水色の証明
私の可愛い宝物がこの世に産まれ落ちた日は、昨年から続く暖冬のせいで例年より早い開花宣言がされた日だった。
臨月を目前にして産休に入った私は、高専から遠く離れた実家へ身を寄せていた。所謂里帰り出産だ。東京で一人で産む、と意気込む私を説得したのは母だけでは無かった。
「出産は本当に命懸けなんだよ。こんなに医療が発展した現代でも毎年出産で命を落とす人が居る。それは自分には関係の無い話、じゃない。誰だってそうなる可能性があって、母子共に安全に産まれてくることの方が奇跡なんだ。今は自分だけの身体じゃないんだよ。ナマエに何かあったら子供だって危険なんだよ。子供の為にも里帰り、しなよ」
"一人で産んで育てる"ということに拘りすぎて意地になっていた私の心を解したのは硝子ちゃんの言葉だった。
母に連絡を入れて地元の産院を予約して、産休と同時に帰った実家は酷く懐かしかった。思い返せば、中学を卒業して以来、実家に一週間以上滞在することは初めてだ。忙しさにかまけて二年もの間帰らなかった私を両親は暖かく迎えてくれた。
二年ぶりに顔を合わせた両親は酷く老けて見えた。苦労を掛けてきた、と思う。自分の娘が中学卒業と同時に"呪い"という自分達には認識出来ない"何か"を命掛けで祓う呪術師になると言って家を出て、それから約十年後には未婚の母になる、なんて、我ながら親不孝者にも程がある。
それも、父親があの五条悟だなんて。術師の家系、或いは両親のどちらかでも呪術師だったなら話はまた変わっていただろう。五条悟なら仕方ない、むしろ未婚とはいえ五条悟の子供を身篭れるなんて幸運だ、とまで言われていたかもしれない。しかし、両親にとって五条は、私の同期の一人でしかない。こうなった経緯を話した時、父は憤り母は言葉を詰まらせた。電話越しに泣いているのだと察して、胸が締め付けられた。
子を産み母になった今なら分かる。子供の苦労というのは何よりも辛いものなのだ。
すうすうと小さな寝息をたてる我が子の柔い髪を撫で付けながら、どうかこの子は余計な苦労は知らずに健やかに生きて欲しい、と願う。
父親と同じ白髪を持ち、透き通るような白い肌と幼いながらに目鼻立ちの整った顔をしている我が子は、どこからどう見ても五条悟の子供そのもの。
仮に五条に見付かってあぁだこうだと騒がれたところで口を割るつもりは無いし、親権が欲しいと言われたところで渡してやる気は毛頭ない。まぁ、可愛らしい彼女に夢中の五条がわざわざ自らコブ付きになる事は無いだろうけど、何せ相手は御三家だ。優秀な五条の血を引く子供は一人でも多く欲しいだろう。
どうかこの子は術式に恵まれませんように。強くそう願う私の思いを知ってか知らずか、富士型の小さな唇が、きゅ、と吊り上がり、小さな微笑みを浮かべた。それがまだ感情を伴わない反射的な微笑だと分かっていても、息子が応えてくれた気がした。
「──、──!……から、……」
そんな穏やかな午後のひと時を壊すように、母の張り上げた声が聞こえた。それは庭の方から聞こえてくるようで、言葉までは分からないものの興奮していることだけは伺える。
穏やかな母が声を張り上げるなど滅多にない事で、二十数年娘をやっている私ですら殆ど見たことがない。そんな母が大声で必死に何かを訴えている。
何かが起きたことは明確だった。
眠る我が子を起こさないよう、そっと立ち上がり、静かに部屋を出る。なるべく足音を出さないように、けれど出来るだけ早く。
そう広くはない実家の奥の部屋から玄関まで、時間にしたらほんの数十秒、1分にも満たない僅かな時間。しかしそれがどうにも長く感じて、私を焦らせた。
どうか、お願いだから母に何もありませんよう。間に合えばどうにかなる。これでも、妊娠出産のブランクはあれど現役術師なのだ。並のモノなら人だろうと呪霊だろうと、どうにか出来る。
そうして、辿り着いた玄関の昔ながらの引き戸を躊躇なく引き開けた私の目に飛び込んできたのは──。
「っ、え……五、条…?」
「、ナマエ!」
「ナマエ、ダメよ!お母さんが話付けるから、出てきちゃダメ!」
興奮した様子の母が私の声に反応して振り向く。その母の眼前には、アイマスクに黒い上下という見慣れた格好では無い、私服姿の五条が立っていた。
母の様子から五条が何者かは分かっているようだが、母と五条に面識は無い。写真すら見せた記憶が無い。何だか嫌な予感がした。
「……お母さん、大丈夫。私に話させて」
「でも…!」
「大丈夫だから。…五条、とりあえず家上がって」
「…ありがとう」
五条は母に会釈をすると、母の横を静かに通り過ぎ私に続いて家に上がった。音も無く静かに革靴を脱ぎ揃える所作に無駄が無くて、改めて育ちの良さを感じる。
「…ここでちょっと待ってて」
「…うん」
普段の騒々しさが嘘のように大人しい様子を見ると、ただ同期の子供の顔を見に来ただけという訳では無さそうだ。
五条を通した居間を出て引き戸をそっと閉めると途端にどっと嫌な汗が吹き出して、じっとりと額を湿らせる。
招かれざる客とは言え、最低限のもてなしはしなければならない。通年を通して我が家の冷蔵庫に常備されている煮出しの緑茶をグラスに注ぎ、個包装の菓子を小さなカゴにそれらしく盛り付け、盆に乗せて居間へと戻る。
「お待たせ」
「いや、ごめん急に押し掛けて」
静かな空間の中で、グラスを置く音がやけに響いて聞こえる。
「……改めて久しぶり。元気そうだね」
「五条も元気そうで」
「まぁね。…仕事はいつ復帰すんの」
「…どうだろう、少なくともあと半年は戻らないかな」
「そっか」
核心を突かない曖昧な会話。お互いに対峙している理由は分かっている筈なのに、それを切り出せないでいる。このままやり過ごさせてくれないだろうか、と願いながらグラスに口を付けた時、五条が小さく長い息を吐いた。
「あのさ」
「…うん」
「…子供、産まれたんだってね。おめでとう」
「…ありがとう」
「……僕の子、なんだよね?」
「…どうしてそう思うの」
違う。と即答出来なかったのは、五条の声色や視線から確信を感じたからかもしれないし、昔からあの宝石のような瞳に見つめられると嘘が付けなくなるからかもしれない。ともかく、五条は全てを知っているのだと、確信した。
「そもそも、オマエが妊娠してることを知った時から違和感はずっとあったんだよね。オマエは良くも悪くも真面目だから浮気は無いだろうし、だからって僕と別れてすぐに行きずりの男と、ましてや避妊もしないで寝るなんて有り得ないでしょ、って。硝子が頑なに『知らない、話したくない』って詳細を教えてくれなかったことも可笑しいと思ってた。で、今日、オマエのお母さんの反応で確信したよ。名乗ったら『どの面下げて…!』って言われちゃってね。僕とオマエが付き合ってて別れたこと知ってたとしても、普通ならその言葉は出てこないでしょ。ていうことは子供は僕の子で、ナマエのお母さんはそれを知っている。どんな風に聞いてるのかは分からないけど、お母さんからしたら僕は妊娠中も産まれた時も音沙汰無かったくせにいきなり実家に押し掛けてきたロクデナシだもんね。そりゃあ今更どの面下げて、って思われて当然だよ」
焦るでもなく淡々と、しかし何時ものような軽薄さは微塵も感じられない声色は酷く私を怯えさせた。喜びでも怒りでも無い。五条の感情が読み取れない。幾度となく想像した最悪の結末が訪れるのでは無いかと思うと指先が震えた。
「あの、…あの子は確かに、五条と私の子。だけど、あの子に父親は居ない。あの子は私の子供。認知してとか養育費払ってなんて言わないから。高専にも戻らない。もう二度と五条と、いや、呪術界と関わらない。だから、だからどうかあの子を奪わないで」
絞り出した声は掠れ、震え、自分のものでは無いかのように上手くコントロールが出来ない。毅然とした態度でありたいのに、自分の意志とは裏腹に目元は熱くなって、きゅう、と締め付けるような痛みを伴い視界をぼやけさせる。
泣くなんてみっともないと思うのに、息子を奪われないのなら泣き落としだろうがなんだろうが構わないと思えてくる。
「奪う?…認知して養育費を払うのは父親として最低限の責任だからオマエが嫌だって言ってもさせてもらうよ。で、何を勘違いしてんのか知らないけど、オマエと子供を引き離したりするつもりはないよ」
「…え?」
「大方、僕の血を引く子供を五条家の跡継ぎ候補として引き取りたいから会いに来たとか思ってるんだろうけど、全然そんなの一ミリも考えてないから。僕が呪術界の保守的な考えにうんざりしてるのはオマエもよく知ってるでしょ」
「じゃあ、なんで…」
「なんでも何も、自分の子供の顔を見たいと思うのは当然じゃない?」
「…でも、別れた恋人が勝手に産んだ子供なんて…それに五条には新しい恋人が居るでしょ。いくら五条は何も知らなかったとは言え、私が五条の子を産んだなんて知ったら彼女凄く嫌がるだろうし…」
「アイツとは別れた」
「え…?別れた?あんなに仲良さそうだったのに…?」
「あれ、硝子から聞いてない?僕達全然上手くいって無かったんだよね。向こうは上手くやれてると思ってたのかもしんないけど、僕は…ごめん。オマエの前でこんな話無神経だった」
「…五条が無神経なのは今に始まったことじゃないでしょ。まあ、上手くいってないらしいっていうのは硝子ちゃんから聞いてた。でも、あの子を見る限り五条を手放すつもりは無さそうだったからこんなに早く別れると思ってなくて」
「ぶっちゃけ中々納得してくれなくて別れ話は拗れに拗れたけどね。…だから、その、僕にも父親としての責任を果たさせて欲しいっていうか…」
「…そ、れは……」
「…僕がしたことを考えたら今更やり直したいなんて言える立場じゃないことは分かってる。でも、自分の子供が居るって知ってて放っておくことは出来ないから」
真剣な眼差しが、言葉が、声色が私の決心を揺るがした。五条にされたことを思えば簡単に許せる訳はなく、いくら浮気した挙句に選んだ女と別れたと言われても、一度失った信用が戻るわけでもない。
けれど、子供の立場になって考えてみれば両親が揃っているに越したことはないだろうし、五条に実子として認めてもらい養育費を貰えたなら子供に充分な生活をさせてやれる。
でも。今は跡継ぎに興味が無くてもいつか事情が変わったら。子供が大きくなって、両親と三人で暮らしたいと言い出したら。
どうしても簡単に頷くことは出来なくて、押し黙る私に五条が何かを言おうと口を開いた時。
「…あ、泣いてる…」
「本当だ…元気な声だね」
「元気過ぎるくらいだよ。ごめんちょっと行ってくる」
「あ…うん」
「……会ってみる?」
「え…!会わせてくれるなら、会いたい」
五条に息子を会わせるつもりは無かったのに、どうしてそんな言葉が出てきたのかは自分でもよく分からなかった。多分、私の中にある迷いや善心がごちゃ混ぜになって勢いで出てしまったのだろう。それでも、心底嬉しそうに笑う五条の顔を見ていると悪い気はしなかった。
「じゃあ、連れてくるからここで待ってて」
「分かった。ありがとう」
穏やかな顔で笑う五条を久しぶりに見た気がする。昔はむすくれた顔の下に、今は貼り付けたような軽薄な笑みの下に隠された五条の芯の部分は、心を開いた極わずかな近しい人間だけが見れる特別なもので、私はそれが大好きだった。けれど今は、その芯の部分の一等特別なところをあの女にも触れさせたのだと思うと、気分が悪くなった。
これ以上五条の顔を見ていたくなくて、後ろ手で襖を閉めると自室へ向かう足は自然と急いだ。
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