The Haunting Memory

名前が蝶屋敷へと戻ったのは、午後になってからのことだった。変わりなく帰ってきた名前の様子にしのぶもにこやかに声をかける。

「おかえりなさい。故郷はどうでした?」
「はい。きちんとお墓参りできました」
「それはよかったです」

しのぶの優しい笑みに名前も安心したようにふっとため息を漏らす。けれどもすぐにその表情は曇ってしまった。

「どうしました?」
「あの、ごめんなさい。やっぱり何も思い出せなくて…」

それはしのぶも密やかに期待していたことだった。名前の記憶に残る懐かしい景色を辿れば、何か思い出す手がかりになるのではないかと。しのぶは名前に心のうちを悟られぬよう、そっと名前の肩に触れた。

「前にも言いましたが、そんなに焦る必要はありません。ましてや謝ることではないのですから」

とはいえ名前の性格を考えると、それで納得することはないだろう。しのぶは話題を変えようと頭の中に考えを巡らす。そしてこの旅の同行者である仏頂面の顔を思い浮かべたのだった。

「それより冨岡さんとはどうでした?仲良くなれました?」

しのぶの思いがけない言葉に名前ははっと目を開いた。そしてみるみるうちに頬を赤く染め、やがて耳までも同じ色へと変わっていく。

言うまでもなく、名前の頭の中は早朝のひとときに埋め尽くされていた。ほんの数秒重なっただけの唇の感触は、今でもはっきりと思い出せるほど名前の唇に刻まれている。

「な、仲良く…それは、えーっと」

赤い顔のままぎくしゃくとした名前の様子に、返事は聞くまでもないとしのぶは口元を隠して笑った。



翌日、名前が自室で日記の頁を巡っていると、襖の向こうからしのぶに声をかけられた。名前が立ち上がって戸を引くと、いつも通り柔和な笑みを浮かべたしのぶが立っていた。

「刀を預かろうかと思いまして。定期的に手入れをしなければなりませんからね」

その言葉に名前が部屋の隅に置かれた日輪刀を見やる。日輪刀も隊服も、しのぶがこの部屋に運んだままの状態であり、触れられた形跡は見られなかった。

「お願いします。私にはさっぱりなので…」

名前は困ったように笑いながらしのふを自室へ招き入れる。部屋の隅に置かれた文机の上には開いたままの名前の日記が置かれており、それが不意にしのぶの目に止まった。

「しのぶさん、あの…」

日記を横目に日輪刀を手にしたしのぶに、名前が声をかける。

「どうしました?」
「私、本当にこの隊服を着て、この刀を持って闘っていたのでしょうか」

記憶もなく、自身の日記にそのような記述もなく、鬼の存在を認めてもこの手でそれを滅することが出来るとは、今の名前には到底考えられないことだった。無理もないことだろうとしのぶも名前の心のうちに想いを馳せる。

しのぶは在りし日の名前の姿を脳裏に浮かべる。真っ直ぐな強い意志を持った瞳、軽やかな身のこなし、美しく磨き抜かれた剣技の様。その姿こそがしのぶがよく知る名前という人であり、その影は今は亡きカナエの姿に通ずるものがあった。

「貴方は、姉と同じ花の呼吸の使い手です」

しのぶが静かに名前の日輪刀を鞘から抜く。その刀の色に名前は息を呑んだ。名前の最後の記憶、名前を鬼から救ったあの刀と同じ色だったからだ。

「姉は上背も高く、剣技の才もあった。その姉に少しでも近づきたいと、ここに来てからの貴方はそれはもう…皆が心配になるほど鍛錬に打ち込んでいました」
「そう、ですか…」
「姉の指導も決して優しいものではなかったはずです。それでも貴方は泣き言ひとつ、弱音ひとつ吐かなかった」

抜き身の刀身にしのぶの顔が切なげに映る。名前は胸に手を当て考えた。私を救ってくれた人、私を導いてくれた人、カナエという人はどんな人だったのだろうか。

「貴方の呼吸を見ていると、私は姉を思い出さずにはいられない。貴方の呼吸は姉が生きていた証ですから」

何かを取り繕うように微笑むしのぶに、名前は初めてしのぶの心のうちに触れたような気がした。いつも浮かべた優しい笑みの向こうに隠された悲しみや切なさが、そっと名前の心の中へ入ってくるようだった。

「刀は預かります。まだ長旅の疲れもあるでしょうからゆっくり休んでください」

しのぶは刀を鞘に収め、部屋の戸を引いた。開け放していた窓から通り道を見つけた風が部屋を吹き抜け、文机の上の日記をぱらぱらとめくった。


(210728)