ヴェールと荊冠
肌を撫でる風が刺すように鋭い冷たさで本格的な冬の始まりを知らせる十二月の朝。
師が走るほど忙しいと書いて師走と言うように、私達も慌ただしい毎日を過ごしていた。と言っても忙しいのは私達補助監督だけで呪術師は比較的落ち着いていると言えよう。
呪術師の繁忙期は春先から初夏にかけて。年末年始は案外、暇なのだ。例年であれば、年末年始休みに向けて緊急性の低い任務を片付けながら空いた時間に溜まった報告書や経費で落ちる出費を整理したりしていたのだけど、今年の私は補助監督として年末を迎えた為例年とは違った忙しさに追われていた。
書類の山と格闘しながら日に一から数件任務に帯同しなければらない。術師の帰りを車で待ちながらノートパソコンと睨み合い、長時間運転の後はデスクで書類と睨み合い。残業という概念が消え失せ、最早定時が午前様なのでは無いかと錯覚し始めた頃、あの男が現れた。
「ヤッホー!久しぶり」
何時ぞやの日を思い出させるような、廊下での突然の邂逅に一瞬たじろいだが今日の五条はどうやら機嫌が良いらしい。左手をポケットに突っ込んだまま右手をひらひらとこちらに振っている。
五条の顔を見るのは復職以来これで二回目。同じ職場で働きながら、よくここまで顔を合わせずにいられたものだ。それもこれも五条が特別忙しいことと、学長や伊地知の計らいのお陰だった訳だが、いつまでもそうして居られる訳もなく。
「…お疲れ様ですお久しぶりです五条特級術師」
「うわ、嫌そうな顔〜ウケる」
「忙しいのですが」
「てか何で敬語なワケ。あと名字で呼ぶの止めてって言ったよね」
「今の私は新人補助監督ですから。五条さんは私の上司ですので敬語を使うことは当たり前です」
「…マッジで気持ち悪いから止めて。止めてくんなきゃ一生付き纏うよ」
オエ、と嘔吐く声が聞こえてきそうな嫌な顔はふざけているが、言葉が冗談では無いことを経験から察した。ここでしつこく食い下がったところで面倒になるだけだろう。私よりしつこい五条に根負けする未来が見えている。
「…ハイハイ、分かった。で、今度は何の用?」
「何の用、じゃないよ。僕先週誕生日だったんだけど」
つん、と口を尖らす仕草は五条が拗ねている証である。学生時代から幾度となく見てきた仕草だ。
「……だから?」
「いや、酷くない?」
「あ、おめでとう」
「あ、うん、ありがとう。って、そうじゃなくて」
相変わらず尖らせた唇と、目元を隠す布越しに刻まれる眉間の皺。それらから五条が何を思っているのかほんの少しだけ分かってしまった気がして、思わず溜め息が零れた。
「…何、まさか…」
「お、僕の言いたいこと分かる?」
「私にお祝いしてほしい、なんて言わないでしょうね」
"そんな訳ねーじゃん、自惚れんなよ"と、乱暴な口調でそう言う五条の姿が頭に浮かんだのは、そう否定してほしいという私の願いからだろうか。しかし私の願いが届く事はなく、五条は形の良い唇で綺麗な弧を描き、にんまりと笑った。
「正解っ!いやー、やっぱり良いよね、なんて言うかこう、僕の思ってることがちゃんと伝ってるっていうか噛み合ってるっていうか。で、毎年祝ってくれてたのに今年は祝ってくんないの?」
「五条……正気?」
「正気だけど」
「五条と私は別れてるんだよ。それも、君の浮気が原因で。で、そんな君は今新しい恋人が居る。…それで何で私に祝ってもらえると思うワケ?」
「確かに僕達は別れたけど同期ってことは今までもこれからも変わらない事実だよね。付き合う前からずっとオマエは僕の誕生日を祝ってくれてたじゃん」
「今更、仲の良い友達になんて戻れないよ」
「どうして」
「どうして…?五条は私の信頼を裏切ったからだよ。私ね、本当に本当に悔しかったし悲しかった。あの気持ちを簡単に忘れられないし、別れたから友達に戻りましょうね、なんて切り替えられないよ」
ここまで言葉にしないと伝わらないものなのだろうか。恋人同士が別れたあと友達に戻るケースはもちろんあるだろうが、それはあくまで円満に別れたカップルが殆どで、私達のような場合はそうでは無いと、少なくとも私は思っている。
恋人として、以前に、人としての信頼を失ってしまったのだから、今更仲の良い友達になんて戻れない。
「それを言うなら僕だってオマエに裏切られた気持ちだけどね。別れて速攻妊娠しました、なんてさ」
「私は不貞は働いてない。五条を裏切るようなことは何ひとつしてない」
「そうは言われてもねぇ。仮に別れた後だとしてもさっさと違う男に抱かれちゃうんだ、しかも避妊も無しで、って思ったら結構ショックだけど」
「自分が何言ってるか分かってる?アンタは浮気してたんだよ?私と付き合ってる間に新しい女見付けてそこに入り浸ってロクに家に帰りもしないで、オマケに私と行く約束してたホテルであの子と一ヶ月記念日を祝ったんですって?それでよく人のことをどうこう言える」
「ちょ、っと待ってなんでそれ知ってんの」
「なんでも何も、あなたの可愛い恋人がいつも大声で惚気てるからね。五条が浮気してるって知ったのだってあの子がお友達に話してるの聞いちゃったから」
それまでの威勢の良さが嘘のように俯き溜め息を吐いた五条が何を思っているのかは分からない。新しい恋人の口の緩さに呆れているのか、それとも罪悪感に駆られているのか、或いは。
「これでどっちが悪いかハッキリしたでしょ。ていうか、私は悪いことなんて何ひとつしてないけど。浮気相手を私と約束してた場所に先に連れてくなんて残酷なことしておいて、それで何が裏切られた気持ち?いい加減にしてよ。もう五条とは友達になんて戻れないってこれで確信した。今日から私達はただの同期。それ以上でもそれ以下でもない。もう不必要に私に近付かないで」
顔を上げた五条がどんな顔で私を見ているのかは分からない。顔の半分近くを覆い隠すアイマスクは時に表情すらも覆い隠してしまう。そのアイマスクの下に隠された瞳を想像することが好きだったあの頃が嘘のように、今は心底どうでも良い。
返事を聞いてやるつもりの無い私は踵を返して歩き出した。これもいつだか同じようなことがあったな、と思いながら、頼むからもう二度と私に関わってくれるなよ、と願う。
数メートル歩いた頃にはもうすっかり五条のことは頭から離れ今晩の夕飯は何を食べようか、と考えていた。今の私にとっては、五条よりも夕飯の献立の方がよっぽど大切で、考える価値のあるものなのだ。
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