月に溺れる/善逸

「柔らかくなったよな」
「何が?」

突然投げかけられた言葉に首を傾げた。

「ほらなまえちゃんってさ、最初俺に対して刺々しかったじゃん?」

ああ、そういえばそうだったな、と今はもう遠くに過ぎ去ってしまったあの日に思いを巡らせた。


最終選別が行われる藤襲山。これから過酷な試験が行われる場所は糸が張っているかのようなピリピリとした空気が満ちていた。そんな緊迫した空気の中で、異質な空気を放つ存在がいた。善逸だ。

早めに藤襲山に来ていた私は広場の片隅に人だかりをみつけた。
なんだろうか?

不思議に思った私は人垣から覗きこんだ。目に映ったのはキラキラと日差しをうけ輝く金色。綺麗だと思った。だが一瞬で私は引いた。彼が号泣していたからだ。しかも汚い高音でわめき散らしながら。正直目から大粒の涙を流し地面に這いつくばる姿は引いた。

え?なにやってるの?あの人

這いつくばる意味が分からなくて周りを見渡すと、さまざまな目が彼の方に向いていた。
ああ、きっとこいつはすぐ死ぬだろうと憐みの目、はたまた情けないやつと見下し虫けらを見るような目。
私は変な奴と冷めた目で眺めていた。

鬼狩りを目指す者が今さら何怖じけついているのだ。きっとあのような根性なしはすぐ死んでしまうに違いない

その後、最終選別が始まった。だが、彼は開始の合図が打たれても、情けない声を響かせていたままだった。私は彼の蹲る姿を後ろにその場を後にした。きっともう見ることはないだろうと頭の片隅で思いながら。

しかし蓋を開けるとなんと彼、善逸は生き残っていた。逆に馬鹿にしていた奴はことごとく鬼に喰い殺されいなくなっていた。まあそんなに生き残っていなかったけど。

それからだ。善逸を目で追うようになったのは。不思議で仕方がなかったからだ。なぜ生き残れる程強いのにあんなに泣いていたのか、恐怖に震えていたのか。彼は任務が始まってもその場にいない鬼に叫び、物音がすると煙のように走り消え去った。だが任務の後には満身創痍ながらも生き残っていた。ますます不思議に感じ彼に近づいた。そして彼と話していく内に誰よりも優しい人であることに気づいた。


「何、ぼうっとしているんだ?」

降りかかった柔らかい声に現実に引き戻される。

「ごめん。ちょっと昔のことを思い出していた」

くるりと回り声の主に向き合うと、そこには泣きべそをかいていた弱々しい少年はおらず、一人の男がいた。

「なあに?見惚れてるの?」

首をかしげながら善逸がにやりと笑う。わずかに湿った髪がさらりと畳にしだれ落ちる。こちらを窺う目と合い、心臓がどきりと跳ねた。ふっと口角をあげ、お猪口を持つ骨張った手が持ち上げられる。月明かりの逆光の中、善逸の喉仏が上下に動く。一連の流れる所作に私は見惚れた。

「なあなまえ‥‥口づけしてもいいか?」

こちらを見下ろす目尻は酔いで赤い。ドロリと蜂蜜のように溶けた目は酷く劣情的だった。こくりと頷く矢先に口がふさがれる。
初めての口づけはどんなものだっただろうか。ふと思い出そうとしたが、流れ込んでくる熱に溺れて叶わない。反転した世界には顔を赤くさせ、呼吸を荒げた善逸がいた。劣情を孕んだ目に見つめられ、はだけた襟元から鎖骨が見え目に悪い。恥ずかしさで目をそらすと空に檸檬のような月がぽっかりと浮かんでいた。

あっ、善逸の目みたい。淡く柔らかな光をこぼす月に見とれるも、すぐに見えなくなってしまった。
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