穢された聖


 人生が変わる瞬間というのは、大抵思い返して気付くものでは無いだろうか。
 あの時こうしたお陰で、こうしなかったせいで。
 それが将来に大きく作用することにその時は気付いていないことが殆どだろう。しかし私は今、自分の人生が変わる瞬間を確かに感じていた。

「…もしもし、硝子ちゃん」

『もしもし。検査したんだね。結果は?』

「陽性、だった」

『そうか。おめでとう』

「あ、ありがとう…全然実感湧かないんだけどさ」

『まぁ、まだお腹も出てないしな。病院で心音が聞ければ少しは実感が湧くかもな。ところで五条は?連絡した?』

「一応、今日話したいことがあるから帰って来れる?ってメッセージ送ったけど、返事はまだ無い」

『そっか。アイツ今日は生徒達の引率だって言ってたからどっかで夕飯でも食べさせてやってるのかもね』

「そうなんだ。知らなかった」

 悟がどこに居て何をしてるのか、今までならこまめに送られてくるメッセージや電話で嫌でも把握させられていた。それと同時に私がどこで何をするのかを悟は知りたがったし、私はそれが鬱陶しくもありながら満更でも無かった。それが今では、悟がどこにいるのか、何をしているのか、人伝に聞く始末。
 いくら硝子ちゃんが私達の同期であり悟が心を許す数少ない友人の一人だったとしても、それは私達の間に出来た溝が深いものであることを示していた。


「…とりあえず、五条とはちゃんと話しなよ。それから何かあったら私に連絡すること。体の不調でもそれ以外でも。あと病院は早めに行きな。掛かりつけの婦人科があるなら今すぐにでも予約するんだよ。いいね」

「うん、分かった。…硝子ちゃんが友達だと心強いね、ありがとう」

 友人として、時に医者として。いつだって私の背中を押してくれる硝子ちゃんと出会えたことは、この世界に飛び込んだ一番のメリットかもしれない。
 また明日高専で会うことを約束して通話を終わらせると、悟からメッセージが送られてきていた。


"ごめん今日は帰れそうにない。今生徒達の引率に来てるんだけどこれが終わったらもう一件任務入ってるから"


 また任務──。いや、任務なら仕方が無い。
 私も呪術師の端くれである以上、仕方の無いことだと理解出来るし、休む間もなく働く悟のことを、一呪術師として同期として尊敬している。だけどやっぱり、恋人てしては寂しさや虚しさを感じてしまうのだ。ましてやこんな時にまで。
 "妊娠したの"とメッセージを送れば流石に慌てて帰ってくるだろうか。と考えて、かぶりを振る。それは同じ呪術師としてしてはいけない。特に悟は私のように替えの利く人材じゃないのだ。悟が割り当てられる任務は私達の手には負えないもの、緊急性の高いものが殆どだ。私のわがままのせいで危険に晒される命があってはならない。

 "そっか。忙しいところごめんね。それなら明日とかどうかな。家に帰るのが難しかったら高専内でも大丈夫だから"


 悩んだ末に送信したメッセージに、返信は無かった。




 鏡に写る自分の顔があまりに酷いもので思わず笑ってしまった。くっきり刻まれた隈と浮腫、寝不足のせいか吐いたせいなのか、くすんだ顔。明らかに体調が悪そうな見た目をしているせいで、会う人殆どに心配されてしまったくらいだ。
 それでも出勤したのは、悲しき社畜根性が染み付いているせい、というのもあるけれど、一番は悟に会う為だった。

 結局昨日のうちにメッセージの返信が送られてくることは無く、翌朝になって"分かった"と一言だけ返信が送られてきた。翌朝と言っても殆ど明け方に近く、恐らくこの時間に任務が終わったのだろう悟を思うと、短いスパンで襲い来る吐き気のせいで眠れなかっただけの私などまだマシに思えた。

 幸い、今日の任務は午前中に一件だけの予定でその後はフリーだ。
 車で片道二時間は掛かる現場で、普段なら移動距離の長さに文句のひとつでも言いたくなる所だが今日は有難く眠らせてもらった。爆睡したおかげか任務は滞りなく終わり、帰りの車の中でも爆睡しながら14時前には高専に帰って来れた。このまま報告書も出さずに帰りたい所だが今日はもう一つ外せない用事がある。
 任務で出ているという悟の帰りを待ちながら報告書を作って、そして悟が戻ったことを知り事務室を出た、のだが、またしても急な吐き気に襲われトイレへ駆け込んだ。

 改めて鏡に写った自分を眺めて、一応少しでもいつも通りに見えるよう気持ち身だしなみを整えトイレを出た。

 悟はどこにいるのだろう。
 無駄に広い校舎の中を、もう十数分も探している。悟の姿はどこにも無い。少し前なら、私が探し回らなくとも悟は必ず私に会いに来た。どれだけ時間が無かろうと、私の残穢を追って会いに来てくれていた。それが今ではこれだけ探し回っても会えない。
 私達の間に出来た溝は、私が思っているより深く事態は深刻なのかもしれない。


 ここまで探して見付からないとなれば、入れ違いで事務室に居るのかもしれない。それに体調が悪い中歩き続けたせいで動悸が酷い。事務室に居ればそこで今夜の約束を取り付けて、居なければまたメッセージを送ろう。

 そうして戻ってきた事務室の前で、扉に手を掛けた時、中から聞こえてくる会話に手が止まった。


「いいなあ、五条さんが彼氏とか羨ましい」

「ねぇ。五条さんって性格悪いとか聞くけど全然気になんないよね。ていうか仮に性格が悪くてもあれだけ格好良くてお金持ちなら気にならないよ」

 それは、間違いなく私に対しての羨望だろう。
 私達が付き合っていることは殆どの人が知っていることだ。悟がモテることは知っていたから特に驚きはしないが、何となく、引き戸を引くのは憚られた。
 けれど、いつまでもそうしている訳にはいかない、と、戸に掛けた手に力を入れた時だった。


「んー、でもねぇ、皆が言うほど五条さんって性格悪くないよ?」

「それはアンタが可愛いカノジョだからでしょ」

「そうそう。特別だからだよ」

「そうなのかなぁ。でもね、本当に優しいんだよ?私が欲しいって言ったものは何でも買ってくれるし行きたいって行ったところも出来る限り連れてってくれるの!」

「ラブラブだねぇ。そろそろ付き合って一ヶ月だっけ」

「明日で一ヶ月。明日の任務は早く終わりそうだから、ってホテルでディナーの予定なの」

 頭の芯が冷えていくような感覚は二十数年生きてきた中で始めて体験するものだった。今すぐ立ち去りたい気持ちと話の続きを聞いていたい気持ちの狭間で私はただ立ち尽くすことしか出来なかった。
 そもそも彼女達が話しているのは、悟のことなのだろうか。五条という苗字の他の術師のことなのではないだろうか。
 五条家は京都に居を構えているせいか、こちらでは悟以外の五条家の人間を見たことは無い。とは言え五条家は平安時代より続く由緒正しき術師の家系で言わずもがな御三家がひとつ。五条家出身の術師が悟しか居ない訳が無い。


「いいなぁ。さっすがお金持ち」

 溜め息混じりの言葉は羨望に満ちており、それに対して得意気に笑う声が聞こえてくる。
大丈夫、大丈夫だ。悟は当主であり特級術師であるからとりわけ金回りは良いと思うが、そもそも五条家自体がお金持ちなのだ。悟に限らずとも、それなりに裕福な筈だ。

「あ、ねぇ、そう言えば五条さんはあの人とは別れたの」

 僅かに顰めた声からは、打って変わって好奇心と悪意に満ちた声が聞こえてくる。彼女らの言う"五条さん"は、どうやら恋人が居る身でありながら彼女と関係を持っているらしい。
 きゅ、と胸が掴まれたような痛みを訴えた。

「んー…私にもよく分かんない。教えてくれないの。少し考えさせて、って言うばっかりで」

「えぇ、だって、確か一緒に暮らしてるんでしょ」

「そうだけどぉ…でも今は着替え取りに行くか怪しまれないようにたまに寝に帰る程度で基本ウチに居るか高専の中にある社宅に帰ってるよ。もうあのオバサンのことはどうでも良いみたい」

「ふぅん。どうでも良いならさっさと別れてくれれば良いのにね」

「まぁ、でもあの二人同期で付き合い長いから色々面倒なんじゃない。って言っても喧嘩してから殆ど口聞いてないらしいし今は私に夢中だし?終わりなのは明白だけどね」

「アラサーだもんねぇ。五条さんより良い人なんて中々居ないと思うし逃がしてなるものか!って必死なのかもね」

「アッハハ、みっともない」

「あの人大して綺麗でも無いしスタイルが良い訳でもないし特に強い訳でもないし?完全に、同期の恩恵だよねぇ」

「ひっどーい」

 顰めていた声はいつの間にか元に戻り、耳を欹てなくとも大きな声はこちらまで聞こえてくる。ゲラゲラと品の無い笑い声を上げる彼女達が話しているのは一体誰のことなのだろうか。

 いや、もう限界だった。気付かないふりをして現実から目を逸らすには限界だった。
 きゅ、と痛んだ胸は消えた痛みの代わりにバクバクと大きく脈を打っている。

 お願いだから、彼女の恋人が悟で無いと言ってくれ。若い彼女達に嘲笑われている女が私では無いと言ってくれ。

「はぁ、おっかしい。ってあれ、メッセージ来てる」

「五条さんから?」

「うん。今ね、明日明後日ゆっくり過ごす為に今日片付けられそうな任務はやって来ちゃうって言って高専戻って速攻で出てっちゃったの」

「そうだったんだ。通りで見掛けないと思った」

「でも本当、愛されてるねぇ」

「ふふ、だって絶対行きたい所だったからゆっくりしたい!って我儘言っちゃったの。そこね、あの人が行きたがってたホテルなんだって。次の記念日はそこでディナーしようねって約束してたんだって。でもあの人より先に私があのホテルに連れてってもらって、そこで記念日のお祝いするの。いつかそれをあの人が知ったらどんな顔するかなぁ…あぁ、早く行きたいなぁ。悟さん、──」


 その名前が聞こえた瞬間、弾かれたように身体が動き出した。それまで立ち尽くしていた事が嘘のように、長い廊下をひたすらに歩いていく。
 もうその場には居られなかった。

 悟はあの日から今日までの約一ヶ月、浮気していたのだ。

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