明日を振り向き哭くのなら
父と子が初めて対面した瞬間を、私は一生忘れられないのだろう、と思った。
茶の間の襖を開いた時の五条の顔、私の腕に抱かれた息子を見留めた時の顔、そして「びっくりするくらい、僕にそっくりだね」と言って笑った顔。
恐る恐る息子を抱き留めた腕は頼りなく、ただの新米の父親だった。
やや過敏な部分がある息子も感じるものがあるのか落ち着いた様子で大人しく抱かれている。柔らかな顔で自分と同じ髪の色をした赤子に笑いかける姿はどこからどう見ても親子の穏やかな時間であった。
息子に父親は居ない、と覚悟を決めた筈なのに、息子の父親は五条なのだと認めざるを得なかった。
「はあ……どうしよう、めちゃくちゃ可愛い」
「うん。可愛いよね。私も生まれた日から毎日思ってる」
「……僕もこの子が生まれてくるのを見守りたかった、なんて…ごめん、こんなこと僕が言う資格ないのは分かってるんだけど」
父親の腕の中で小さな手を握っては開き、口元に当てては吸い付き、それが本能的な動きであるとは理解していても遊んでいるように見える息子を愛おしそうに見つめながらぽつりと呟いた五条に、何と声を掛けるべきか分からなかった。五条の言う通り、そんなことを言う資格は無いと思うのに、それを口にする気には、なれなかった。
◇
「それじゃ……また、会いに来てもいいかな」
「……ごめん、今すぐに良いとも嫌とも言えない。少し、考えさせてほしい」
「そう、だよね。分かった。会いに来ても良いって思ってくれたら連絡ちょうだい」
「分かった」
「本当に、今日は急に押し掛けてごめん。じゃあ、また…」
「うん。気を付けて」
がらがら、と控えめな音で引き戸が閉められ五条の姿が見えなくなると、ふ、と膝から力が抜け落ち思わずその場にしゃがみ込んだ。
思っていたよりずっと気を張っていたらしい。今になってどくどくと鼓動は脈を打ち、体は熱く、嫌な汗が滲んだ。それでも、息子が父の温もりに触れたこと、五条が息子の誕生を喜び受け入れたことに安堵している自分がいる。
これからどうしていきたいのか、自分でもよく分からなかった。
「……あの人、帰ったの?」
「お母さん…帰ったよ」
「そう。…大丈夫?変なこと言われてない?」
「変なことは言われてない。…認知して養育費払うって言われた。それから…また会いに来ても良いか、って…」
「それは…、ナマエは何て答えたの?」
「何とも…養育費払ってもらえるならラクになるなって気持ちはある。認知してもこの子の親権を主張する気はないみたいだし…でも、そんなのいつ気が変わるかなんて分からないし…でも、この子のことを考えたら一緒に暮らしてなくてもたまに会うだけでも父親が居た方がいいのかな、とか…もうよく分かんなくて」
纏まりのない言葉に頷きながら耳を傾けてくれた母は、私の手をぎゅうと握ると幼子に語り掛けるように優しく微笑んだ。
「大丈夫。大丈夫よ。ナマエがしたいようになさい。子供はね、お母さんが笑ってることが一番幸せなの。それに、混乱して当然よ。焦らなくて良い。自分はどうしていきたいのか、ゆっくり考えていけばいい」
皺が増え、白髪が目立つようになった母は、私が泣き虫だった頃と変わらない優しい目をしていた。どんなに時が経とうと親にとって子供は一生子供のままで、かけがえの無い宝物なのだ、と母の目が物語っており、目頭が熱くなった。
「ありがとうお母さん。ゆっくり考えてみる」
◇
ブー、ブー、と激しく動き出した端末に肩が跳ねた。子供が起きないように、とマナーモード設定にしているのに、木製の机の上ではその意味を成さないほど大きく震えていた。慌てて手に取った端末の液晶には五条悟の文字。またか、という気持ちと、タイミングの悪さに溜息を吐いて、画面をタップした。
「もしもし」
「あ、もしもし僕だけど」
「うん。どうしたの?」
「今、家?」
「そうだけど」
「良かった。あと五分くらいで着くから、ピンポン押したら開けて。じゃ」
「え、はぁ!?ちょ、五条、…切られた」
端末の画面はすっかり、見慣れたホーム画面に戻っている。通話時間、約20秒。五条の突拍子もない言動には学生時代から散々振り回されてきた。おかげさまで、何の前触れもなく"五分くらいで着く"と言われても、さして驚きはしない。驚きはしないが、面倒だと言うのが正直なところ。
それもそうだろう。大前提として、五条は私を裏切り浮気をした元恋人。私は五条と別れ、五条は新しい恋人と別れた。とは言え、思い出せば腹は立つし悔しい気持ちも未だにある。顔を見て何も思わない訳が無いのだ。
加えて、息子の存在を認知し養育費を払うという五条の申し出にきちんとした答えを出せないでいることも面倒に思う要因だった。
五条が初めてこの家を訪ねて来た日から一ヶ月が経とうとしている。あれから、電話やメッセージは頻繁に来るものの、具体的な話をすることは無かった。助かったと思う反面、いつか面と向かって話をされるのだと思うと憂鬱で仕方が無く、そして今日がいよいよその日かと思うと、面倒さと憂鬱さが押し寄せ、大きな溜息が溢れた。
電話が切れて、いや、切られてからきっかり五分後に五条は現れた。
「ヤッホー、久しぶり。元気してた?」
「元気だけど…何、いきなり。電話は切るし」
「メンゴメンゴ。もうすぐそこまで来てたから電話で話すより直接話した方が早いかなと思って」
「いや、普通の人はその前に──って五条に普通を求めることが間違いね…それで、用件は?」
「堅いねぇ。えーとね、まずはハイ、これ。海外出張のお土産。そんでコッチがチビのオムツと洋服でしょ、そんでコレが」
「ちょーっと待って!ストップ!言葉が足りないよ!何、お土産渡しに来たの?もう、いいや、とりあえず一旦中入って」
私の質問に答えているようで実は全く答えていない五条に、話が長くなる気配を察知し中に入るよう促すと、五条は"してやったり"とでも言いたげににんまりと口角を上げた。
「お邪魔しまーす。あれ。今日ご両親は?」
「居ないよ。二人とも仕事」
「ふぅん。日中一人って大変?」
「うーん…そりゃ、ラクでは無いけど。でも多少は寝る時間も延びてきて私も生活リズムが掴めてきたから前よりは大変じゃないかな。あ、冷たいお茶でいい?」
「ありがとう。それで、その、チビは?」
「寝てる。五条から電話掛かってきた少し前に寝ちゃった。だから、どんなタイミングで電話してきてんの!ってちょっとムカついた」
「あ、ごめん。そういうの全然考えてなかった」
「いや、冗談。あの子の一日のルーティンなんて知ってる訳ないんだから仕方無いでしょ。それで。改めて、何の用?お土産を渡しに来ただけじゃないんでしょ?」
「…ちゃんと話がしたくて。これからのこと。…本当は会いに来ても良いよってナマエから言ってもらえるまでは、って思ってたんだけど…」
「うん。…私も中々決心が付かなくて、話し合いの機会を設けられなくてごめん。…認知のこと、だよね」
心地の悪い静けさが茶の間を支配する。古い壁掛け時計の針の音だけが静かに時の流れを告げている。
「…前も言ったように、認知したあとで親権を主張したりあの子を五条家のしがらみに巻き込むような事はしない。させない。約束する」
「…私、あの日からずっと考えてたんだ。何が一番あの子にとって良いのかなって。正直、お金の面では頼らなくたってやっていける。そりゃあ、お金はいくらあっても困らないから貰えるなら有難いけどね。でも、知っての通りこれでも一応、準一級術師だから。じゃあ、お金を除いて五条にあの子を認知してもらうメリットって何かな、って考えたの」
相変わらず茶の間には時間を刻む音が響いている。普段はさして気にならないその音も、今はやけに大きく感じて煩い、と思った。
「考えだしたら案外たくさん思い付いたの。あの子は男の子だから、成長していく中で女の私には分からない悩みとか、言い出しにくいことも出てくるだろうなって。そういう時、やっぱり同性の親が居た方が良いのかな、とか、あの子の見た目からして見る人が見れば五条の子供だっていうのは一発でバレるじゃない?そうなった時に、父親である五条と関わりがあった方が傷付かないで済むかな、とか、もしこの先術式が発露したら、とか…とにかくね。案外メリットはあった」
「…それじゃ、」
ぱあ、と分かりやすく表情が明るくなった五条が何かを言いかけて、それを制止するように、でもね、と続けた。
「これはあくまでも、私の想像の話。実際何が息子にとって良いのかなんて私には分からない。…お母さんに言われたの。子供にとって一番の幸せは親が笑ってることだ、って。…私、五条と関わってたら…笑えない気がするの」
「!それ、は…」
「きっといつまでも思い出しちゃうの。五条のことが好きとか嫌いとか、未練があるとか無いとかの話じゃなくてね、シンプルに嫌な思い出として思い出しちゃうと思うの。そしたら私、きっと、幸せじゃない。心から笑えないの。だから──」
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