翌朝目を覚ました私は胸を撫で下ろしていた。
それは"あの夢"を見なかったからだ。
五条さんを心の中で拒絶しているせいでまた呪いが発動するのでは、と不安だった。
そして、また悪夢だったら、今度は一昨日見た夢よりも恐ろしいものだったら、と考えると中々寝付けず結局明け方近くまで寝れなかったのだがいつの間にか寝落ちていたらしい。
夢の内容など覚えていないほど爆睡していたようで、そりゃあ昨日は一日色んなことがあったもんな…と納得する。
先に起きたらしい彼の姿は隣に無くて、すっかり冷えたシーツの温度から随分早起きだな、と不思議に思いリビングへ向かった。
しかしリビングにも彼の姿は無く、そもそも家に人の気配が無い。
ふと二人がけの小さなダイニングテーブルにメモが置かれているのを見付け手に取ると、そこには朝方上司から連絡が入り急遽仕事になったこと、夕方前には帰れるからそれまでマンションに居たらどうかという提案が書かれており、休日出勤への同情と、昨夜押し掛けた事情を察する気遣いを感じた。
相変わらず1人で居たくない気持ちはあるが、彼が休みだったとしても今日は帰るつもりだった。
呪物。五条さんが私に渡したという、それ。
それを探し出して破壊なり然るべき場所で供養してもらうなりする為だ。
五条さんの話が本当だとしたら今も私の家のどこかにそれはあって、私を呪っている。
それがある限り私は五条さんとの繋がりを断てないし、彼との結婚を意識しただけで悪夢を見せてくるモノが、実際に結婚したら何を見せるのか、或いは実害が出てしまうのか、考えただけで恐ろしい。
メッセージアプリを開き、メモを読んだこと、一旦家には帰るがまたマンションに戻ることを伝えて手早く支度した。
ちなみに、昨日追加されたばかりの"五条悟"の連絡先は夜のうちにブロックして削除した。
電話番号を交換しなくて良かった、と心底思った。
現代の連絡手段の主流がメッセージアプリであること、人との繋がりを簡単に断てることを、今日ほど感謝したことは後にも先にも無いだろう。
◇
花と猫のエンボス加工が施されたブリキ缶の前で、覚悟を決めるために深呼吸をひとつする。
それは、実家から持ってきたいくつかの荷物のひとつ、私の"宝箱"だった。
約30分前、帰宅した私は真っ先にクローゼットを調べた。
無闇にそうした訳では無い。呪物の在り処に目処は立っていた。
先述した通りレトロなブリキ缶は私の宝箱で、幼い頃集めた"宝物"が眠っている。
まだ京都に居た4歳の頃、父がお歳暮で貰ったクッキー缶を大層気に入った私はそれを宝箱だと言って大切にしていたらしい。
最後にそれを開けたのは小学校に上がってすぐの頃で、引っ越す時に貰ったらしい手紙や小石、シール、カード等当時の自分にとっての宝物が詰め込まれていた。
それから一度もブリキ缶を開けなかったのは中身が退屈だったから。
小学校低学年とはいえ、既にそれらの"宝物"に魅力を感じられなかった。
しかし何故かそれを捨てようと思ったことは一度も無く、大学進学の為に家を出た時も、就職の為に今の家へ越した時も、"連れて行かなくては"と思った。
自分の記憶が確かなら、20年前最後にブリキ缶の蓋を開いた時、呪物と思われる何かは無かった筈だが、ひとつひとつを細かく確認した覚えもない。
呪物が小さい物なら缶の底、手紙の封筒に混じっていることも充分有り得る。
京都で暮らしていた頃から存在し、当時大切にしていた物が入っていて、中身が不明瞭なブリキ缶は呪物が隠されている可能性が一番高いと言えるだろう。
ブリキ缶を探すことに少々時間を取られたが、限られた収納スペース、さして多くない荷物のおかげで無事に見付けられた。
そして今、それをリビングへ持ち出しテーブルの上で睨み合いながら呼吸を整えているのだ。
「怖くない…怖くない…」
無音のリビングで自分の声だけが静かに響き、消えていく。
この中に本当に呪物があって、それを取り出し持ち出したら昨日遭遇した"アレ"みたいな化け物が現れるんじゃ…と想像してしまい手が震えたが、今更やめる気はない。
化け物が現れることより、自分が呪われ続けていると知りながら怯え暮らす方が余程嫌だった。
手汗をかいた手のひらをシャツで拭ってブリキ缶に手を掛ける。
エンボス加工で浮き上がった猫が笑っている。
「……うわぁ…懐かし……」
カパッと軽快な音を立てて開いた缶の中には記憶の通りシールやカード、カラフルな封筒、どうして宝物だと思ったのか今となっては謎の小石が詰められていた。
それらに描かれたキャラクターや施された加工はどれも自分が幼い頃流行ったもので、懐かしさに一瞬目を細めたが真の目的を思い出し中身をひとつずつ取り出すことにした。
呪物と言われて一番に思い付くのは人形だが、私が持たされている呪物はどんな形の物なのか。
大人になってから二度も引越しをしている私が気付かないのだから余程小さい、目立たない物なのだろう、と想像しながら一番下にあった封筒を手に取った時、明らかな違和感を感じた。
和紙の様な厚紙で作られた封筒。
うっすらと花の加工が施されたそれは子供が使うには違和感がある。
何より、中身の厚さや感触、重みはどう考えても紙では無い。
恐る恐る封を開き封筒を傾ける。
ぽとり、と手のひらに落ちてきたのは小さな巾着のようなものだった。
「……何これ……」
平べったい匂い袋大のソレは随分年季が入っているようで、紐はボロボロに劣化し今にも千切れそうだ。
何より異質なのは袋にこびり付いたシミ。
黒に近い茶褐色が袋を染め上げている。
濃淡があって、所々白っぽい布地が見えることから模様でも染めたのでもなくシミなのだとすぐに分かった。
これは血なのでは無いか、と考えた瞬間背中が粟立ち、住み慣れた自分の部屋だというのに恐ろしく感じて散らかした荷物もそのままに家を出ることにした。
とにかく1人で居たくない。
どこでも良いから人が居る場所、ファミレスかカフェにでも行こう。
そこで夕方まで暇を潰して、少し我儘を言うことになるが彼に迎えに来てもらおう。
そして全てを話して彼にも協力してもらって、呪物は然るべき場所で供養してもらう。
本当は見付けた時点で持ち出しそのまま捨てるか神社にでも持ち込もうと思っていたが、今は一刻も早くアレから離れたい。
アレはあとで彼に付き添って貰って回収しよう。
暫くはこの家にも帰らない。
彼の家に泊まらせてもらう。
着替えを詰め込む余裕もなく、たまたまテーブルにあったメイク道具だけをトートバッグに押し込み、玄関へ走った。
昨日買ったばかりのパンプスに足を突っ込むと踵が引っ掛かったが、それを指で直す余裕すらなく爪先を床に叩き付けた。
数万円もしたパンプスだ。普段なら絶対こんなことはしない。
しかし今はどうでも良かった。
パンプスに傷が付くことなど瑣末な事だ。
勢いよく開いたドアの先には雲ひとつない青空が広がっていて、どこまでも青い空と、ドアの先に広がる人々が生活を営む音や風景は私を安心させてくれた。
だからだろうか。
開いたドアの向こう側、隣室と自室を繋ぐ通路の真ん中に空と同じ色の瞳を持つ男が立っていることに気付けなかった。
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