end.



「悟さん、朝ですよ、起きてください」

「うーん…あと5分…」

「さっきもそう言ってました。もう本当に起きないと、伊地知さん来ちゃいますよ」

「んー…おはようのチューは?」

「…したら起きますか」

「起きる」

「分かりました」

 唇と唇が触れ合うだけの軽いキスを交わすと、約束通り起き上がり身体をぐっと伸ばした。
その様子を見届けて寝室から出た私はテーブルに朝食を並べていく。

 ふと、そんな自分の姿が冷蔵庫に反射していることに気付き、思わず見入ってしまった。
 フリル付きのエプロンも、エプロンから覗く淡いラベンダー色のトップスも、スカートも。その全てが、私好みのものでは無い。
悪くはないが、自分では絶対に選ばないデザインと色味のそれらは全て五条さんが揃えたものだった。

 さしてブランドに明るい訳ではない私でも分かるような、有名ブランドで揃えられた洋服達。
上等なそれらは私にはどうにも不釣り合いで、そのアンバランスさは、そこに私の意思など無いことをまざまざと示している。


「今日も美味しそうだね」

「ありがとうございます」

「今日は和食なんだ」

「最近、お仕事忙しそうだから疲労回復に効くメニューを、と思ったら和食になりました」

「ふふ、愛されてるねぇ、僕」

「そりゃあ…悟さんは私の夫ですから」

「君と結婚して本当に良かった。僕は幸せものだよ」

「私も幸せです」

「あとは…家族が増えてくれたらもう何も要らないんだけどな」

「こればっかりは授かりものですからね…でも私は今が幸せなのでもう少し二人きりでも良いかなって思ってますよ」

「んもー、名前ってば可愛いこと言ってくれるね」

 笑い合う私達はどこからどう見ても仲睦まじい新婚夫婦だ。
 私達の出会いや結婚に至った経緯にロマンチックな何かがひとつでもあれば、理想の夫婦だったのかもしれない。

「悟さんだっていつも"名前と二人も悪くないけどね"って言ってくれるじゃないですか」

「まぁね。僕達交際期間って実質0日だから恋人としての時間って無かったでしょ。だからこういう何気無い瞬間が新鮮で愛おしいのは本当だよ。ただ目に見える愛の形?愛の結晶みたいなのが欲しいな、って」

「そうですね。…そしたら私、今度婦人科に行って診てもらいましょうか?排卵のタイミングとか分かってた方が妊娠しやすいですし…」

「あぁ、そうだね!それが良いかもしれない」

「そうですよね、そうしたら元々行ってた婦人科があるのでそこなら──」

「いや、医者は僕が手配するから大丈夫」

「え…でも、」

「だって君そんなこと言って何するか分かんないじゃん」

「な、何もしませんよ…!疑うなら誰か連れて行ったって良いですし…!」

「誰かって誰?見張りで付けてたあのー…なんだっけ、名前忘れちゃったけど最近入ってきたあの若い奴?随分仲良しだもんね」

「仲良しだなんて…ただちょっとお話する機会が多かっただけです」

「へぇ。アイツは全部ゲロったよ」

「っ!」

「あ、その反応、やっぱり二人で何か悪巧みしてたんだ」

「カマかけたんですか…!」

「もう、怒んないでよ。ていうかさ、名前が悪いんでしょ。いつまで経ってもそういうことするから。大体その目、ね。どんなに従順そうにしてたって目がまだ諦めて無いんだよねぇ。隙を見て何かしてやろうってのがバレバレ。余計なことはしない方が身の為だってまだ分かんないの?」

「ご、ごめんなさい……」

「まぁいいよ。今回は許してあげる。それで医者に診てもらうって話だけど、僕が用意した医者に僕と一緒に行こうね。大丈夫、腕の良さは保証するよ。それに女医だから君も安心でしょ?僕だっていくら医者とは言え知らない男に君の体を見られるのは嫌だからさ。ってそんな話してたらもう出る時間だ。そろそろ行ってくるよ」

「はい…行ってらっしゃい…」

「行ってきます」

 ドアの閉まる音と、五条さんの気配が消えたことで全身を支配していた緊張が解けた。
今すぐにでもその場に蹲りたい気持ちを奮い立たせ、何事も無かったかのようにキッチンへ向かった。
 どうせ五条さんは今この瞬間も私の様子をどこかで見ている。だから絶対、絶望している様子なんて見せてやらない。
何でもないふりをして、いつも通りの日常を過ごすのだ。

 とは言え内心、焦燥感に駆られている。
あの日、五条さんに捕まってしまった日。
五条さんが私に提案したのは売春でも臓器売買でも無かった。

『僕と結婚するっていうのはどう?』

 嬉々としてそう言った五条さんの言葉の意味が分からず──いや、意味は分かっていた。受け入れ難かったのだ。
恐らく、肯定以外の答えは用意されていない。
嫌だ、と言ったらどうなってしまうのか分からない。
それでも、どうしても受け入れられなかった。
ほんの僅かに芽生えていた筈の恋心はとうに消え去り、今はただこの男が怖い。
今ならまだ引き返せる、と恋心に蓋をしたあの頃ならば、戸惑いつつも受け入れられたのだろうか。

 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、五条さんは続けて口を開いた。

『僕と結婚したらお父さんの借金肩代わりしてあげる。名前ちゃん達にとっては気が遠くなるような額かもしれないけど僕にとっては端金だからね。とは言え汗水垂らして稼いだお金を無条件にあげられるほど僕はお人好しじゃないからそれなりの対価は欲しいんだよね。今のペースで返し続けてたら完済まで何年かかると思う?サラ金とか知り合いから借りた金は完済の目処付いてると思うけど闇金は利子が高いからさぁ、利子払うのが精一杯で返済が進まないってパターンが殆どなわけ。実際、名前ちゃんのお父さんの借金も全然減ってなかったよ。それなのにお父さん未だにウチの闇金から金借りてるみたい。あれ?知らなかった?あは、ごめん言っちゃった。まぁ、ショックだよね。寝る間も惜しんで働いてたのに減ってるどころか未だに隠れて借金してるなんてね。話逸れちゃったけどさ、その膨れ上がった闇金の借金とこの先付いていく利子、サラ金、人から借りた金、全部合わせたら完済まで何十年って掛かる計算なんだよね。だからその分の名前ちゃんの時間を僕に頂戴』


 気が付けば、私は頷いていた。
一度に流れ込んできた情報の量が多すぎて頭が上手く回らなかったせいもあるだろう。
しかし何よりも、これまで血の滲む思いで働いて、自分には関係の無い父の借金を返してきたというのに性懲りも無くまた父が借金をしていたことへの絶望や落胆、時間を犠牲にして馬車馬の様に働いても消えていく金、将来への不安。
全ての感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、そしてどうでもよくなった。

 五条さんと結婚するだけ。そうしたら、この苦しい毎日とはおさらばできる。
お金のことを気にして眠れない夜も無くなる。
借金が無くなるというなら、弟と妹のことも気掛かりではない。
これで全部が丸く収まるなら、もうそれで良い。


 そうして私は五条さんと結婚した。

 盛大に挙げた神前式と披露宴の列席者は主に五条さんの関係者で、私の友人、家族は誰一人招待されなかった。端から期待していた訳じゃない。けれど、ほんの少しだけ、会いたいと願った。きっとこの先は暫く、いや、もしかするともう二度と会えないかもしれない。お別れの言葉ひとつ直接言えないままさよならなんてあまりにも悲しかった。
 だけど、私の願いは叶わなかった。
 終ぞ列席者は現れず、家族からとても短い電報がひとつ届いただけだった。

 唖然とする私に、「君の家族にもお友達にも虎杖君を始めとする元会社の皆さんにも声掛けたんだけどね」と眉根を下げてそう言った五条さんの口元は僅かに笑っていた。
 私は、五条さんのことをとても優しい人だと思っていた。私を気にかけてくれて助けてくれる優しい人。例えどんな仕事をしていようと、心根は優しい人なのだと。
 今なら分かる。この男は決して優しくなど無いのだと。目的の為なら手段を選ばない、狡猾で強欲な人間なのだと。私に見せた優しい顔は全て偽りで、目的の為に演じる必要があったからそうしたまでのこと。どうしてそこまでして私を欲しがったのかは今でもよく分からない。五条さんは「気が付いたら君のことが好きになってただけだよ」と言うけれど、自分に自信が無いせいか、どうしても腑に落ちない。誰かにそこまでして手に入れたいと思われる程の価値や魅力が自分にあるとは到底思えないのだ。
 しかし、理由はもうどうでも良い。狡猾で強欲な男の手に落ちてしまった今は、これから先どう共生していくのか、それだけを考えれば良い。


 そうして始まった結婚生活は案外悪いものでは無かった。表面的な部分だけ見ればむしろ理想の結婚生活と言っても過言ではないだろう。
元々ハウスキーパーとして住み込みで働いていたおかげか、同じ家で暮らすことに抵抗は無かったしその辺は特に変わり無かった。
 変わったことと言えば、限られた極少数の人間としか連絡が取れなくなり、外出することが難しくなったことと下の名前で呼ぶようになったこと。
求められるまま本人の前ではそれに従っているが、頭の中では今でも五条さんのまま。これは私なりのささやかな抵抗でもある。

 そして、一番の変化と言えば何と言っても身体を重ねるようになったこと。
 夫婦になったのだから当然、と受け入れているが、私はこの時間があまり好きではない。気持ちが無いから、というのは大前提として、五条さんが避妊してくれないからだ。

 五条さんは子供が欲しいと言う。最低でも三人は欲しいよね、なんて、楽しそうに語る。
 けれど、私達は夫婦とは言え歪な関係で、そこに愛は存在しない。五条さんは私を愛してくれているようだけど、私は愛していない。
こんな歪な夫婦の間に、命を育んではいけない。

 しかし五条さんが避妊してくれない限り、今の私には避妊する術がない。
自由に外出出来ないせいで、ピルを貰いに行くことも出来ない。このままではいつか妊娠してしまう。

 焦った私が思い付いたのが、不妊治療の為と偽って婦人科へ行きピルを処方してもらうことだった。
一度診察してもらえばその後はオンラインで処方してもらうことも出来る。
家に薬が届くとなると五条さんにバレるかもしれない、と思ったが、最近よく護衛として来ている男性の一人と歳が近かったこともあり仲良くなれた。
五条さんと結婚した経緯を知っていた彼は私に同情したのか、自分に出来ることなら力になると言ってくれた。
だから、彼に協力してもらい、荷物の受け取りは彼にお願いして口裏を合わせてもらい、病院へは彼を同行させることを提案すれば外出できるのでは無いかと思ったのだ。

しかし結局全ては五条さんにバレていた。
勿論、五条さんに見付からないよう普段のやり取りでさえ細心の注意を払っていたというのに。

 今こうしている間も五条さんはどこかで私を見ていて、逃がすまいと目を光らせている。

逃げるつもりは、もう無い。
逃げ出したところで逃げ切れる自信も無ければ、家族や友人に危害が加わる可能性を考えるとそんな気は起きない。

 どうせ一生逃げ出せないなら、あの時のように諦めてしまえば楽になれるのだろうか。
全てを諦めて運命だと受け入れてしまえば、私は幸せになれるのだろうか。


 じくり、と胎の奥が痛んだ気がして、下腹部に手を当てた。
いっそこの胎が機能しなければ良いのに、と強く殴り付けてみても、結局、それは意味を成さない。

 こうして無様に胎を殴る私のことを五条さんは見ているだろうか。
見ていたとして、彼は何を思うのか。
私には分からない。それくらい、私は五条さんのことを理解していない。この先理解する気も、出来る気もしない。
そんな関係の私達が子供を作ろうとしている。
これがどれほどグロテスクなことであるかを、五条さんは気付かない。

 二回、三回と殴打していればそのうちスマートフォンが着信を知らせるのだろう。
気付かないふりをしていれば、護衛とは名ばかりの見張り達が私を取り押さえにくる。


 この物語の結末がハッピーエンドであることを願いながら、力を込めて己の胎を一打、また一打と殴るのだった。


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