「いいことをしたのに褒められなくて残念だったね」
知らない天井だ。
草花や蔦の装飾が嫌になる程たっぷりと施された天井。ゆるいアーチ型になっているそれが天井ではなく天蓋だと気がついたのは目覚めてから数分経ってからのことだった。今の私が天蓋付きのベッドで体を横たわらせている状態だと気がついたのはもっと時間が経ってから。
頭の動きがおぼつかない。普段から旧友のように希死念慮が肩を組んでくる人間だが、いつもよりも生きている感覚がしっくりとこなかった。
(柔らかい…こんなに柔らかくて…あったかい寝床はじめて……)
きっと私は死んだのだろう。血液が混じり重くなった空気が充満した暗い部屋で私の心臓は止まった。
暗殺者でありながら人殺しに失敗し、捕まり、拷問された。
瞼を閉じると銃が口を開き、今にも私の命を喰らわんとする光景が蘇る。

『そこまでだ!』
あの男の声に目を開く。
起き上がり、身を守ろうとして体勢が崩れる。身体を支えようとして手がギプスと包帯でぐるぐる巻きにされていることに気がついた。手だけじゃない。足や腹、皮膚が見える部分の方が少ないくらい包帯が巻かれている。ベッド脇のサイドテーブルには交換した包帯や赤褐色に変色したガーゼが銀のトレイのなかに放置されていた。
明らかに誰か、私以外がこの部屋に出入りしている。形跡はあるものの、この部屋には私以外誰もいなかった。警戒心から見渡せば、天蓋だけではなく至る所に植物を模した装飾の施されている。少なくとも私の好みではない。
レースのカーテンの奥の窓は少し開いており、優しい木漏れ日と共に湿度を含んだ風が部屋に吹き込んでいる。
きっと私がいなければここには穏やかな時間だけが流れていたのだろう。
(誰かが私を治療した…一体誰が? ダメだ、うまく思い出せない)
男が部屋に入って来た後のことが靄がかかったように不鮮明だ。何かを叫んでいたような気はするが、何を言っていたのかまでは思い出せなかった。

よし。とりあえず逃げよう。
次の行動はすぐに決まった。
ここが誰のどこか、私には全く見覚えがないということだけが事実だった。
他者の手のうちにあることで得られるのは不利益のみだ。そうなる前にとっととずらかる。
幸い足は折れているらしくギプスで固定されていたが動かせないことはなかった。

動作確認していざ逃げ出そうと一歩を踏み出した時、廊下からこちらに近づいてくる複数の足音が聞こえた。
素早い動きでベッドに体を沈める。
薄く開いた瞼から扉が開くのが見えた。
私を助けたあの金髪の彼がスーツの男たちを引き連れて部屋に入って来た。
金糸のような髪はふんわりとゆれ、たっぷりとした幸せ色の瞳は窓からの木漏れ日を拾っている。
「おお、起きたか!」
「あ…」
つい目が合ってしまった。これ以上の嘘は意味がないと起き上がる。
私を助けた彼は、部屋に入っていた中では一番若いが、黒服の男たちがスーツを着ているのに緑色のコートにTシャツとラフな格好をしていた。
彼らの力関係がわからず、口を噤んだまま周囲を睨みつける。

「その、なんだ……」
もにょもにょと何かを言おうとするが繰り返す。
流石に頭が疑問符が浮かび始めた頃、
「ごめんっ!」
またしても思ってもいない言葉を投げられた。なにか、謝る必要があることを彼はしたのだろうか。
目を丸くする私に気が付かず男は言葉を続ける。
「あんな状況で、結婚なんて言うべきじゃなかったよな。俺も混乱してて、まさか君とまた会えるなんて思ってなくて…」
「はぁ……」
なにがなにやら、彼の中では始まっているらしいが、私にはさっぱりわからない。
頬を紅潮させ、目を泳がせながら言葉を続けるが、私には彼の口から出る音は空に浮かんだ雲のようにしか聞こえなかった。
「とにかく、今はただ生きててくれてよかったよ」
「はぁ……」
「詳しい話は回復してからだな。でも…気持ちが一緒で嬉しいことはどうしても伝えたくて」
「なにが?」
空気が凍る。
当たり前の質問のつもりだったが不味かったらしい。男は身振り手振りを駆使して「でも」「えっと」と慌てふためく。
「あの時、結婚しようって言ったら『はい』って……」
その瞬間、脳内に昨日意識が飛ぶ直前のことが駆け抜けた。
そうだ、私はこの男に「結婚してくれ」といわれた。そして、かろうじて「はい?」と聞き返した。

やっと謎が解けた。
うん。つまり、この男はまさかあの状況でのプロポーズが受け入れられたと思っているらしい。
滑稽を通り越して呆れざるを得ない。
この誤解をどう解こうかと考えながら口を開く。
「……色々と言いたいんだけど、まず第一に」
「おう!なんでも聞いてくれ!」
頼もしく胸を張る彼に「あんた、誰?」とまず初めの質問を投げかけた。
彼は目を丸くする。
コロコロと表情が変わる人だ。
「…覚えてないのか?!」
「昨日が初対面だよね? 毎日依頼を受けるからいちいち依頼人のことを覚えられてないんだ」
「お、俺は依頼人じゃねえ! 俺だよ俺俺! 覚えてねえか!?」
「詐欺か。依頼人じゃないなら本当に知らない人だよ」
悲しいかな、私には家族も友人もいないので、彼が過去に私に仕事を依頼したことがないというなら、正真正銘本物の他人かつ初対面のはずだ。
「そ、そんな……じゃあ、あのプロポーズは……?」
「聞き返しただけだけど」
男は完全に打ちのめされたらしい。
そのまま彫刻にすれば1000年は語り継がれそうな、誰がどう見ても落ち込んでいるとわかる項垂れ方をしている。なんだか落ち込みすぎてキノコまで生えて見えた。
逆に聞きたいのだが、どういう神経をしていたらあんな状況でのプロポーズが成立すると思うのか。


「で、教えてくれないの? 名前」
「ぅえ……」

彼は半泣きのまま答えた。
男はディーノと名乗った。
あのボンゴレの同盟ファミリー、キャバッローネファミリーのドンらしい。
そこまで聞いて、まず1度目のため息。
「どっどこか痛いのか!?」
「うん。頭が痛いよ。そんな嘘に引っ掛かるほど馬鹿だと思われていることにね」
「何!? ロマーリオ、医者を呼んでくれ!」
「ボス、今のは嫌味だ」

信頼できないという私に彼はドンが歴代受け継いできた刺青だの、過去にボンゴレから送られてきた逸品だのを見せてきた。
が、どれも信じがたかった。
キャバッローネといえばボンゴレと同盟を組む大手ファミリーのはずだ。あまりに巨大な組織であるがゆえに名前以外にピンとくる情報が少ない。ただ、今のドン・キャバッローネは若く、人徳に篤いというのは有名な話。
男の顔を見直す。確かに精悍な顔立ちであることを除いて考えれば、人が良さそうすぎて、すぐに騙されそうだし、貧乏くじをわざわざ引に行きそうな顔をしているではないか。
嘘にしてもあまりにも突拍子がなさすぎる。私相手に交渉がしたいとしてそんな大きな組織の名前を出す意味がない。
なかなか理解しにくいが、状況を飲み込むためにその前提を渋々受け入れることにした。
そして、私が助けられたあの日(もう5日も前らしい)は全く別の理由がありあの組織に乗り込んだらしかった。
そしてそこで私を助け、今に至るらしい。

「いや、馬鹿だろう」
言葉が選ぶ間もなく、垂れ流された。
「ディーノ……だっけ。お前が私を騙す気がなく、純然たる善意で命を助けたのはわかった」
「おお、わかってくれたか!」
ディーノが笑う。太陽が部屋に顕現した。鬱陶しいのでサングラスが欲しい。彼の少し後ろに立つ、ローマーリオだったか、彼はいいな。常にサングラスをしているからこの攻撃みたいな笑顔にもいつだって太刀打ちできる。私は無理。今眼球が潰れました。
「なぜ?」
質問の意図を理解できていなさそうなディーノのためにもう一度質問を繰り返す。
「なぜ私を助けた?」
「なぜって……助けたいから助けた。それじゃダメなのか?」
「…………………」
彼の言葉に嘘偽りはなかった。
裏社会の汚い駆け引きの中でもがいて生きてきた私だ、それくらいは見抜ける。
それが逆に腹立たせた。
ディーノのあっけらかんとした表情に沸々と腹の底から感情が湧き上がってくる。背筋を節足動物が這いずり回っているような感覚。

それはやがて、笑い声として外に漏れた。
「はは、ははは。そうか、偉大なるドン・キャバッローネには人間ですら捨て猫同然か」
「捨て猫?」
「あはは、急に笑ってごめん。いえ、なんでもないよ。ただ、傑作で。善意、そうか、善意か____」
私という1人の人間の生命がそんな個人のちっぽけな“気分”で延命したのかと思うと今すぐ自刃したくなった。この命の意味が価値が、羽よりも軽く今すぐどこかに飛んでいきそうだ。
「優しいんだな、アンタ」
「優しいなんてそんなこと……」
まだ気がつかないのか、顔を赤くする。嫌味も含んだ言葉など彼にはなんと効果も持たないらしい。
気にせず私は続ける。
「寛大な御心に涙が出てくるよ。
で、私は命を助けられた代わりに何をすればいい? 誰を殺せばいい? それとも殺されればいい? 首輪をつけて飼い殺すのもいいね。人間をペットだなんて、趣があって____」
「ちょ、ちょっと待てよ、なんの話だ?」
ようやく焦り始めたディーノに制止される。ようやっと私が不機嫌であることに気がついたらしい。
人を助ければ喜んで感謝されると思っているのであれば随分と浅ましい認識だ。思考が膨らみ余計に眉間に皺が寄る。
「見返りなんていらねぇよ! 俺はただ、お前を助けたくて____」
「反吐が出るね。誰がお前の“お優しさ”なんて受け取るかよ」
「なっ……!」
「一つ教えといてやる。アンタが屑の私に優しくできるのはね、優しいからじゃない。全部持ってるからってだけだ。飢えも寒さも碌に知らないお坊ちゃんが、捨て猫助けてみんなが感動。はいよかったね。おめでとう。みんな幸せになりました、なんてのはおとぎ話だけ」
言い切る前に胸ぐらを掴まれる。
ディーノの背後にいた黒服のうち、栗色の髪の男が殴ろうと拳を振り上げて来たのだ。今から殴られるはずなのに思考はどこか別のところにあって焦りを感じられない。
「テメェ、さっきから聞いてりゃ、ボスに助けられた癖に……!!」
「やめろ!」
振り上げた拳が宙で止まる。
ディーノが腕を掴み止めたのだった。「でもボス!」男が食い下がるが、「いいんだ」と退室を促した。
そのまま殴らせれば多少は気が晴れたかもしれないのに、まだ善人ぶるのか。
睨みつける私の方にディーノが向き直した。
瞳が揺れると炎のようだ。少し瞼が閉じられたせいか影の落ちた瞳に映っている私の顔は醜い。
「お前は屑なんかじゃねえよ」
「いいや、屑だね。何千人の組員の頂点に立つ青い血のドンといくらでも代替可能な名前もない暗殺者。どちらの命が重いか、誰にでもわかる。明らかに、アンタに比べたら私は屑だ」
ディーノは言い返さない。
沈黙したまま、口をまっすぐに噤んでいる。
言い返さない理由くらいわかっていた。
私が悪いこともわかっていた。
全部理解できていた。
追いついていないのは心だけだった。
「……屑にだって、矜持くらいある。アンタに助けられたこと、先払いの依頼ってことにしてやるよ。だから命令して。なんでも言うこと聞いたげる」
「命令なんざしたくねえって言ったら?」
「……こんなとこで休んでる暇ないからな。とっととお暇して仕事でも探すよ」
黙り込んだディーノはまたじっと私を見つめてくる。仕方なく、と言ったふうに再び口を開いた。
ここまでさんざ罵倒したのだ。どんな命令が来るかと手に力が入る。
「なら傷が治るまでこの屋敷で過ごしてくれ」
シンと空気が揺れた。
またもや予想の斜め上をいく命令に反す言葉を失う。
(この男、まだ……)

だが先ほどなんでも命令しろと言った手前断ることができなかった。
しばらくの沈黙の後、「わかった」と答えればまたディーノは口角を上げるだけの作り笑いを見せた。
ディーノの、この部屋に入って来た時に見せた子犬のような笑顔はなりをひそめている。
この部屋のどこに何があるかをあらかた説明してから重苦しい雰囲気のまま彼らは部屋を出た。

「お前の気持ちを無視して、勝手に助けて悪かったよ。ごめんな」
部屋を出ていく直前になってディーノは頭を下げて来た。
言葉が詰まる。
なぜ謝るか胸ぐらを掴んでやろうかと思ったがあいにく自由に動かせる手が今はない。
大きく空気を飲み込み
「……いいことをしたのに褒められなくて残念だったね」
と答えた。
そういうしかなかった。
また部屋に1人になった。
最悪最低な気分だ。
普段からあまり人と喋らない生活をしていたせいか、喋るだけで疲弊し切るほど傷が深かったのか、部屋に1人になった途端急激な眠気に誘われた。

私は間違っていない。
間違っていないはずなのに___。
『お前の気持ちを無視して勝手に助けて悪かったよ』
そう言った時のディーノの顔を思い出すと無性に腹が立った。
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