知らない罪


 姿見に写る己の姿の変わりように、大きな溜め息が漏れ出た。

 妊娠による身体の変化は仕方が無いことだと分かっていても、全体的に丸みを帯びた身体のラインにショックを感じずにはいられない。検診で知らされる子供の大きさは1Lの牛乳パックと同じくらい、体重は平均的なりんごひとつ分程度だと言うのに私のお腹は大きく前に出ているし体重は既に5キロ以上も増えている。
 私のつわりは一般的に想像される吐き気を催すものではなくて、"食べ悪阻"という、空腹を感じると気分が悪くなるというものだった。これのせいで常に何かを口にしている状態で、それにしてはまだ体重増加を抑えられた方、だと思う。

 愛しい我が子を腹の中で育てる為に仕方ないこと、と割り切っているとは言え、好んで着ていた洋服やヒールのある靴が履けないことがちょっぴり辛いことも事実だった。
 今ではすっかり私の相棒となったLLサイズのワンピースを頭からすっぽり被り、鏡の前でチェックする。マタニティ用では無いおかげか、パッと見、妊婦とは分からない。妊婦というより、ぽっちゃりした人という印象。

 妊娠5ヶ月を迎え安定期に入った私は今日から仕事に復帰するのだが、休職の理由を知っているのは硝子ちゃんと夜蛾学長のみで、表向きは体調不良ということになっている。

 妊娠を伏せた理由は勿論、悟の子供だと感付かれない為だ。悟は言わずもがな、呪術界において最も貴重な人材だ。その悟の血を引く子供が生まれる、もしくは生まれたと知られれば大騒ぎになるだろうし五条家はどんな手を使ってでも子供を奪いにくるだろう。五条家だけならまだしも、一番恐ろしいのは呪詛師や五条家を良しと思わない者達だ。出来る限りの危険は避けたい。

「ナマエー?用意出来た?そろそろ行くよ」

 ひょい、と顔を出した硝子ちゃんは相変わらず目の下にくっきりと隈をこさえている。一緒に暮らすようになってから彼女が如何に過酷な環境で働いているのかを思い知らされた。私達術師もそれなりに忙しいが、硝子ちゃんの忙しさは並の術師の倍では無いだろうか。

 そんな中でも硝子ちゃんは私をサポートしてくれたし、つわりが落ち着いてからは恩返しの意味も込めて家の仕事に精を出した。しかしそれも今日で終わりだ。

 仕事復帰すると同時に、今日私は硝子ちゃんの家を出ていく。高専からさほど遠くない場所に借りた安アパートは、既に生活をスタート出来る状態にしてある。
 正直、収入や貯金を考えるともう少し良い物件を借りることは出来たが、これから何があるか分からないことを考えると出費は出来るだけ抑えたい。この先一生、収入は自分の稼いだお金だけ。不自由無い生活を送らせてやるにはお金は幾らあっても良い。

 ワンピースの上からジャケットを羽織り、姿見の前で最終チェックを済ませると、硝子ちゃんの待つ玄関へ歩き出した。




「それで、五条からは何の連絡も来てないの?」

 青が黄色へ、黄色が赤へと移ろいゆく信号を眺めていると、ふいに問い掛けられ運転席へと首を動かした。ハンドルを握り真っ直ぐ前を見据えていた硝子ちゃんの視線がちらりと此方に向けられる。

「うん。ていうか別れ話の後から何の連絡も取り合ってない」

「そうか。昨日の夕方五条と話したんだけど、その時はナマエが復帰することを知らなかったようで驚いてたから連絡あったかと思った」

「無い無い。悟はもう私に興味無いのよ。新しい恋人に夢中なんだって」

「……あんなに散々周りを巻き込んでアンタとくっ付いたのに」

「あぁ、そうだねぇ。私は悟の気持ちなんて全然気付いてなかったけど」

 私達の関係が同期から恋人に変わったのは三年前のことだが、悟は高専在学時から私に気があったらしい。所謂片思いだ。あの五条悟が。
 しかし当時の私はと言うと、地元の公立中学校を卒業する少し前にクラスメイトの男子に告白され、周りに流されて付き合った後は十年近くもの長い間付き合い続けた。
 別れた理由はひと言で言うなら関係のマンネリ化だろう。長い月日は私達の絆を深めたが、同時に恋人としてのときめきや新鮮さを失わせた。私はそれを苦とは思わなかったし、いつか結婚するんだと漠然と思っていたのだが、彼はそうでは無かった。

"他の女性を知ってみたい"
"ナマエと結婚して、今と何が変わるのか分からない"

 そんなようなことを言われて約十年という私達の歴史はあっさり終わりを迎えたのだった。
そして、十年来の恋人を失ったことを知った悟はその日から私にあらゆる手段でアプローチを掛けた。告白されるより前から"五条って私のこと好きなのかな"と勘付いたほどに。
 初めこそ同期の枠を出なかったが、下の名前で呼びあうようになり、デートを重ね身体を重ねて、そうしていくうちに私達はちゃんと恋人になっていった。

 私は確かに、悟を愛していたのだ。

「…まぁでも、男なんて皆そんなもんでしょ。色んな味を楽しみたくて、新鮮な味には弱いのよ」

「十年近く片想いしてたくせにな。付き合ったらコレか」

「私が自分のモノになっちゃったからね。欲しくて仕方の無いものが手に入ったらその瞬間は大切にするけど、今度は違うものが欲しくなる。人間は欲深い生き物だからね」

 私にだって思い当たる節がある。それは子供の頃のおもちゃだったり、憧れのブランドのバッグだったり。

「分からなくは無いけど、それにしたってこんなにあっさり手放すかね。五条はもっとナマエに執着してると思ってたんだけど」

「全然。だって、何回も言うけど別れ話した時なんてビックリするくらいあっさりだったんだよ。"ふーん、あっそう。分かった。マンションにあるオマエの荷物はどうしたらいい?"なんてさ、それだけだよ?普通理由くらい聞くでしょ。あれでもう、悟は私に全く気持ちが無いんだなって確信したよ」

 数ヶ月前、硝子ちゃんの家で居候生活が始まった日に悟と別れた。
 電話を掛けた時、別れ話を切り出した時は、ほんの少しの期待もあった。それは悟が私を引き留めてくれるんじゃないか、という期待。心を入れ替えて帰ってきてくれるんじゃないか、という期待。しかし実際は、なんて事のない日常会話のようなテンポで別れ話は終わった。

 あまりにも淡々としていたせいで、通話の切れたスマートフォンを呆然と眺めたくらいだ。別れ話をしているつもりだったけど、もしかして全然違う話をしていた?なんて思ってしまったほど。

 結果、翌々日に帰宅した硝子ちゃんが嫌そうに教えてくれた『五条の浮気相手…いや、今は彼女か。その子が高専で触れ回ってるよ。"悟さんと付き合ってるの"、って』という話を聞いて漸く別れた実感が湧いたのだが、それと同時に別れ話だと理解していながらあの態度だったのかと思うと、悲しくもなった。
 そして、その翌日には夜蛾学長に事情を説明して休みに入らせてもらった。
 一般職と違って危険を伴い、術式によって異なるが基本的に肉体を駆使する術師はこの辺の融通は効く、らしい。そのまま産まれるまで休職して育休に入ることを夜蛾学長に提案されたが、少しでも稼いでおきたい私は安定期に入ったあと補助監督として現場復帰したいと頼み込んだ。学生時代の恩師でもある夜蛾学長は渋っていたが、無理をしないこと、決して前線にはでないこと、等級の低い任務にしか同行しないことを条件に承諾してくれた。ああ見えて情に熱く私達のことを考えてくれている夜蛾学長には感謝しかない。

 ぽたり、と車のフロントガラスに落ちた水滴が雨の始まり告げている。
 いつの間にか灰色に覆われた曇天は、まるで私の心のようだった。