21gの産声


 やっとの思いで帰宅したマンションは相変わらず人の気配がない。ほっと胸を撫で下ろしながら一先ずソファに座り、これからの事を考えた。

 お腹に宿った小さな命は悟の子供で間違い無い。しかし、妊娠したと言えば悟は何と言うだろうか。あの日以前なら、喜ぶ姿以外は思い浮かばなかっただろう。私も妊娠したことを素直に喜べた筈だ。だけど今は私自身、戸惑いの方が強くお腹の子供のことを愛しいと思う余裕が無い。

 堕ろす

 その三文字が頭に浮かんで、かぶりを振った。どうしてもそれだけは出来ない、と思った。
 別に私は堕胎について否定的でも肯定的でも無い。事情によっては仕方ないとも思うし、産み落として殺してしまう親や虐待する親を見る度に産まなければ良かったのに、と思うこともある。だけど、私のお腹にいる小さな命は、ほんの一ヶ月宿るのが遅かったせいで、私達が下らない喧嘩をしたせいで、この世に産まれることを歓迎されないなんて。
 あまりにも身勝手すぎる、と思った。それに私は、1人でもこの子を育てていけるだけの収入がある。収入が無くなったって暫くは暮らしていける程度の貯金もある。


「……頑張ろう」

 まだ膨らみのない下腹に手を当てて決意を自分に言い聞かせる。当然、胎動なんてある筈もないのに、小さな命が確かに応えてくれた気がして胸がじんわりと暖かくなった。
 今この瞬間からこの子に父親は居ない。私だけの子供として必ず育て上げるのだ。




「それで私の所に来た、と」

「うん。ごめんね硝子ちゃん、急に押し掛けて」

「それは全然構わない。むしろ頼ってくれて嬉しいよ。勝手に居なくなられた方がキツかった」

「……ありがとう。本当にありがとう。私、昔から硝子ちゃんに迷惑掛けっぱなしだね」

「迷惑なんて思ったことないよ。ていうか面倒事の原因は概ね五条だからな。それにしても今回は流石にね…ロクでもない男だと思ってたけど」

 そう言うと、繊細な柄が美しいコーヒーカップに口を付け、こくり、と一口飲み込んだ。
 カチャ、と静かな音を立ててソーサーの上に戻されたカップから立ち上がる湯気は、コーヒーの芳ばしい香りを辺りに漂わせている。
 ミルクも砂糖も入れられていない漆黒の水面に憂い気な瞳を落とした硝子ちゃんは、ふぅ、と大きく息を吐くと私を真っ直ぐ見据えた。

「本当に産むつもり」

「うん」

「子供は産んで終わりじゃない。むしろ、そこからが始まりなんだ。産んでから一生、ナマエはお腹の子の母親だ。私は産科は専門じゃないし勿論子供を産んだことも無い。けど、これまでの人生でそれなりに色んな人を見てきた。パートナーの力を借りないで一人で育てていくことがどれだけ大変なことか。ナマエ、本当に一人で育てていける?」

「うん。…いや、正直に言うと、分からない。大変だってことは想像できるけど、実際何がどう大変かは産んで育ててみないと分からない。でもね、覚悟は決まってるつもり。どんなに辛くても苦しくても、この子にだけは苦労させない。…それでもどこかで私が挫けそうになったらその時は硝子ちゃんが私を叱咤して」

「…五条に認知してもらう気が無いってことは、お腹の子の親は本当にナマエ一人だけだ。一人で育てていけるのか、って聞いたのは覚悟を聞きたかっただけで私に出来ることがあればするし、ナマエは独りじゃない。応援するよ」

 鋭い光を宿していた瞳が和らぎ、唇は小さな弧を描いた。

「ありがとう、心強い。私頑張るよ。絶対立派に育て上げる。この子は悟の子供だから、いつか苦労することがあるかもしれない。それでも守り抜くよ」

「いい心意気だけどあんまり根詰めすぎるなよ。とりあえずこれからどうするか決まるまでは家にいていいから」

「ありがとう。本当に助かる。出来るだけ早くアパート借りるから」

「慌てなくていいよ。妊娠初期はデリケートなんだ。それに妊婦の一番の敵はストレスだよ。自分のタイミングで構わないからね」

 垂れ目がちで大きな瞳が、優しく細められた。こうして見ると硝子ちゃんの笑顔は学生時代から変わっていない。十代の少女特有の明朗な明るさは失われていても、大人びているのに笑うと幼くなる所は相変わらずだ。
 しかし彼女の目の下に刻まれた濃ゆい隈が、伸びた髪が、私達が大人になったことをありありと示している。

 そうだ、私達は大人になった。
 あの頃とはもう、何もかもが違うのだ。

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