※少年ヴェルサス夢
※隣の世界の話とお考えください


気になる男の子がいる。

「このお料理、何だかいつもより美味しかったわ!」

顔のよく似た二人の少女の片割れに、いつもと同じはずの料理を褒められた、ある日のことだった。
曖昧に言葉を返して食後の皿を引き取っていると、誰に向けるでもなくあの子が呟いたのだ。

「違うのはオレが食った方だったろ」……と!

そんな彼が今、お手洗いから続く廊下を一人歩いている。私はこれをまたとないチャンスと受け取った。

「ねえ、少し話せる?」

訝しみから思いきり眉をしかめられる。オーケー、ファーストインプレッションは最悪。

立ち止まってくれたのは多分、「この店の子供」に逆らったら面倒そうみたいな理由なのだろう。
めげずに手招きして呼び込むと、居心地悪そうにしながらもパントリーに足を踏み入れてくれた。
冷蔵庫を開ける私の一挙一動が、それ以外やることが無いとでも言いたげにじっと見つめられていたのが背中越しにも分かる。

「……これをね、あなたに食べてみてほしくて」

お店でも出している苺のグラスケーキ。
自分の前に置かれたそれをしばらく眺めたあと、空色の瞳が半分にまで細められた。何かの癖なのか、人差し指が穿ほじくるようにテーブルを擦っている。

「可哀想にでも見えたか? 何も頼んでないオレが」
「え?」

はて、そうだったか。一家のオーダーの記憶を辿る。追加注文は確か……味違いのタルトを、ふたつだ。

「ち、ちがう! ちがうよ! オーダーの内情なんて気にしてられないもの!」

それもそれでどうなんだ? そういう顔をされた。返す言葉もない。
余計なことを言ったけれど、刺々しい雰囲気は多少薄まった。哀れみや侮辱でないことは伝えられたらしい。

「ええと……変な意味じゃあなくってね」

手を伸ばす素振りも見せなかったフォークを改めて差し出すと、少し間が空いたものの受け取ってくれた。指の動きも止まっている。

「目が良い、鼻が良いとかって言うでしょう。それと同じで、あなたってすごく舌が良いんじゃない?」

ひとつ、ふたつ。瞬きをしたゼニスブルーが、フォークではなく私を映す。

「……あの時は、ヒラメが不漁か何かだったのかよ」
「やっぱりそこまで分かってたんだ!」

そう、ヒラメ。あの日は父がコケて市場のヒラメを台無しにしたから、慌ててスーパーで調達したのだ。

「お店で出してる物にこんなこと、言っちゃいけないかもしれないけど」

ぷつりと苺を刺している彼の、形の良い眉の片方がわずかに上がる。

「それ、本当の味に出来てないの。どうしても母さんのと同じに作れなくて」

私も父も、母がデザートを作るのを手伝ってはいた。だからこそ形は再現できている。
ただ、きっといくつかの工程が飛んでいるのだ。

「元のを食べたことも無いのに頼まれたって困るのは分かってる、でも……」
「……レモンとヨーグルト」

変声前の、それでも私よりはほんの少し低い声が、不意に言葉の続きを遮った。
視線はケーキの器に向いたままで、目は合わない。
俯きがちになっている彼の、イエローブロンドに後頭部の方から一筋入った黒のラインがよく見える。
フォークの先が表面のクリームだけを削り取って口へ運ばれ、何かを探るように瞳がゆっくりと揺れた。

「スポンジの作り方は同じ。マスカルポーネも合ってる。足りないのはレモン汁が小さじ一つか二つと、ヨーグルト。こっちは結構入れていい」
「え、」
「何だよ。オレの“これ”を買ったんじゃあねーのか」

そう、そうだけど。どうすれば記憶の味に近づくか、一緒に考えてもらうくらいのことを想定していたのだ。
なのに、いきなり答えにたどり着くものだから。

「……一回だけ食ったことがある」

はっと顔を上げると、今度はしっかりと目が合う。
見つめ返していたら、何秒と経たないうちにすげなく逸らされてしまったが。

「あんた、隅のテーブルに座ってる時があっただろ」

それは両親が揃って厨房に立っていた頃の話だった。店の子供の特権って訳じゃあないけど、空いているフロアで休憩を取ることがあった。見られていたとは予想外だ。
視線がもう一度私の方に戻ってきて、また逸れて。
少し厚みのある唇の端が何か言いたげに、それでいて言いづらそうにむずむずと歪んでいる。
観念したように首の後ろへ手を置いて、唸り混じりにひと息をついたのち。

「やたら幸せそうに食ってたから、つられた」

気恥ずかしさを誤魔化すためか、彼は空になった器の底をフォークで軽く鳴らした。
本当の第一印象は悪くなかったのかも、なんて。

「ね、ねえ。おねがい」
「や、おまえ、」

勢いで手を握ったことは、後で謝るとして。

「少し、私にもう少し付き合ってくれない……!?」
「……無駄だろ。オレはさっきのケーキ以外食ったことないんだからな」

指も、手のひらも。私より少しずつ大きい彼の手が、それを半端に包み込む私の手の中で強ばった。

「ううん、むしろ今のがラッキーだったの。元々は食べたこともない物を当てさせようとしてたんだから!」
「はあ?」

今度は勢いよく片眉が跳ね上がった。引き気味だった上体が、目尻の下睫毛まで見える距離に近づく。

「おまえ本気かぁ?」

何だか一段砕けた雰囲気で、彼は顔を傾かせた。

「そう、本気。君の家族に頼んでみた方がよかった?」
「あれは風邪拗らせて何日か舌が馬鹿になってた。それが治った直後だったんだよ」

思わぬ答え合わせをされたが、そういうことならやっぱり彼に頼るしかないのだ。

「……もちろん、断ってくれていい。どれくらい時間が……正解が見つかるかも分からないし。でも、」

ずっと後悔している。レシピくらい残してもらえばよかったと。自分はあの味を継ぐことが出来なかったのだと。
きっと私はいつか、母さんの味を忘れる。お客さんにとって、私の作る物が当たり前になっていく。それがたまらなく嫌だった。

「君が唯一の可能性だと思った。君に会えて、偶然あの独り言を聞いたのは、私にとって幸運だったの!」

握った手を自分の方へ引き寄せた。掴んだチャンスを、この手を、できれば離したくなかった、けど。
彼の下まぶたに力が入り、目が細まる。斜め下に逃れた目線と、僅かに開いては閉じる口。少なくとも肯定の言葉を探しているようには見えない。
その反応に自然と力が抜けて、その隙にするりと彼が離れていく。半端な形の私の手だけが宙に残されて、それで、

「ご……ごめん、」
「ヘ、オレにそんなこと言った奴はお前が初めてだぜ」

手のひらの衝撃と、乾いた音。握手をするように手が重なっていた。

「信用してやる。お前はオレの妙な味覚だけが目当てで、目的の為に強引だ。それが同情な訳ねえからなあ」
「ひ、否定は……しきれない部分があるけど……」

私を覗き込み、彼は片方の口角を上げて笑っている。
何だか変な形で認められてしまったようだが、気を取り直して手を握り返した。
案外意地の悪い笑い方をするこの男の子が、今からわたしの相棒だ。
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