『僕と、結婚してください!』
彼の言葉が頭の中で反響する23時。
私は今日、ついにプロポーズされた。
お互いの誕生日でも記念日でも無い、何でもない日だったが、今日が大安なのを知って彼らしいと思った。
付き合って1年と少し。
同棲はしていないが、一般的な恋人がするように泊まりでデートをしたり旅行だって行った。
本性が見えることで有名な夢のテーマパークにだって行ったし、その上で彼の人間性は信頼できるものだと感じている。
結婚するなら彼と、彼を逃せばこの先は、と思っているのに、ほんの少しだけ迷いを感じている自分に気が付いてしまった。
それを誤魔化すようにプロポーズの言葉に頷いてみたが、得体の知れないモヤが消えることはなかった。
普通、こんな日は幸せで満たされて彼の傍に居たいと思うものなのだろう。
しかし私は彼から離れたかった。結婚について冷静に考えたかった。
冷静になれば彼との結婚を前向きに捉えられるような気がしていたのだが、帰宅してから数時間が経った今も迷いを拭えなかった。
疼痛を訴え始めたこめかみに顔を顰め、ベッドに潜り込んだ。
明日には今日の迷いが何だったのかと笑えていることを願いながら。
◇
翌朝、まだ明け方と言える時間に目を覚ましたのはあの夢を見たせいだった。
正確に言うと、"あの夢をベースにした悪夢"を見て、魘された挙句に飛び起きた。
パジャマが張り付く嫌な感覚はびっしょり汗をかいた証拠だ。
バクバクと煩く鳴く心臓を落ち着かせながら夢を思い出す。
それはいつもと同じ内容だった。途中までは。
あのふわふわの白い髪を撫でさすり、これは夢だと気付いた。
今日も何か進展があるのだろうか、と考えながら会話を流し聞いていると、ふと太腿に感じる重みが消えたことに気付き視線を下ろした。
やはりそこに白い頭は無く、正座した私が空間にぽつんと取り残されていた。
少年の姿を探すために立ち上がり首を左右に捻った時、体の主導権が幼児の私ではなく大人の私にあることに気付いた。
方向感覚が無くなる空間の中で立ち竦む私の足を何かが掴んだ。
ひっ、と情けない悲鳴が上がり、反射的に振り払おうと足をばたつかせるが手はびくともしない。
そのまま強い力で引っ張られると地面と思しき足元の空間へ引きずり込まれた。
咄嗟に息を止めたがそこは夢の世界、引きずり込まれた先でも呼吸に支障は無いようだ。
純白の世界から一転して濃紺のような、青を煮詰めてさらに焦がしたような気味の悪い空間に放り出された私は光を探して歩き回った。
そこに出口が無いことはなんとなく分かっているのに、どうしてもじっとしていられなかった。
出口が無いなら、と夢から覚める努力に気を向けても一向に覚める気配は無く途方に暮れた、その時。
『どこにいくの』
背後から幼い声が聞こえた。
振り向いた先には白い頭の少年が立っている。
相変わらず顔はよく見えないが、背格好からしてあの少年で間違いない。
良かった、と思うのに、どうしてか嫌な予感がする。
『ねぇ、どこいくの』
『あ……え、えっと…』
絞り出した声は幼い声では無く、少し低い大人になった私のものだった。
『にげられないよ。やくそくしたんだ』
『や、約束…?』
少年は容姿も声も全てが紛うことなく子供であるのに、自分より格上の存在だと確信させられる威圧のようなものを感じた。
『名前はおれのものだよ。かならずむかえにいく』
少年の言葉に脂汗が滲むのを感じる。
たかが夢。これは自分の記憶と知識から自分が創り出した物語。何も恐れることはない。
頭ではそう理解している筈なのに。
『絶対、逃がさないから』
突如耳元で聞こえた大人の男の声に飛び上がり、同時に夢から覚めた。
幽霊や化け物に追いかけられた訳でも、殺されかけた訳でもない。
ただ夢の中で少年と会話を交わしただけ。
最後の、耳元で男の声が聞こえたのは恐ろしかったけど、それを除けばなんてことは無い夢だ。
それなのにどうしてこんなにも嫌な汗が吹き出し心臓が煩く音を立てているのか。
プロポーズされたことによって不安定になった心が見せたのかもしれない。
結婚に踏み出せない私を、深層心理の私が引き留めるようにあんな夢を──と考え、そう言えばこの半年の間、あの夢を見る時は決まって"結婚"というワードが彼から出された時だった。
やはり、結婚について考えた時不安定になるせいで、と思ったが、そもそも私は結婚に対して後ろ向きでは無かった。
むしろ、彼とははじめから結婚を前提とした真剣交際。
彼の口から結婚を意識することを言われて喜びこそしても、夢に干渉する程不安定になるだろうか。
釈然としなかったが夢のことを考えていても仕方が無い、と考えるのは辞めた。
少しばかり丁寧な朝食を用意してテーブルに着く頃にはすっかり夢のことなどどうでも良くなり、休日をどう過ごすか、私の頭の中はそれでいっぱいになっていた。
◇
朝食を終えた私は普段よりゆっくり身支度をして家を出た。
悪夢のせいとはいえ、せっかく早起きしたのだ。
有効に使わなくては勿体ない。
いくつかの日用品が切れかかっていることを思い出し、それらを買い込むついでに街をぶらつくことに決めて駅へ向かった。
お昼は気になっていたカフェで済ませて、夕方前には帰宅してそのあとはサブスクで映画でも見よう。
少し夜更かしして明日はゆっくり起きて、そのあとは模様替えでもしようか。
ひとまず、来る季節へ向けて新しい服が欲しい、と繁華街へ繰り出した。
お目当てのショップをひと通り回り終わった頃にはすっかりお昼を過ぎていて、腹の虫が一生懸命鳴いている。
優柔不断な性格故に洋服1枚買うにもそれなりに時間が掛かってしまうのだ。
何も一着が数万から数十万するようなメゾンでお迎えする訳でもないのに、頭の中であれこれ考えてしまう貧乏臭さは一生治りそうもない。
流石に私だって〜5000円くらいまでのお洋服ならある程度テンポ良くカゴに入れられるが、今日1番のお目当ての場所は少し価格帯の高いお店だった。
万を優に超えるワンピースとそれに合わせてパンプスを購入したが、ふたつ併せて5万近い出費は私にとって決して安いものではない。
数十分もの間店内を彷徨きながら悩んだ末にワンピースとパンプスを買うことに決めたのは、彼にプロポーズされたからだ。
プロポーズを受けた以上、私達は当然結婚をする。
色々準備が必要だが、その中でも最も重要なのがご両親への挨拶だろう。
彼のご両親へはまだ会ったことがない。
結婚のご挨拶が初対面となれば気合いも入るというもの。
少しでも品が良く見えるように、また失礼のないように、普段なら滅多に入らない店を選んだ。
以前よりSNSで見掛けて可愛いとは思っていたが価格を見て躊躇していたのだ。
しかし"ご両親へご挨拶の為"という言い訳があれば踏み切れた。
その店のあとに入った馴染みのファストファッション店ではやけに安く感じて普段よりカゴへ放るスピードが早かった気がする。
そうして気が付けばいくつかの紙袋を抱え、久しぶりの散財に少々懐の痛みを感じつつも充足感でいっぱいになりながらカフェを目指して路地に入った時、"それ"は現れた。
「な……え、何これ…?人…?じゃ、ない…」
スマホの地図アプリに目を落としていたせいで気付くのが遅れた。
視線を上げた時、既に"それ"は居て私に背を向けしゃがんでいた。
人のようにも見える背中からは腕が3本ずつ、足はおそらく1本ずつあるが、此方を振り返った頭はじゃがいもみたいにゴツゴツと歪で、沢山の口のようなものが付いていた。
どこからどう見ても人には、いや、この世の生き物には見えない"それ"が恐ろしいのに、悲鳴をあげる事も逃げ出すことも出来ないまま立ち竦んだ。
"それ"が一歩、二歩、と足を動かし、こっちに来る、と思うと同時に"それ"は駆け出し私は死を覚悟した。
紙袋を抱えぎゅっと瞼を瞑り、せめて痛くありませように、と願ったが、何かが弾けるような音がしただけで、覚悟した衝撃は何も無かった。
「大丈夫ッスか!?」
代わりに快活な、しかし心配そうな男性の声がしてそっと目を開けると"それ"はもう居なかった。
恐る恐る振り向くと、どこかの制服を着た学生らしい3人の男女が居て、安堵からか今頃笑い始めた膝を落ち着かせる為座り込むと少女が駆け寄ってきてくれた。
「もう大丈夫よ。アレは居ないから」
「あ、あなた達が助けてくれたの?ありがとう…」
「あそこに居る黒いツンツン頭がね。怪我は無い?」
「うん、大丈夫…あ、あの、助けてくれてありがとう」
数メートル後ろで佇む少年2人へ頭を下げると、2人とも会釈で返してくれた。
"それ"が居なくなったのなら立ち上がってさっさと移動したいのに膝の震えは中々治まらない。
そんな様子を見た少女は『ゆっくりでいいわよ』なんて言ってくれて、おそらく十は離れているのに何て優しくてしっかりした子なのだろう、と感動した。
そんな私達の後ろで少年達が話を始めていて、距離がそう遠くないのもあり会話が耳へと入ってくる。
「センセー今クレープ食ってんだって。食い終わったからコッチ来るって」
「自由すぎる…俺達置いて居なくなったと思ったら…」
「あの馬鹿目隠し私達に呪霊祓わせて自分はクレープなんて食べてんの?許せないわね。私達も奢ってもらうわよ」
"馬鹿目隠し"というとんでもない渾名を付けられている、おそらく引率の先生を想像してみるが、小太りの中年男性が目の周りを黒い布…いや、アイマスクで覆ってクレープに齧り付いてる姿を想像してしまい、あまりの変態性に少しだけ笑ってしまった。
それが私の緊張を解したようで漸く膝の震えが治まった。
ゆっくりと立ち上がり、もう大丈夫だから、と少女に礼を伝えようと口を開くと同時に背後からやけに明るい声が聞こえてきた。
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