「やっぱりそのアバターなんですね」
画面を開くなり視界に飛び込んできた緑色のゆるい生き物。可愛いだろ、と見た目にそぐわぬ低い声で返されるのはもう何度目だっけ。
アザラシには見えないよ、とか言っておきながら自室にアザラシのぬいぐるみが転がっていることも、家の鍵にキーホルダーが付いていることも、きっと彼は知らない。そもそも私はペンギン派だったはずなのにな。
「理一さん、もう帰ってきてるんですか」
「さっき着いたところ」
それなら、直接顔を合わせるのは夕飯の時か、その手伝いをしている時か。
そうですか、と返した言葉からは、一体どっちが伝わっただろう。会いたい気持ちと、会いたくない気持ち。
良くも悪くも「古い家」であるうちには、デリカシーというものが些か欠けている。酒の席で昔話が始まれば、私が小さい頃から理一さんに引っ付いていたことを弄られるのがお決まりである。
夏希の話になると翔太が煩くなるけど、残念ながら私にはそんなモンペが居ないので、心的被害は毎度甚大だ。
理一さんがやんわり収めようとしてくれても、彼は彼で話題の当人なので周りは余計に面白がるし。
若者には何言っても良いと思ってんだもんなあ、今に始まったことではないけれど。思わずため息を吐いたら、風鈴がちりんと寂しく鳴った。
「お、」
「え、なんですか?」
「いや、ちょっと待ってて」
それきり向こうの音声は途切れた。待つも何も、こんな広い家で互いの居場所なんて……。
仕方がないので、残された彼の人のアバターを手持ち無沙汰に軽く突っついた。ふよふよと揺れる姿には自然と頬が緩む。仮想空間内では距離感なんて気にしなくてもいいのだから悲しくも気楽だ。
「はは、ずいぶん可愛がられてるなあ」
「……理一さん!?」
「うん、久しぶり」
声がしたのは画面からではなく後ろから。振り返ってしまった先に、立っていた。
──陣内理一。私の初恋のひと。
「なんで分かったんですか、ここ」
「ん? ほら、それだよ」
少し、間を空けて隣に座った彼が、吊るされている風鈴を指さした。
「帰ってる時はいつも吊るしてあるから」
「……」
家にあるのをわざわざ外して、たった数日間の帰省の度に、部屋の前へ吊るしている。そんなことを気に掛けられていたとはまさか思わず、心做しか気まずさを覚えた。
「俺も好きだよ、この音。夏は毎年出してる」
そう、お揃いであるから余計に恥ずかしい。学生時代に貰ったそれを今もやたらと大事にしているということが、彼にはどう伝わっているのだろう、なんて。
「まあでも、風鈴に会いに来たんじゃなくてさ」
なまえに、と。ただ呼ばれただけの名前がとびきり甘く聞こえてしまうのだから、なんだか虚しい。
「今年も乗るかな、と思って」
理一さんの、バイクの隣に。
思えば、昔はそれが私の夏の風物詩だった。まるでデートだ、とか能天気にはしゃげていた頃は。
もう少女という歳でもなくなったここ数年は断ろうとしているはずなのだが、何やかやと流されて、結局毎年乗せられてしまっている。
「……いえ、今年は、その」
今年こそは。意を決して隣を見上げたら、穏やかに微笑む彼と目が合い言葉に詰まった。
「やめとく?」
「え……えっと……」
固めたはずの決意は容易に揺らぐ。
だって、昔から理一さんのその笑い方が好きだった。
「それは困ったなあ」
「え?」
フ、と更にやわく表情を崩して、彼はまったく悪びれる様子も無く言った。
「姉ちゃんたちにもう言っちゃったから。ちょっと連れてくって」
「……はい?」
理香さんたちに何を言ったって?
「絶対喜ぶよって言われたのに」
姉弟揃って共犯かよ、……じゃなくて。
つまり、夕飯の支度を手伝うから、という逃げ道は端から潰されていたらしい。
「もしかして、他に断る理由があった?」
私の表情を窺うように、理一さんは軽く首を傾げた。
この人のこういうところが、ずるい。最もらしい言い訳さえ無くなれば、私が「行きたくない」なんて言えるはずないこと分かってるくせに。そんなこと、本当は思えるはずないのに。
「い……いきます」
「そっか、よかった」
いつも上手いこと首を縦に振らされているけれど、やっぱり今回もそうなってしまった。
けれども複雑な胸の内にはこの展開を喜ぶ気持ちも少なからずあって、それを誤魔化すみたいに立ち上がる。
「……すぐ行くので、理一さんは先に向こうで、」
「あ、なまえ。ちょっと待った」
再び呼ばれた名前にもしっかり心臓は跳ねた。わたし、なんか年々チョロくなってる気がする。
「……なんですか?」
ちょいちょいと手招きをされて、ぎこちなく歩み寄る。
「手、出してごらん」
私の手のひらに理一さんのずっと大きな手が被さって、ちょっと触れ合ったことにどぎまぎしているうちに離れていく。
「──あの、これって」
「自分のアバターとかで作ってもらえるって聞いて、せっかくだから」
通信機をくっつけている、ゆるい顔した緑のアザラシ。の、キーホルダー。
間違うはずもない。目の前にいる格好良い男の人の、ギャップ溢るるアバターである。
「確か、アザラシのキーホルダー持ってたろ。それと交換しない?」
「え!」
本物が貰えるとは願ってもない……じゃあなかった! 内心で首を振るも、平静は戻らず段々と顔に熱が集まってくるだけ。
下手なことを聞いて墓穴を掘るわけにもいかず、ただ理一さんの提案に頷くしかなかった。そこまでバレているのなら、私が何を思ってアザラシを選んだのかなんて絶対にお見通しじゃないか。わたし、そんなに分かりやすかったかな。
「じゃあ私のは、あとで持っていきます、ね……」
「うん、待ってる」
立ち上がった理一さんを一旦見送って、のろのろと緩慢にキーホルダーを付け替えて。
水族館内だけで買える限定品ではあるものの、プレミア付きという訳でもない恒常販売のそれを、交換しないかと持ちかけてきた意味って、いったい。
どうせ私が持っているのと同じ気持ちは含まれていないのだろうけど、それでも思考は巡ってしまう。
ふわふわとした夢見心地は、すれ違った万作おじさんに「理一が待ってたぞー」なんて冷やかされるまで続いたのだった。
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