26.
マンションを飛び出した私はタクシーを呼び止め乗り込んだ。行先はかつての会社の最寄り駅。いつだったか靴を買った駅ビルで虎杖君と待ち合わせしている。
虎杖君は今回の計画の最大の協力者で、暫く匿ってもらう予定だ。
五条さんから逃げたいことを伝えると、協力すると快く言ってくれた。
このままタクシーで虎杖君の家まで向かっても良かったのだが、日用品など幾つかの買い物をしていきたいのもあり駅で待ち合わせすることにした。
「お姉さん、あのマンションから出てきたけどあそこの住人さん?」
「えっと…一応…」
「へぇ、凄いねえ、お金持ちだ」
「いえ、全然…」
「全然てこたぁ無いでしょう。だってあそこ、芸能人だの経営者だの金持ちが住んでることで有名じゃないの」
「え、そうなんですか?」
「あら、知らなかったのかい?じゃあ、あの噂も知らないね?」
「噂?」
「ここだけの話だよ。俺達の間じゃ有名な話なんだけど、あのマンションの最上階にはヤクザが住んでるってんだ。それも、その辺のチンピラ上がりのヤクザじゃねぇ。この辺一帯を締めてる大きな組の若頭が住んでるらしい」
それは間違いなく五条さんのことだ。
まさにそのヤクザの部屋で一緒に暮らしていた、とは言わずに、知らないふりを続けた。
「そうなんですね」
「俺は乗せたことも無いし実際に見たことは無いんですけどね、お仕事終わりのホステスさんを乗せることは結構あるんですよ。そのヤクザってのがね、結構繁華街に顔出してるみたいでホステスさん達皆口を揃えて言うんです。イケメンだ、イケメンだ、って。でもね、怖い噂も聞くんです。自分の懐に入れた人間以外には冷酷で、目的の為なら手段を選ばない、って。だからお姉さんもあそこに住んでるなら、最上階に住む人には気を付けた方が良いかもしれませんよ」
◇
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたー、足元お気を付けて」
タクシーから降りると、自然と身体が伸びた。お喋りな運転手さんは嫌いではないが、話題が話題だっただけに気を張ってしまい疲れてしまった。
タクシーの運転手さんは私が五条さんの関係者だなんて当然知らない訳で、五条さんの悪い噂とやらを聞かされた。
数年前に周辺で起きた殺人事件。被害者がいくつもの会社を持つ大きなグループの会長だったことで当時世間を騒がせていた。
事件後すぐに犯人は捕まったのだが、その犯人は暴力団と関係ある人物で事件の裏には五条さんが絡んでいるとか何だとか。
正直言って、驚きはしなかった。
私だって子供じゃない。ヤクザがどんなものか全く分からない訳じゃない。
大きな組の、それも若頭ともなれば血生臭いことに関与していない方がおかしい。
血生臭い事実より、五条さんの二面性の方が恐ろしいと感じた。
私の前で見せる柔らかな笑顔、声。私の知らない冷酷で残虐な姿。
一体どちらの姿が本当なのか、それともどちらも本当の姿なのか。
どちらにせよ私にはもう、
「関係無いけど……」
「何が関係無いの?」
「……え」
突如背後から聞こえた声。それはここに居る筈のない人の声で。
聞き間違いであってほしい、と願いながら恐る恐る振り向いた。
「こんな所で会うなんて凄い偶然だね?」
「あ…あ……何で……」
「どうしたの、そんなビックリして」
「だって、今日は会合だからって…」
「あー、中止になっちゃってさ」
「中止……でも、五条さんのご実家ってこの辺じゃ
無いです、よね…?」
「うん。全然違うね」
「……まさか…」
「とりあえず帰ろうよ。こんな所で立ち話するのもなんだし」
「い、いえ、私この後用事があって、」
「あぁ、虎杖君?虎杖君なら来ないよ」
「え、あの。え?何で私が虎杖君と会うこと知って…ていうか来ないって…」
「まぁまぁ、それもちゃんと説明してあげるからさ。とにかく帰ろう。そこに車停めてあるから」
ここで五条さんに着いて行ったら、チャンスは二度と訪れない。そんな気がした。
上手い言い訳を探して頭を必死に回しているうちに、五条さんは私の腰に手を回して車へと誘導する。
「あ…ご、五条さん!」
「何?」
「あ…えっと…その…私行かなきゃいけない所があって」
「どこ?一緒に行くよ」
「いえ、一人で行きたくて…」
「ふぅん。じゃあ送ってあげる」
「大丈夫です、そんなに遠くないので」
「そんなこと言って本当は僕に内緒で遠くに行くつもりなんでしょ」
「そんなことしませんよ」
「どうかな。護衛に付けた二人には僕の許可は貰ってるって言ったんでしょ?でも僕は名前ちゃんから出掛けるなんて聞いてない。ってことは嘘付いたってことだよね?僕に内緒で虎杖君と待ち合わせしてどこに行くつもりだったのかな?何よりこの荷物の量で近場に遊びに行くなんて誰が信じると思うの」
「……ごめんなさい」
「それは何に対しての謝罪?まぁいいや、とりあえず話は家で聞くよ。これ以上変な嘘付くようなら流石に僕もちょっと見逃してあげられなくなっちゃうから大人しく着いてきてね」
それでも尚、逃げ出すチャンスはまだあるのでは無いか、そもそも私達が勝手に五条さんを悪者だと決め付けているだけで実際は違うのでは無いか。と、この時の私は愚かにもそう思っていた。
◇
「ご苦労様。もう今日は帰って良いよ」
「「お疲れ様でした!お先に失礼します!」」
勢いよく頭を下げた護衛の二人は、扉が閉まるまで頭を上げることは無く、二人の旋毛が私達を見送った。
この二人が居なくなったら、私と五条さんは二人きりになってしまう。何だか無性に心細くなった。この二人が居たところで、二人は五条さんの部下なのだから私の味方になってくれる訳が無いのに。
「うわ、凄い作り置きの量。一週間分くらいある?もしかしてこれ、罪滅ぼしのつもり?」
冷蔵庫を覗き込む五条さんは、"凄いねぇ"とか"美味しそう"と楽しそうに呟いている。
しかしこれがただの作り置きでは無くて私なりのせめてもの罪滅ぼしとお礼であったことを言い当てた声からは怒りの様な悲しみの様な形容し難い感情が滲んでいる気がした。
「……何度も手を差し伸べてくれたのに、こんな形で五条さんの元を去ることへの謝罪と、お礼の気持ち、というか…」
「そんな事しなくても僕に言ってくれたら良いんだよ。前も言ったでしょ?気になることは全部聞いてね、って。どうして名前ちゃんはいつも大切なことは僕に聞かないで勝手に決めちゃうかな」
「……言えませんよ」
「何で?」
「何でって……」
言える訳が無い。何をどう伝えれば良いのだ。相手は普通の人間では無いのに。
万が一、地雷を踏んでしまったら、怒りを買ってしまったら。想像しただけで恐ろしい。
「もう、そんなにビクビクしないでよ。そんなに僕が怖い?君にはこれ以上無いくらい優しくしたつもりなんだけど。あんな姿傑に見られたら一生揶揄われるんだろうなぁ…」
「…あ、あの、五条さん」
「うん、やだ」
「あ、え、まだ私何も…」
「辞めたい、でしょ。辞めて、家も出ていく、でしょ?」
当たりだ。そりゃあ、黙って出ていこうとしていたのだから大体は察しが付いているだろうけど。
「ダメに決まってるでしょ。僕から逃げて虎杖悠仁の家に居候させてもらう、なんてそんなの危なくて見過ごすわけにいかないよ。男は皆狼だよ?僕みたいに優しくて紳士的な人は少ないんだから。それから親友ちゃんの住む街で心機一転再スタート、だっけ?社会はそんなに甘くないよ?それにね、そっちにだって僕の知り合いや息の掛かった連中は居るんだ。逃げ切れると思うなよ」
びくり、と肩が小さく跳ねた。視線も声も、これまでに無いほどの怒気を孕んでいる。
「…あ、…あの……どうして知ってるんですか…わ、わた、私、そういう話は…家の中ではしてない筈なん、ですけど…」
「盗聴器、家の中にしか付けてないと思ってる?」
「……え」
「君らみたいな一般人が考えることなんて手に取る様に分かるんだよ。コッチは犯罪のプロだよ?詳しくは教えてやんないけど情報を抜き取る手段はいくらだってあんの」
「うそ、なんでそんなこと」
「だってそうしないと名前ちゃんすぐ逃げちゃうんだもん。周りの言うこと鵜呑みにして…いやまぁ大体当たってるんだけどさ。ていうか名前ちゃんの親友って何者?勘が良すぎて僕もびっくりだよ」
友人と虎杖君とこの計画について話をする時、家の中は勿論、メッセージアプリやメールを使った事も無かった。
五条さんは私の携帯を見ているし家の中はどこもかしこも盗撮盗聴されているという認識で生活していた。考えたくは無いが風呂場、トイレでさえも。
意識しないよう必死に努めて、適当な理由を付けて外出した隙に電話をする。跡を付けられてる可能性も考慮して防音対策のしっかりした場所でしか話さないという徹底ぶり。
ここまでしたのにどうしてバレたのか、不思議だった。
まさか、盗撮盗聴の他にも何かされていたなんて。
「っ、あの…聞いても良いですか」
「何でもどうぞ」
「…私達は、初めから全部五条さんが仕組んだ事なんじゃないか、って考えてます。…中々仕事が見付からなかったことも家を出ることになったのも父の…闇金のことも……でも、そんなことする理由が私には分からなくて…」
「分からない?嘘でしょ。本当は察しが付いてるくせに」
薄く笑みを浮かべた形の良い唇とは対照的に美しい瞳は冷たい光を宿していた。
全て見透かされている。そんな気がして、私は何も言えなくなった。
「あーあ。何で上手くいかないかな。名前ちゃんの親友ってマジで何?それから虎杖悠仁も。せっかく名前ちゃんは馬鹿で鈍臭いのに周りが無駄に勘が良いせいで台無し。あとちょっとで落ちそうだったのに。ムカつくから殺しちゃおうかな」
「っな、何、言って」
「僕って結構顔広いからさ、色んなとこに知り合いが居るんだよね。親友ちゃんが暮らしてる県にもオトモダチは結構居るからさぁ、あんまり僕達の邪魔するようなら解らせる必要があるかなあ…虎杖君だって恵の友達だって言うから大目に見てやってたけどこれは頂けないよね。まぁ、恵の友達だし流石に苦しませないやり方で処分するけどさ」
「しょ、処分って…!」
凡そ人に使う表現ではない。冗談でも決して使って良い言葉では無い。
しかし五条さんは淡々と、当然のようにそう言い放った。
私のせいで、優しい二人に何かあったら。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
「五条さんっ…私が、私が全部悪いんです…!二人は私に協力してくれただけで…だから二人には何もしないでください、何かするなら、その…わ、私に…してくださいっ…!」
声が、指先が、震えている。自分が何を言ってしまったのか、分からない程馬鹿じゃない。
二人の代わりに自分を差し出したのだ。殴られるかもしれない、犯されるかもしれない、いや、殺されるのかもしれない。
それでも私は、自分のせいで二人に被害が及ぶなら自分が犠牲になれば良いと思った。
「あは、馬鹿だねぇ。ヤクザ相手にそんなこと言って良いの?何されるか分かってんの?名前ちゃんは甘ちゃんだからさ、犯されるか殴られるか、まぁ精々殺されるか、くらいしか考えてないんでしょ?でもね、世の中には死んだ方が余程マシだ、って思うようなことっていっぱいあるの。お願いだから殺してくださいって懇願させる方法を僕達はいっぱい知ってるの。痛くて苦しくて、それなのに頭が可笑しくなることも死ぬことも許されない、そんなやり方を僕達はよぉく知ってる。君にそれが耐えられるの?」
「た、耐えられるとか、耐えられないとか…そんなことは分かりません、当然、されたことも無ければ想像も付きませんから……でも、私のせいで二人が酷い目にあうことだけは…絶対に駄目だからっ…」
「…へぇ。素晴らしい自己犠牲精神だね。ま、そうじゃなきゃ父親がギャンブルでこさえた借金自分が返してやろうなんて思わないか。立派なことで」
くつくつと喉を鳴らして笑う五条さんはとても楽しそうにそう言った。会話の内容は何ひとつ楽しいものではないのに。
これからどんな目に合わされるのか、想像すら出来ない。震える手を握り込んで、五条さんの言葉を待つ事しか出来なかった。
「あー…ムカつくなぁ…自分を差し出してまで守りたい程二人が大切なんだ…やっぱり殺しちゃおうかな……ふ、あはは、そんなに震えないでよ、冗談冗談。でもムカつくのは本当だからとりあえずさ、もうあの二人と関わるのはやめて?そしたら二人には何の危害も加えないって約束するよ」
「本当ですか…?本当に約束していただけるなら、二人とは縁を切ります…!」
「うん、じゃあ僕の目の前で今後一切関わらないって二人にメッセージ送って。送ったらそのままスマホは僕に渡してね」
「分かりました…」
五条さんの監視のもと、二人にメッセージを送った。巻き込んで申し訳無かったこと、五条さんとは仲直りをしたから安心してほしいこと、そしてもう二度と連絡を寄越さないでほしいこと。
指先が震えるせいで上手く文字が打てず、普段より随分時間が掛かってしまったが五条さんは穏やかな微笑みを携えたままそんな私の様子を見ていた。
メッセージを送信したあとは、言われた通りにスマホを五条さんに渡した。
「よく出来ました。約束通り、二人には何もしないよ。それからあとは…家族だね。家族にも連絡しとこう!急に連絡付かなくなったら親御さん心配しちゃうし捜索願いなんて出されたら僕としても面倒だし」
その言い方から、私はもう二度と家族にも会えないのだと悟った。
閉じ込められてしまうのか、どこか遠くへ売られてしまうのか、それとも。
「ん?何、どうしたの泣いて。何も今生の別れって訳じゃ無いんだからさ」
「……え。会えるんですか…?会わせてもらえるんですか…!?」
「うーん、それは名前ちゃん次第かな。ちゃんと良い子にしていられたら会わせてあげないこともないよ」
「良い子……あの…私はこれからどうなるんでしょうか…」
「そうだなぁ…どうしたい?」
「どう、って…」
帰りたい。家に帰りたい。そしてもう二度とこの人には関わりたくない。
しかし、五条さんの求めている答えがそれではない事は容易に想像出来る。
五条さんの元にいる前提で、どうしたいのかを聞いているのだ。
「し、死にたく無い、です」
「うんうん、死にたくはないよね」
「あ、あと、痛いのも、嫌です…」
「そうだよねー、僕も痛いのキラーイ」
「…う、売られる、とか、そういうのも…」
「売られる?臓器?売春?ま、どっちにしても嫌だよねー。てか、さっきからされたくない事ばっかりじゃん。僕が聞いてるのは"どうしたいか"なんだけど。思い付かないなら僕が提案してあげるよ」
「提案…」
「そう。君にとっても悪い話じゃないと思うんだけど──」
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