、幼女がウサギを追いかけて異世界に迷い込む話。
そこで帽子屋とお茶会をして、赤の女王に死刑を宣告され_______。

まるで現状の自分ではないか。
ぱらぱらと軽快に話が流れていく。最後に青いリボンをつけた少女が裁判を受けるページを開いた。
少女を指先でなぞる。
あの映画だと最後は確かどうなっていたか
思い出せないが碌なものではあるまい。

本を乱暴に閉じてサイドテーブルに戻した。

ひどく心がざわついて本を戻したときより乱暴にベッドに横になる。
昼下がりの日差しは顔にはかからないが足元を照らしふんわりと温める。

その穏やかさが肌に合わず心を逆撫でた。

*

低い声が鼓膜を震わせて瞼が開いた。飛び起きて距離をとるがそこには食事を持ったディーノがいただけだった。
「ノックはしたんだけどよ」と申し訳なさそうに近づいてくる。
薄暗い部屋が電灯で照らされる。いつのまにか寝ていたらしい。無言でベッドの中に戻る。食事を受け取り口にする。ディーノの目線が私と本を往復している。
「あんまり好きじゃなかったか?」
「うるさい。本に好みなんかない」
言い放ってからドンと、音が空気を割いた。二人の驚いた声が重なる。
一番上に置かれていた本がぐらついて床に落ちたのだった。先程触った時に、最後に開いたあの本だった。

「これ、読んだのか?」
「知ってるから気になっただけ。関係ないだろ。さっさと持って帰って」
裏から表表紙へディーノが本を裏返す。タイトルが目に付いた途端ぱあっと明るい笑顔になった。
「不思議の国のアリスか。オレも小さい頃に読んだぜ」
「これ、アンタのなんだ。ずいぶんと趣味がかわいいんだね」
「ガキの頃だぜ? 誰だって読むモンだろ!」
「……ああ、そう」
いら立ちが炎になって心臓を焼く。味覚でごまかすために食事をかき込む。

「二度と持ってこないで。いらない、そんなもの」
空から落ちてきた薄汚い水滴が手入れされた窓を一滴一滴穢している。
雲に覆われた空は暗澹としていた。

*

雨は一晩中降り続いていたが気が付けばやんでいた。
久々に寝つきが悪くて起き上がるのに時間がかかった。きっと雨のせいで傷が痛んだのだろう。
起床時間が正午に近かったため、サイドテーブルに置かれた朝食はすでに冷め切っていた。

しばらくしてドアを叩く音がした。

「起きたか?」
「……起きてたら悪い」
ディーノが軽食を片手に、その逆の手にまた本を持って顔を出した。軽食はサイドテーブルに置かれる。皿の上にはサンドイッチか何かが行儀よく収まっていた。
「これなら読めるかと思ってさ」
「だからいらないって……」

ディーノから差し出された本の表紙が目に入る。
それは絵本だった。露骨なほどわかりやすく、大きく、イラストと共に文字が書かれている。文字は一文字ずつ色分けされていて同じ形のものは同じ色をしている。
子どもでも、読みやすいように。

「ふざけるな」

差し出された本を手ではじく。
本が宙を舞う。光に吸い寄せられた蛾が誘虫灯に命を奪われるように、音を立てて地面に落ちた。

「人をバカにしやがって……ッ!! 当てつけか!?」
ディーノにつかみかかろうとしてベッドから飛び出すが、怪我だらけの身体はすぐに体勢を崩した。踏み出した足が痛む。
地面に這いつくばるが、無理やり体を起こしてしがみつく。
「ロマーリオ、鎮静剤を……!」
「そんなものいらない! クソが……ッ」
「落ち着け! 怪我がひどくなっちまう……」
「そんなことどうでも……ッ!」

金色の瞳の中の私自身と視線が合う。感情任せに醜悪に顔を歪めて他人を傷つけようとする私を映す彼の表情は、慈しみだった。
怒りでも無ければ同情でもない。なぜ私が怒っているか理解できないがともかく、私自身が私を傷つける行為だけはやめて欲しいと瞳が訴えかける。喉から出てきそうだった言葉が喉で止まる。

「あ……ッ……は、はなし……離せ!」
掴まれていた腕を無理やり振りほどく。
そのまま部屋から飛び出した。
夢の中で走っているような感覚だ。手足にツタのように衣服が絡みつく。
私はこんなに動きにくいものを着させられていたのか。
私を止めようとした誰かを突き飛ばし、屋敷の外へ出る。
風が頬を強く撫でた。服の裾が捲れ上がるのを手で押さえる。太陽は雲に隠れているにもかかわらず、自然光を浴びた身体は眩しさに怯んだ。
目が慣れてきてからゆっくりと周囲を見渡す。
牧歌的な景色が広がっていた。
濡れた草花が風に乗せられ、露がキラキラと揺れていた。

あんなに望んでいたはずの外の空気が今は鬱陶しかった。陽光が皮膚を刺す。針山にでもされた気分だ。
牧歌的なこの場所にはどうしても馴染めなかった。ここは私の居場所ではない。
「は、ぁ゛……ッ!」
足に激痛が走り、つんのめる。
そのまま地面に倒れた。雨でぬかるんだ土に正面から倒れ込んだため、草と土で白色の療養服が汚れた。まばらに茶色く濁った服。湿度を含んだ髪に泥がへばりつく。視界を遮る泥をこする。
(……白なんかよりこっちの方が数十倍はお似合いだな)

母親を求める赤子のように木陰に腕を伸ばす。足首を引きずりながらも何とかたどり着いた。
はねる心臓を呼吸で落ち着かせる。だが息が切れていることもありうまくいかない。汗と泥で全身が気持ち悪い。頭の中で色んなことがこんがらがって収拾がつかなかった。

突然、ぶるっと息を吐く音が目の前からした。顔を上げる。ケモノ臭さが呼吸に交じる。
馬だ。近距離にいるせいで顔の間延びした、栗色の目の馬が顔をよじっている。白い馬は鞍をつけているにもかかわらず、その上に人の姿はない。
ここにいるはずのない存在に思考停止していると、生暖かい感触が頬を駆ける。
考えている顔を馬にべろっとなめられたのだ。

「っ、ちょ、なに……ッ……」
執拗に顔を舐めたかと思えば口をもぐもぐと動かし始める。私の顔についた草を食べたらしかった。満足げに小さく声を上げて私の首元に顔を寄せてくる。
愛嬌のある仕草に口角が緩んだ。

「……ふふっ、くすぐったい。かわいいなお前」
「ず、ずりぃ……」
予想していなかった声に体が固まる。
振り向くとそこになぜか金髪の隙間から草をのぞかせ、私よりも泥だらけになったディーノが突っ立っていた。なぜかいつも以上に情けない。
「……見たな」
「見てない! 何も! なにも見てねぇ!!」
慌てて目を覆っているがもう見てしまったのなら遅いのだ。
「しつこいな、アンタも」
「さすがにあの流れで出ていったら心配するって。みんなで探してるんだぜ。無事でよかったよ」
ディーノは先ほどまでのことがなかったかのように、にっこりと微笑んだ。

まただ。なぜあれだけのことをされた私にこんなにやさしい顔を向けることができるのか。天は彼のことが好きらしい。重苦しい雲がゆっくりとディーノの後方から晴れていき隙間から漏れ出た木漏れ日が周辺を照らす。先ほどまで鬱蒼としていただけの木々のざわめきは運命的な調べに変わる。押しつけがましい陽光は彼と、ついでに私も包み込んだ。

慣れないまぶしさに目がくらむ。

「ボス!」
私の目を覚まさせるかのように男の声が響いた。
馬に乗った男たちが集まってきた。先程聞いた話からすると、私を探していたディーノの部下だろう。
目的物を見つけて、軽々と馬から降りた黒服が私の周りに集まってくる。「なんだ」とサングラスの男が口を開いた。何を言われるかと身構える私を見下ろし、笑い始めた。
「二人ともボロボロだ! こりゃ傑作だな!」
「なっ! 笑い事じゃねーよ!」
ディーノは恥ずかしそうに誤魔化すが笑い声は止まらない。それから、部下たちは私に向かって「無事でよかった」と口々に言い始めた。

「あ……」
あっけに取られているとふわりと体が宙に浮いた気がした。気がしたのではなく本当に浮いている、というかディーノに抱えられているのだと気が付いた。
「は……離せ!」
暴れるが足首が痛み動きが止まる。そんな私にディーノは一段強く抱える手に力を入れた。
「痛くない! おろせ、頼むから……」
「いやだ!」ディーノが声を荒げる。これまでそんな印象のなかった彼の大声に驚いて顔を見上げた。こちらをとらえる金色と視線が合う。凛々しく寄せられた眉は瞬きの間に力が抜け、彼の顔全体が赤くなっていった。
「わ、わりぃ……強くいった方がいいって言われたからやってみたんだけど……やっぱり下手だな」
「お、驚かせるな……」驚いて暴れることを忘れている間に軽く持ち上げられて先ほどの馬に乗せられた。
手触りのいい毛並みがぶるっと揺れた。慌ててたてがみをつかむ。風を切るための毛並みは手触りがとてもいい。

「危ないだろうが…! 私はいいから……っ」
「俺が後ろにつくから問題ねえよ。」
「後ろって………うわっ!?」
ディーノが私の後ろに続いて馬にまたがる。白馬は二人分の体重によろめくことなく四本の足をしっかりと地に踏ん張った。

「おりっ……降りる!! こんな、2人も乗ったらこの馬が……」
「2人くらいなら問題ねえよ。それより、行くぞ!」
ディーノが手綱を引くと、白馬が駆け出す。私たちを先頭に、後ろにディーノの部下が続いて走る。木が流線形に光と混ざり、横から後ろへどんどん流れていく。しがみつくしかなかった。

木々の隙間を抜けて馬はかけていく。上に人が乗っているとは思えないほど軽快な足取りだった。
私は振り落とされないように必死だったが、屋敷とは逆の方に駆けているのはわかっていた。
どこに連れて行かれるのか不安が渦巻き、ただしがみついている馬のことを見ることしかできなかった。

森を抜けたのだろうか、視界が明るくなる。
吹き抜ける風の質感が変わったのがわかった。
しばらくすると馬の動きが止まる。
「見ろよ」
ディーノの声で顔を上げた。

「ッ……!」

遮ることなく正面から照らしてくるオレンジに目が眩む。徐々に慣れてきた視界には、オレンジの夕日に染まる街が広がっていた。
私たちは小高い丘の上にいて、街を見下ろしていたのだった。
西日を反射する色とりどりのレンガのその一つ一つに誰かの営みが垣間見える。ところどころの家の煙突から上がった煙がそのまま雲と溶け合っている。
「ここは……」
「見渡す限りキャバッローネのシマなんだぜ」
地平線の向こう、見えなくなるまで続く営みすべてが彼の守るべきものということだ。それをわかっているのかいないのか、口ぶりからは読み取れなかった。

「綺麗だろ? 俺はこの景色が大好きなんだ」
こたえようとして口を開く。
空気だけがゆっくりと吐き出される。そして閉口した。この気持ちを、持ちうる語彙の中のどのものでも表現したくなかった。きっと彼に伝える形になったときには鋭い刃を持って彼の柔らかいところを傷つけてしまう。
なぜか今はそれがひどく嫌だった。
目を伏せることしかできなかった。

腹が立った。煌めく街並みにも、眩しいディーノの笑顔にも、私自身にも。
いやもっと大きな世界のすべてが私の苛立ちを加速させる。

ただ眼前の景色と私が馬から振り落とされないように囲い込むディーノだけが現実だった。

*

結論から言うと、全治までの時間が数週間伸びた。
もともとあまり調子のよくない足だったが全力疾走と転倒によりひびが入ったらしい。足が動かないように固定するギプスをじっと睨むが動かない。真っ白が体にもう一つ増えてしまった落胆はボールのように心の中を跳ね回る。

ぼーっとギプスを見ていると髪が揺れた。扉が開いたのだった。部屋に入ってきたのはディーノだった。
彼は何も持っていなかった。いつも背後についてくる部下も今日はいない。
身一つで部屋に入り戸を閉める。
まっすぐ私に向けられたきれいな瞳に、肩が震えた。呼吸をするために目をそらした。彼がこちらに歩いてきたかと思えば___盛大にひっくり返った。
驚きのあまり、見ないようにしていたことも忘れて扉の方を向いてしまった。
慣れた様子で頭をさすっている。そして私のあきれた視線をかき消すようにはにかんで立ち上がった。またすぐに転んだけれど。
そうやっていつもの十数倍の時間をかけてベッド脇に腰かけた。
「喜劇でも演じに来たのならもう満足したから帰ってほしいんだけど」
「違ぇよ……くそ、いつもは普通に歩けるのに何で急に……」
「まだご飯の時間には早いけど。何しに来たの」
腰あたりまでを外界と隔絶するシーツに強いしわが寄る。うまく動かない指先には力が入っていた。
彼は私が屋敷を飛び出した日から数日顔を見せていなかった。彼がいないと静かに食事できるのでいいかと思ったが、いなければいないで調子が狂う。厄介な男だ。
ひさびさに見る間抜け面は最後に見たものと変わらないが、この数日間彼がなにをしていたのか、想像つかないことが胸にささやかな風を吹かせていた。
「用事はないんだけどよ。……怪我が心配で。足の調子はどうだ?」
ディーノが向こう側を向く。
大方シーツに隠れている私の足のほうを見ているのだろう。
「アンタ……」

また、本気で心配している。もうそろそろこのお人よしにも慣れてしまいそうで恐ろしい。
ゆっくりとシーツを握っていた手を後頭部に寄せる。日に当たるときらめく髪は触れても溶けそうなほど繊細な絹糸だ。
震える手を少し金髪から離して、思いっきりはたいた。
パッコーンといい音がする。新しい楽器にでもしたらいいんじゃないだろうか。
「痛ってー!」声を張り上げたディーノが振り向く。
「なんでいきなり叩いたんだよ!? ていうか、手! 平気か!? 複雑骨折してんだぞ!」
「なんともないよ。アンタって、ほんと見ごたえのある馬鹿」
「バカって……一つ聞きてぇんだけど」
いつになく真剣なまなざしで見つめられる。
「マジで追加料金払ったら、その…もう少し、優しい? 言葉をかけてくれるようになるのか……?」
ディーノからの突飛な提案に、それはそれは深く、海底まで届きそうなため息が出た。
「馬鹿野郎」
「ははは……はい。」
私の言うことを真に受けている姿は見渡す限りの街を治める威厳あるボスには見えなかった。

「でさ」ディーノが切り出す。
「本題なんだけどよ、なんかほしいものはあるか?」
「……なんだそれ」
「さきに聞けばよかったんだよな。悪か……」「やめろ」咄嗟に言葉を遮る。
でもその先の言葉がうまく出てこなかった。
「聞き飽きた。もういい」

二人して口を閉じる。
先に話し始めたのは私だった。
「そんなこと、聞いたところでまともに答えるとでも?」
「答えてくれるまで何度でも聞くぜ。気が向いたときにでも教えてくれよ」
ため息が出た。
こいつは、いや、よそう。私がなにをどう考えても全て無駄なのだ。
今日に限って不思議とあきらめがついた。
「……本はもう持ってこなくていい。意味ないから」
「わかった」
「それと……映画って、見れる?」
「映画?」
予想外の返答だったらしく目を丸くしている。
「その____」「ああ、大丈夫だ。言わなくていい! 追加料金、だろ?」
答えようとした私の言葉を今度は彼が遮った。私が何を言おうとしていたか、察知して先手を打った気らしく、得意げそうだ。

「別に…見れなくてもいいけど……暇つぶしにはなるってだけだし。興味ないから」
急に恥ずかしくなってシーツにもぐりこむ。彼に背を向けて寝たふりをした。シーツ越しに肩に掌のぬくもりを感じる。
「わかった。見られるようにする」
体温が生ぬるいのに不快ではない。
身体の痛みが気にならない。
ゆっくりと日差しが窓から部屋に差し込むなか、意識を手放した。

*

翌日、ぼろぼろのディーノがまた部屋を訪れた。今度は部下も引き連れて。
ディーノだけが古びた木製のカメラを持っていて、他の数名は段ボール箱を脇に抱えている。ディーノが部屋の中央にカメラを置き、その周りにどんどん箱が積まれていく。あっという間に部屋が狭くなった。箱の隙間から、中に手のひらサイズの黒い円盤がわんさか入っているのが見えた。
「……なにそれ」
「使ってない物置部屋にあったんだ! 爺さんの使ってた映写機とフィルム。年代物だぜ?」
「映写機……」
映画の中でしか見たことのないそれが珍しくてまじまじ見つめる。
「気に入ったか?」
「物珍しいから見ていただけ。でもこれ……動くのか?」
「え」
古ぼけた映写機と私を何度か往復してからディーノの顔が青ざめた。
もちろん、劣化したフィルムはシミだらけの穴だらけでとても見られる代物ではなかった。
挙句、映写機もやはりろくに動く代物ではなかったらしく、火を噴き上げ始めた。
鎮火しようとしたディーノが水のたっぷり入ったバケツを持ったまま、盛大に滑ったため部屋も人もみんなびしょびしょに濡れた。
私は部屋の引っ越しを余儀なくされディーノはとりあえず立ち入り禁止にしておいた(三日も経たずに彼は部屋に入ってきたが)。

もしかしてこいつはとんでもないポンコツなんじゃないだろうか。
その疑問が確信に変わるまでに時間はかからなかった。
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