虚実の膜で罪を孕んで
妙に腹の虫の居所が悪い一日だった。普段なら気にも留めないような些細なことで腹を立てているうちに、生理前特有のホルモンバランスの乱れからくるものだと気付いた。
職業柄激しく動くことが多いせいか、規則正しく生理が来ることは少なく、こうして心身の不調から察することが多い。こんな日はなるべく人に会わないことが一番だが、そうもいかない訳で。
「洗濯物ちょー溜まってんじゃん。うわ、待って風呂もこれ最後に掃除したのいつ?あちゃー、カビ生えてるよ…もう、ちゃんとしてよね。僕より時間あるんだしさぁ」
脱衣所から聞こえてくる小言は同棲して2年になる恋人、悟のものだった。愛おしいと思っている声も飄々とした話し方も、今はただ鬱陶しく耳触りに感じてしまう。
それにしたって、私の情緒が不安定だから、というのを抜きにしてもこれは、中々に人の神経を逆撫でする言い方では無いだろうか。
「…私だって任務で忙しかったし。それにちょっと体調も良くなくて…治ったらちゃんとやる。…けどそんなに気になるなら悟が自分でやれば良いじゃん」
つい、反抗的に言葉を返してしまった。もう少し柔らかく、例えば冗談を混じえて伝えれば良かったのかもしれない。しかし前述の通り、私だって任務続きで体調も優れなかったのだから腹が立つのも仕方ないだろう。
「はー?僕だって忙しいんですけど。オマエの倍は任務詰め込まれてるし疲れだって溜まってるんですけどー?」
「っ、分かってるよ!でもいつもはちゃんとやってるでしょ!?体調悪いのかなとか家事に充てる時間無いのかなとか想像出来ないわけ!?」
「うるさ。声荒げんのやめてくんない?折角明日休みだからゆっくりしようと思ってたのにオマエと居ると休まんないわ」
"オマエと居ると休まらない"
その言葉は私が不満を爆発させるトリガーには充分で、沸々と湧き出した怒りは涙となって溢れ落ちた。
「うっわ、泣くなよ。僕が悪いみたいじゃん。てか都合悪くなると泣くの辞めろよマジで。一緒に居ても疲れるだけだし僕今日はあっちに泊まるから」
徐にソファから立ち上がった悟は必要最低限の荷物だけを手に家を出て行った。
悟の言う"あっち"とは高専敷地内にある社宅のことで、多忙な悟は私と同棲を始める前はそこで暮らしていた。私達が暮らすマンションは高専から差程離れていないが悟の忙しさは次元が違うので帰宅出来ない日や数時間仮眠が取れれば良い方、なんてことも少なくない。その為、マンションを借りたあとも社宅はそのままで、そこに泊まること自体は珍しくない。こんな理由でそこに泊まるのは流石に初めてだが。
悟は良いよな、と思う。気軽に出て行く先があって羨ましい。私はと言えば元々住んでいたアパートは同棲すると同時に引き払ってしまったし実家があるのはギリギリ関東の田舎町。出て行くことも出来ずに喧嘩の発端となった散らかった部屋で過ごす他ない。
時間が経って冷静さを取り戻し始めると、自分にも落ち度があったと気付いたが、それでもやっぱり悪いのはデリカシーの無い悟の発言で、此方から謝るのは癪に触った。
同棲を始めて二年、付き合い始めてからは来月で三年になる。これだけ長い間一緒にいれば喧嘩なんて何度も経験しているが、悟が出て行ったのは初めてだった。
それでもこの時はまだどうにかなると思っていた。
時間が解決してくれる、と。
◇
あの日から一ヶ月が経とうとしている。私達の関係はというと、特に何かが改善した訳では無かった。
それどころか時間が経ってしまったことによって拗れた気すらする。
不幸にも、あの日から私達は仕事が忙しくてすれ違う日々が続いているのだ。言うまでもなく多忙な悟は地方出張や泊まりがけの任務が立て込み、私も悟ほどでは無いものの関東近郊を駆け回る毎日だった。
仕事を終えて帰宅すれば湿った浴室や悟の脱いだ服があることから悟も仕事の合間に帰ってきているらしいが、時間が合わないせいで顔を合わせることは無かった。
気が付けば、私達の間には深い溝が出来てしまったような気がする。
気にしていない訳じゃない。どうにかしたいと思っているのは当然で、だけどどうにも自分から謝る気にはなれなかった。
それに、仲直りするなら面と向かって話がしたい。メッセージや電話で終わらせたくない。一緒に暮らしているのだからタイミングは必ずある。結局、そんな慢心が今の事態を招いているのだけど。
悟は今の状況をどう思っているのだろうか。まさかこのまま終わっても良いと思っているのだろうか。タイミングが、なんて悠長なことを言ってないで今夜にも話し合った方が良いかもしれない。
そんなことを考えているうちに胃の辺りが不快感を訴え始め、胃液が迫り上がる感覚がした。
慌ててトイレに駆け込み吐き出した胃の内容物は殆ど液体だった。昨晩も今朝もまともに食べていないせいだろう。
最近、やたら体調が悪いのだ。熱っぽさや倦怠感、吐き気や頭痛など風邪のような症状が続いている。風邪だと思っていたのだが鼻水やくしゃみ等の症状は無く、風邪と呼ぶには違和感があった。
病院に──いや、まずは高専お抱えの女医として働く同期に診てもらおう。
口の中の不快感を水で流しながら、ダウナーな雰囲気を纏う同期の姿を思い出した。私達を最も傍で見てきた彼女は、私達がくだらない喧嘩をきっかけに一ヶ月も口をきいてないと知ったら何と言うだろうか。
"早く仲直りしなよ"
"ちゃんと話し合った方が良い"
それとも、
"せっかくだから別れれば"
"だから私は五条はオススメしないって言っただろ"
学生の頃から一際大人びていた彼女は、安い慰めの言葉も吐かないし同調もしない。どう思うか、と聞けば辛辣だが優しさを孕んだ言葉をくれる。
悟と付き合いはじめた頃も、"五条はやめとけ。泣かされる"なんてしょっちゅう言われたものだが、それは私を思っての言葉だということはよく分かっている。
悟はとにかくモテるし、昔は女癖の悪さを伺わせる噂もちらほら耳にした。私と付き合うようになってからもやれ新人補助監督に告白されただの、助けた一般人がしつこいだの、そんな話は絶えなかった。
それでも、私と付き合いはじめてからの三年間、一度も浮気されたことは無いし、怪しいと感じたこともない。その点に関しては"あのバカも多少はまともになったな"と彼女も言っていたくらいだ。
"あとはそのデリカシーの無さがどうにかなればな"と言う彼女──硝子ちゃんの言葉に、"僕ほど繊細な男はいないよ"と悟が答え、そして硝子ちゃんが呆れた様子でため息を吐く。
そんな応酬が行われたのは私達同期三人と後輩二人で飲みに行った夜のことで、もう二ヶ月は前になる。悟と仲直りが出来たら近いうちにまた皆で飲みに行きたい。想像しただけで頬が緩むような楽しい時間が待っていると思うと、心做しか気分が持ち直した気がした。
体を診てもらうついでに硝子ちゃんに話を聞いてもらって、そして背中を押してもらおう。
彼女の言葉は決して励ましてくれるような前向きなものでは無いだろうが、それでもいつも私の背中を押してくれるのだ。
◇
「ごめん、もう一回言ってくれる?」
「だから、あんた多分妊娠してるよ」
陽が傾きかけた午後の校舎はとりわけ静かで、特に此処、医務室は時間に取り残されたと錯覚するほど静けさに支配されていた。
この静かな医務室の主である私達の同期、硝子ちゃんは湯気の立ち込めるブラックコーヒーに口を付けながら、しかし濃ゆい隈をこさえた垂れ目がちな瞳は私をしっかり見つめて淡々と告げた。
「嘘…これって、風邪とかじゃなくてつわり、的な…?」
「多分ね。生憎ここには検査薬は無いから、問診から憶測することしか出来ないけど。まぁ、でも生理が遅れてるみたいだし十中八九そうだと思うよ」
「そっ、か…」
「…どうした?あんまり嬉しそうじゃないな」
「…実は今、悟と喧嘩してて…」
「喧嘩?」
マグカップをデスクに置くと、立ち上がった硝子ちゃんはケトルに水を入れてお湯を沸かしはじめた。マグカップをもうひとつ用意しながら続きを話すよう視線で促してくれる。
「そう、もう一ヶ月くらい。凄い些細なことで喧嘩して…で、それから口聞いてない」
「一ヶ月も?珍しいな。でもアンタ達、一緒に暮らしてるんだよね」
「うん。でも喧嘩した日に悟が出て行ってコッチの部屋に泊まって、そこから出張だの地方だのって忙しくしてるみたいで家でも顔合わせるタイミング無くて。私もここ一ヶ月は結構忙しかったし…高専で見掛けても生徒と居るか仕事の話してるかで話し掛けづらくて」
改めて言葉にしてみて気付くが、言い訳ばかりだ。
"忙しくて"、"タイミングが無くて"
「あぁ、そういえば何日か前に五条が此処に顔出して、最近忙しい、みたいなこと言ってたな。でもアイツ、疲れてる感じしなかったから、ちゃんと家で寝れてるんだと思ってた」
「ううん。家じゃシャワー浴びて着替えに帰ってくる程度で殆どコッチで寝てるみたい。その方が多く寝れるしね」
カチリ、とケトルから音がして湯が沸いたことを知らせる。ティーバッグを落として、カップにお湯を注ぎながら硝子ちゃんは何かを考えている様子だった。
「…紅茶。飲んでいきな。妊娠してるかもしれないからカフェインレス。とにかくアンタは今日の帰りに検査薬を買って検査、そして五条と話し合うこと。結果がどうであれ、ね」
私の前に置かれたマグカップからは湯気が立ち、アールグレイの香りが鼻腔を付いた。
ありがとう、と伝えてから口を付けたアールグレイはやたらと苦く感じた。
「…悟はさ、私が妊娠したって伝えたら喜ぶと思う?」
「…さぁね。でも、私は喜ぶと思うよ。アイツ昔から気持ち悪いくらいアンタのこと大好きだし。それにアイツはクズだけど責任感はある奴だと思うから。ナマエが心配する様なことにはならないよ、きっと」
そう言って小さく微笑みながらマグカップを手に取った硝子ちゃんに倣って同じようにカップを取った。
「…ありがとう。検査薬使ったらさ、結果がどうであれ連絡しても良い?」
「勿論。私も気になって残りの仕事が身に入らないから」
「残りの仕事って、硝子ちゃんまだ帰らないの」
「今日は午前様かな」
「うそ、忙しい時にごめんね」
「気にするな。むしろ来てくれて良かったよ。一人で抱え込んで倒れられてからの方が困る」
「ふふ、優しいね、硝子ちゃんは」
控えめに笑い合う穏やかな時間が、私の背中を押してくれる。硝子ちゃんに話したお陰で胸の突っかえが消えたような気がした。
まだ妊娠していると決まった訳でもないのに左手が自然と下腹部に伸びた。結果がどうであれ、やっぱり悟と仲直りしたい。また以前のように笑い合いたい。
ちゃんと話し合おう。
悟と仲直りするのだと決意して口に含んだアールグレイは、やっぱりいつもより、苦く感じた。
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