羽を捧げて


 新しい環境、というのは良くも悪くも目まぐるしいものだ。
 五条と住んでいたマンションを離れ、硝子ちゃんの家で居候すること数ヶ月、漸く復職と同時にアパートを借りた私は、新生活をスタートさせていた。

 学生時代から寮生活、卒業後は高専の近くでマンションを借りひとり暮らしをしていたおかげでひとり暮らしは慣れっこだった。今更困ることは何も無い。ただ、孤独感に苛まれることだけは私を困らせた。それは妊娠によるホルモンバランスの変化か、それとも単に一人で子供を産み育てることへの不安から来ているのか、或いはそのどちらともなのか。

 職場復帰したことで職場では孤独感から開放されたが、代わりに心無い言葉を浴びせられた。家に帰れば心無い言葉を浴びせられる煩わしさがない代わりに強い孤独感との闘い。どちらも私にとっては苦痛であったが、少しずつ環境を受け入れ始めていた、そんな時。

 ついに、五条が私の前に現れたのだ。


「おっひさ〜!うわ、噂通り本当に太……」

 復職してから約十日経って再会した元恋人は相変わらずの軽薄な口調で語り掛けてくる。両手に抱えた紙袋を見るに、出張から戻ったところ、だろうか。
 実は十日も顔を合わさなかったのには理由があって、私が復職する前日に五条は出張へ出ていたのだ。恐らく偶然ではなく夜蛾学長の図らいで敢えて五条の出張に合わせて復帰させてくれたのだと思う。別れた元奥さんとの間にお子さんがいる夜蛾学長はある程度妊婦への理解があるようで、「無理だけはするなよ。ストレスも良くないからな」と言ってくれた。
 出来ることなら五条と会いたくない私としては有難い図らいであったが、ついにこの日がやってきてしまった。
 五条は頭の天辺から爪先まで舐めるように見たあとアイマスクに手を掛けそれを首元まで引き下ろすとまじまじと私の腹を見た。

「……オマエ、それ何」

 先程までの軽薄さが嘘の様に、五条の声は冷たく怒気を孕んだものだった。

「何って」

「何でオマエの胎ン中にオマエのものじゃない呪力が視えるんだって聞いてんだよ」

「見たままよ。妊娠してるから、だけど」

 努めて冷静に、そして五条に負けない程の冷たさを言葉に含ませた。
 少しでも怯めば言い負かされてしまう。問い詰められて勢いに乗せられて強烈な孤独感を思い出して五条に打ち明けてしまうかもしれない。

 お腹の子供は貴方の子供だ、と。


「妊娠?ハァ?いつ?てか、その腹のデカさからして結構週数いってるよね。てことはソレ、僕の子供?」

「違う」

「ハ?違う、ってことは僕と付き合ってた時に浮気した、ってことになるけど」

「私は浮気してない」

「じゃあ何、別れて速攻他の男見付けてヤラせてガキ出来ましたって?」

「汚い言い方しないで。仮にそうだとしても五条に何の関係があるの。別れてるんだから。そもそも浮気したのはそっちでしょう」

「え、何オマエ知ってたの?ていうか名字呼びやめろよ気持ち悪い」

「知ったからマンション出たし別れようって言ったの。バレてないと思ってたの?大体、五条の新恋人さん、大声で触れ回ってるよ。"ミョウジさんより私の方が良いって言ってミョウジさんと別れてくれたの"って。別れてくれたも何も私からフッたのにね。ていうか、あんなにあっさり別れ話に応じたのだって私よりあの子の方が大切になったからでしょ」

 別れを切り出した時、終ぞ理由を聞かれることはなかった。それはつまり、五条にとっても私と別れることに抵抗は無かったということだ。ふられた理由さえ気にならないほど、私はどうでも良い存在だった、ということだ。

「話、逸らすなよ。僕が聞きたいのは別れた理由じゃない。誰との子供かってこと」

「誰との子供でもない」

「は?オマエ、俺を馬鹿にしてんの?」

 いよいよ五条の呪力が乱れ、ビリビリと辺りに緊張感を走らせた。物理的圧を掛ける為にわざと呪力を放出させているのだからタチが悪い。しかしこちらも伊達に十年以上五条の傍に居る訳ではない。この程度で屈服したりはしない。

「一人で産んで育てるって決めたの。だからこの子に父親は居ない。それだけだよ。とにかく、五条には関係の無いことだから。金輪際、このことに口出ししないで」

 そう言って踵を返し長い木造の廊下を宛もなく突き進んだ。立ち止まれば五条に捕まる気がして右へ左へと進んだ。そうして辿り着いたのは、私達が三年生の頃に使っていた教室だった。

 当然、五条は追ってきている訳もなく、振り返った先には誰も居なかった。しんと静まり返る中で、私は静かに教室の扉を開くと恐る恐る足を踏み入れた。

 教室に入るなんて、卒業以来約十年ぶりだ。私は五条のように術師と教師の二足のわらじでは無いので此方には来ないのだ。机の数だけが私達の頃とは変わっていて、それ以外は全て同じ教室の風景。あの頃の私達はただ毎日が楽しくて、五条は大切な友達の一人で、それはずっと変わらないと思っていた。

「今は他人より遠くなっちゃったね」

 あの頃五条の席だった机に手を掛けてそう呟くと、お腹の中で胎児が動いた。大丈夫だよ、と励まされている気がした。




「それで、五条と会ったんだって?」

「そうなの。もうびっくりだよ」

「バレた?」

「一発。やっぱり凄いね六眼て」

「五条の子供だって言うのは?」

「バレてない」

「はは、随分荒れたんじゃないの」

「流石硝子ちゃん、御明答。もう本当に怖かったよ。何をそんなにキレてるの!?ってくらいキレてた。怒れる立場かね」

 ドン、と置かれたジョッキの中で鮮やかに染められた緑色のソーダがぐらりと揺れる。
 怒り冷めやらぬ私の話に耳を傾けながら凄まじいスピードでジョッキを空にしていく硝子ちゃんに圧倒されながら、私もジョッキの中身を流し込んだ。言わずもがな私のジョッキは酒では無い。どれだけ煽ろうと酔うことは出来ないのだけど、今はとにかく呑みたい、呑んで忘れたい、そんな気分だった。

「まぁ…そうだな。五条がやったことを考えれば、仮にアンタが浮気してようが別れてすぐに子供作ってようが口出せる立場じゃないね」

「そうでしょう?別れを切り出した時だって引き止めるでも理由を聞くでもなくアッサリ受け入れたくせに何がそんなに気に入らないんだか」

「…ここだけの話だけど、アイツ新しい恋人と上手くいってないみたいだよ」

「え、あの補助監督の子だよね」

「そう」

「あの子、事務室で散々五条とのこと惚気けてるけど…」

「それはナマエへの当て付けじゃない。それに散々大騒ぎしてるくせにこれで一年と持たないで別れたらそれこそ笑い者だろ?だから必死にアピールしてるんだよ、私は幸せだ、ってな」

「そういうもんなんかねぇ…略奪なんてしたことないから気持ち分かんないや。ところで五条とあの子が上手くいってないって誰から聞いたの?」

「五条本人だよ」

「え。ガチじゃん」

「ガチだよ。私が根も葉もない噂を信じると思う?」

「思わない」

「でしょ?五条もわざわざ私にそんな事言いに来るなんてさ、私に伝書鳩役して欲しいのがバレバレ」

 硝子ちゃんはうんざりした様子でそう言うと、鮮やかに盛られた刺身の舟盛りに箸を伸ばす。

「伝書鳩?私に伝えて欲しい、ってこと?」

「そうじゃない?ちなみに五条が私の所に来たのはアンタが私の所に来るほんの少し前のこと。いきなり来て何かと思ったら"新しい彼女と上手くいってないんだよね"なんて言って勝手に話し出したから何事かと思ってたんだけど…理由が分かったな」

 私が三年の教室から紅く染まる空が濃紺色へと移ろい行く様を眺めている間、五条は医務室に居たらしい。いや、それは何ら不思議なことでは無い。私にとって硝子ちゃんが同期であり友達であるように、五条にとっても硝子ちゃんは同期であり、友達なのだ。そして私達を一番近くで見てきた人でもある。
 硝子ちゃんの元へ駆け込んで、愚痴の一つや二つを吐き出すことは何も不自然では無いのだ。けれど、五条が取った行動は、そうでは無かった。

「……何で?」

「ナマエとヨリ戻したいんだろ」

「いや、え、はぁ?そういうこと?…でもさ、仮に、よ。仮に五条が私とヨリを戻したいと思ってたとしても、私が妊娠してるって知ったら普通は諦めない?自分と別れたかどうかってタイミングで他の男と作った子供なんてさ…まぁ実際は五条の子供だけど…」

「アイツを普通の物差しで測ったら痛い目見るってオマエもよく知ってる筈だろ」

「それはそうだけど…」

「大方、新しい恋人と噛み合わなくてナマエの良さに気付いて…そんなところだろ」

 そんな都合の良いこと──と思うが、あの男なら充分に有り得るのだ。時折、驚く程自分本位で、驚く程我を通そうとする。一般的な常識や善悪の区別がありながらそうするのだから、人間として成長過程にあった学生時代よりうんとタチが悪い。

「……まぁ、本人の口から聞いた訳じゃないし、あくまで憶測だし…とりあえず五条とは関わらないようにしてのらりくらりとやってくよ」

 場合によっては京都校へ異動願いを出した方が良いかもしれない。呪術界から離れられるならそれが一番良いのだが、如何せん、この歳までまともな職歴が無い。
 呪術高専卒業、準一級術師、それらの肩書きは一般社会において何の価値も持たない。子供を育てる為に安定した収入を得るには、呪術界にしがみつくしか無いのだ。

「…面倒なことにならないと良いな」

「…大丈夫でしょ!」

 どく、と嫌な脈を打った胸の不安を掻き消すように口に含んだソーダがぱち、と弾けた。

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