「おのれ増税…」
駆け込み需要との過酷な戦いを終えて、レジ打ち労働戦士は残業1時間の後に、フラフラになりながらも何とか住まいであるマンションの前までたどり着いた。20日30日で5%になったのは、間違いなく従業員のライフである。笑えん。
「…なまえさん?」
「……あれ、花沢くん?」
よたよたと生命の限界を迎えつつ歩いていたヤバ女に、突如爽やかな声がかけられた。このままでは勤務先のイオンを爆破しに戻ってしまう、ちょっとでいいから誰かに優しくされたい、という願望からくる幻聴か?と震えながら振り返ると、そこにはもはや霞んできた気がする視界すら一気に蘇ってしまうほどの、たいそうなイケメンが立っていた。隣に住んでる中学生、花沢輝気くんであった。
今じゃそこそこの友好関係を築いてはいるものの、こうやって親しく話すようになったのは割と最近の話だ。確か…近頃の少年の流行りは分からんが、彼の髪型が色々な意味で大きく変わった頃。それまでは、こちらから挨拶をしたらひと言そっけなく返ってくるような、そういう感じだった。花沢くんはその時のことを恥じているらしく、未だに謝られたりもするのだが、私からしてみればそんなのは可愛いもんである。しょうがないよ、あるってキミくらいの年齢なら。むしろ抜け出したの早い方だって。
「ど、どうしたのこんな時間に中学生が、」
「僕はなまえさんの方が心配ですけど…」
さらりとそう言ってのけてしまう花沢くんは、今までいったい何人の女の子を落としてきたんだろうか。いやいや…と手を振って彼の言葉を否定しながら、二人並んでエントランスに足を踏み入れた。少年、こんな残業女をレディ扱いしてくれるその心がけはとても素晴らしいのだが、いくら大人びていても勝てないのだよ、市の条例にはな。補導も職質もされないうちに屋内へ入れたことに、とりあえずほっと息をついた。
「夕ご飯は食べた?」
「いえ、まだです」
「面倒かもだけどちゃんと食べるんだよ〜、成長期なんだから」
近所のおばさん目線から発された小うるさい台詞にも、花沢くんははい、と百点満点の好青年スマイルで返してくれた。中学生にもかかわらず、訳あって一人暮らしをしている彼は、きっと私よりもしっかりしているのだろうけど。
…訳、とは。彼の持っている不思議な力によるものだ。私がそれを知ったのは、数ヶ月前のことだった。
去年の暮れ頃から、私は原因不明の身体の不調に悩まされ続けていた。結構な間私を苦しめていたそれを、ある日花沢くんは、たった一度軽く手を払っただけで、綺麗さっぱり消してくれたのである。ひとことで言えば、よくないものがついていた、のだと。そう説明してくれた彼だったが、正直その時の私は、突然あのそっけない性格と今どきのイケメン風吹かせていた髪型を大きく変化させた彼の方にめちゃくちゃびっくりしていた。今では更に変わって爽やかなヘアスタイルになっているが。詳しくは聞くまいよ。
そして花沢くんは、それまでの自身の態度と、今まで私に憑いていたものを見て見ぬふりしていたことを謝罪してきた。以下、当時の回想である。
『……あの、改めて名前を教えてくれませんか?』
『名字ならネームプレートに…』
『もし読み方を間違えていたら失礼ですから』
『えっと、みょうじ……みょうじなまえです』
『ありがとうございます、なまえさん』
──お分かりいただけただろうか。もちろん読み方云々のくだりも嘘ではないとは思うのだが、花沢輝気少年は、私の名前を聞き出すためにこう問うてきたのだ。ナチュラルに名前呼ばれたのマジでビビったわ。
「作り置きでいいなら出せるんだけど、ちょっとそれはねえ。ごめんね、それじゃあまた、」
「…食べたいですって言ったら、困りますか?」
「うん?」
「なまえさんの料理、食べたいです。作り置きでも、」
「あらまあ…」
思わぬ可愛らしい反応に、おばさん度ましましの返しをしてしまった。実際少々作りすぎてしまい、明日の朝までこれかと考えていたところであったため、助かると言えば助かる。
「そうだなあ、でも温めなきゃだし……うん、じゃあ家で食べてきなよ。お皿返す返さないとかもやらなくて済むし」
「え」
なんだか、空気が凍った。常日頃学校中の女の子をキャーキャー言わせてるであろう整ったお顔が、がちりと固まっている。け、潔癖症なの?や、それなら他人の作った物を食べたいなんて言わないよな?なんなんだ、わからん。未知の地雷を踏んでしまったかもしれない可能性に怯える私だったが、花沢くんは無事再起動を果たしたようでほっと息をつく。どうした、勝手にアップデートでも始まってしまったのか?
「……じゃあ、お邪魔します」
「どうぞ〜」
その何かを決心したようなやけに真剣な表情、ちょっと意図分かんなくて怖いんだけどなに?
「お待ち遠様、嫌いな物あったり口に合わなかったりしたら、気使わなくていいからね」
「ありがとうございます、頂きます」
よ、用意してる間、ものすごく視線を感じた。キッチンに立っている私の後ろ姿を、なぜか花沢くんは、いたく熱心に見つめていたらしかった。ガッツリ目が合ったら気まずいことこの上ないから、一度も振り返れなかったけど。なんだろう、一人暮らしをしてる者同士だし、何か採点とかされてたのかな。なまじ独り身生活が長いせいで染みついてしまったズボラ癖を見られてたとか?キミだっていつかはこうなるんだからな、と心の中で言いかけて、いや……こんなイケメンなら独りにはならんか…と早々に言葉を撤回した。自分との格差をまじまじと見せつけられただけに終わった。むなしい。
「……ど、どうかな、大丈夫?」
「…美味しいです。なまえさんと暮らせる人は幸せですね」
「い、息をするようにそういう言葉が出てくるねキミは…」
あいにく、誰かと同棲するまでに至ったことは無い。友だちもまだ結婚はしてないし、別にそこまで焦る必要は…、私は何を言わされているんだ?内心首を振って、私も箸を動かした。うん、人様に出せる及第点。
「…ご馳走様でした」
「お粗末さまでした!」
花沢くんがあんまり見事に完食してくれたものだから、自分の食べ方は年上として大丈夫だったろうかと少しそわそわしてしまった。すごいなほんとに。私中学生の時こんな綺麗にご飯食べてたっけ。
「なまえさんは、僕が中学生だから部屋にあげたんですか?」
「えっ」
そろそろ帰る?と帰宅を促そうとしたまさにその時、花沢くんはそんなことを聞いてきた。穏やかにも見える笑顔だけど、台詞の内容も相まってどうにも感情が読みづらい。まさか、私は今から危機感を説教されるのか?でも確かに彼、私よりしっかりしてるからな……一度くらいガツンと言われた方が良いのかも分からん…
にしても、どう答えるべきなんだ?誰でも彼でも入れてる訳じゃないよ、なんて返そうと思ったけど、そういう話じゃないような気がしてきた。“中学生だから”って、もしかして、も…もしかして……そういう意味…?中学生だからまあいっかじゃなくて、危機感の話じゃなくて、まさか……中学生だから好んで中に入れたみたいな、そういう、私の性的嗜好の話をされているのでは…!?
「あっ……あのね、は、花沢くん、あの、自分の身体の危険とかそういう心配はしなくていいからね!?」
「はい?」
「いやあの、疑ってる人間にそういうこと言われても信用出来ないとは思うんだけど、わ、わたしは分別のある大人だから!」
「や、なまえさん、」
「美味しそうにご飯食べてくれたのはそりゃもう嬉しかったけども、ほ、ほんとそれだけだから!」
あれっ、むしろ疑惑が強まったのでは?でもこれで急に黙っても恐怖だよな?14才の男子中学生に自宅でみだらな行為、隣人の女を逮捕などという架空のニュースの見出しが頭をよぎって、私を余計に焦らせる。
「すみません、僕が聞き方を間違えました」
「え、えっ、あっ……うん…?」
混乱を極めた結果、そもそもこういう嗜好は法にも身体にもノータッチを徹底してこその、と肯定する方向に話を進めかけたところで、彼からストップがかけられた。ごめんこんな大人で。カリスマ反面教師です。
花沢くんの目に「拒絶」が浮かんでいたら立ち直れないな、と思って見ていられなかった彼の方に視線を戻すと、それどころか、なんというか……へこんでいた。ぐりぐりと自身の眉間を揉んでいる。若い子がそんな年季の入った動作をするんじゃないよ…
「は、花沢くん……ど…どういう感情、それ…」
「落ちこんでます」
「ええ… 」
つまり、やっぱあの“中学生だから”は、中学生だからいいと思ったのか、という意味だったんだろうか。大人びてるもんな、子供扱いが嫌だったのかもしれない。
この理解が実は当たらずとも遠からず、しかしそんな「お年頃だものね…」だけでは済まないものであったということを、私は追い追い知ることとなる。
「いえ、あなたがそういう人なのは分かっていたつもりです。今のは僕の聞き方が本当に悪かった」
「ええと、あの、うーん…?」
「やっぱりなまえさんにとって子供なんですね、僕は」
「……や、すごくしっかりしてると思うよ花沢くんは!子供だと思って侮ったこととかないよ!」
「なまえさん、それはとどめです」
「えっ」
返されたのは苦笑いだった。もう私、黙ってた方がいいんじゃないか。いたずらに少年の心を傷つけ続けている惨状に、こっちが頭を抱えたくなる。
「……難しいな。これ以上を求めるべきじゃないのは分かってるのに」
「…………」
堪えるような顔でそう言われて何も察せないほど、残念ながら鈍くはなかった。いやほんと、今よりあと……5つか6つくらい私の年が少ない頃だったらな、無邪気に舞い上がってたと思うよ。
きっと彼も、ここまで言ってしまえば私が察するだろうというのは、理解した上で言葉を発している。どうしたもんか、彼は私にいったい何を求めているんだろう。
「は、花沢くんのそれは、多分、その…」
「憧れを恋と勘違いするほどウブじゃないつもりですよ、僕は」
「…」
ですよね。むしろ人数だけなら私より……ではなく。いやまあ、勘違いじゃないの?的な方向に話を持っていこうとはしたけど、この高スペックな少年に憧れられるような要素を、私はそもそも持ち合わせていなかった。
「ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「な、なんでしょうか」
花沢くんは肝の座り方までもが中学生らしからぬようで、なんでか私の方がよっぽど動揺していた。マジでこんな、大人の女みたいな余裕が欠片も無いダメ人間のどこが……逆に、そこらへんを同級生感覚で見られてしまったのか?
「僕がなまえさんのそういう対象でないことは分かってますし、そこに今入ろうとも思っていません」
「う、うん」
「だけど、それは僕が中学生で、なまえさんが大人だからですか?僕が成人していて、単に6歳前後年下というだけなら、どうでしたか」
「あ、あー……なるほど、そう来る感じなのね?」
変に感心してしまった。アホ丸出しだよ。
シンプルに年齢差だけで考えたらどうなのか、という話らしい。確かにな、我々成人済にとって相手が学生か学生じゃないかという違いは大きいものな。高校生まではどうしても、自分がニュースの見出しになってる様が頭をよぎる。
…とはいっても、あまりピンと来ないのが正直なところ。なんと言われたって、今の私にとってそのくらい年下なのが、中学生である花沢くんな訳だし。
私と花沢くん、の図をいったん抜きにして、シンプルに6歳差の恋人だとか夫婦だとかそういうものを考えてみると、それはザラに居るよなあ、という感想に落ち着いてしまった。そう、年齢差自体は別にそこまでの問題ではないのだ。彼、多分それも分かって聞いてきてるんだろうなあ。
だからといって応える訳にはいかないのだが。ここで折れたら大問題だよ。
仮に4年後だか6年後だかになったとしても、中学生として知り合った彼がそういう対象になるかは……と、ここまで来ると申し訳なさすら感じてくる。花沢くん、ほんとうにどうしてこんな…。大人になった彼を待ち続けるほどロマンチックにもなれないし。や、ロマンチックか?これ。
「…花沢くんは、キミの気持ちを知った上で私に今まで通り接されるの、嫌?……まあ、さすがに今日みたく部屋に入れるとかは、しないように気をつけるけど…」
花沢くんが、私にとってお隣さんの好青年であることに変わりはないのだ。私が彼をどう思っているか以前に、彼を受け入れてはいけない立場であることを、十分理解しているところまで含めて、好青年。いやはや私も悪い大人になってしまったもんだ。多分、嫌とは言わないでくれるんじゃないかなあと、そんな予想をした上で白々しく聞いているのだから。
「……それでなまえさんが後悔しないといいんですけどね、」
見たことのないような雰囲気でどこか不穏に笑った花沢くんの、いつの間にやらちゃっかりと重ねてきていた手を、とりあえず曖昧に笑い返しながらやんわりと外した。どれだけ大人びてても児童と名のつく法律に守られてること、常に自覚しといてくれよな。
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