Sunset

「名前、階級は示せるか」
「階級?」

義勇が“階級を示せ”の言葉ともに拳を握りしめると、その甲に水という文字が浮かび上がったので、名前は目を見開いて驚いた。そして義勇に促され同じように言葉を唱え拳を握ると、今度は自身の手の甲に丙の文字が現れたので、名前はさらに目を丸くすることとなった。

「藤の家紋の家は無償で鬼殺隊に尽くしてくれる」
「はぁ」
「だがその格好では隊士には見えない」
「なるほど…」

義勇に言われて己の姿を顧みれば、確かにこれではそこらにいる女子とまるで変わらないと名前は思った。隊服を着るべきだったかと後悔したが、記憶を無くして以来どうにも隊服やら日輪刀やらには触れる気が起きず、部屋の隅に置き去りにしたままだった。

「藤の家紋の家に着いたら今のように階級を示してくれ」
「わかりました」



そうして二人が藤の家紋の家に着いた頃には、日はすでに落ち辺りも薄暗くなっていた。

「すまないが、一晩泊めていただきたい」
「もちろんでございます。…そちらの方は?」

人の良さそうな女将は義勇を見て早速屋敷へ通そうとしたが、ふと後ろに立つ名前に気がついて首を傾げた。

「訳あって隊服は着ていないが、彼女も鬼殺隊士だ。名前」
「あ、はい」

義勇の目配せに応じ名前が拳を握って階級を示すと、女将は深々と頭を下げた。

「失礼いたしました。さあ、こちらへどうぞ」

ところが女将の案内に足を進めたのは名前だけだったので、今度は名前が首を傾げる番だった。

「冨岡さん?」
「俺はこのまま担当地区の見回りに行く。夜明け前には戻れるだろう」

そう言い残すと義勇は踵を返し、振り返ることなく歩き出した。てっきり共に休むと思っていた名前は呆気に取られ、大きく目を見開いたまま小さくなる背中をしばらく見つめたままだった。

「さあ、夜も更けてまいりましたので、どうぞお入りください」

そう女将に声をかけられるまで立ち尽くしたままだった名前は、名残惜しげに振り返って玄関戸を潜った。



湯込みを終え奥の間に通されると、小姓が次から次へと料理を運んでくるので名前は唖然としてしまった。藤の家紋の家がどのような場所であるか、義勇の端的な説明では説明にならぬほどの至れり尽くせり振りだった。いくら隊士とはいえど記憶をなくしている名前にとって、自身が果たしてそこまでの恩義を尽くしてもらうべき身分なのか、全くもって理解できなかった。ましてや今日は家族の墓参りに立ち寄っただけだ。

「何かありましたら遠慮なくお申し付けください」

小姓がそう言って下がったのを見届けると、名前は小さく息を吐いた。到底一人では食べられる量ではないと、わかっていながらも箸を手に取る。

少しずつ食事を口に運びながら、名前は義勇のことを思った。一緒ならもう少し箸が進んだかもしれない。知らない場所に一人置き去りにされた名前の心のうちは、寂しさでいっぱいだった。

結局食事のほとんどを食べきれず、器を下げにやってきた小姓に名前は平謝りだった。

「ごめんなさい。どれも本当に美味しかったんですけれど…」
「大丈夫ですよ。女将はこうしてもてなすのが好きなのです。女性の隊士の方でこの量を食べ切る人はそうそういませんから」

小姓の言葉に名前はほっと胸を撫で下ろす。

「もうお休みになられますか?隣に布団を準備しておりますが」
「少し外の風に当たりたいのですが、いいですか?」
「構いませんよ。そちらの襖を開けていただければ、中庭に繋がっています」

それではと小姓が頭を下げ去っていった。言われた通り後ろの襖を開けてみると、夜の冷えた空気が名前の頬を撫でていった。こじんまりとした小さな庭は手入れの行き届いた木々や花が並んでいる。その様子に名前は口元を緩め、縁側に腰掛け柱に半身を預けた。

長年の習慣というものなのか、記憶がなくなってからも名前は夜になると目が冴えるのでほとほと困っていた。辺りが暗くなると自分の中にえもいわれぬ闘争心のようなものが芽生え、それが腹の奥でぐつぐつと煮えたぎるのである。そうやって毎夜刀を握って生きてきたのだろうか。今の名前には俄かに信じがたい。

義勇も今ごろ、そんな思いを抱えて刀を握っているのだろうか。同じものを見ているからこそ分かり合えていたこともあるだろう。けれども今の自分には義勇の思いを正確に推し量ることはできないのだと、それが苦しくてたまらなかった。ここまで着いてきてもらいながらも、結局記憶を思い出すきっかけすら掴めていない。名前の重たいため息は夜の空気が静かに呑み込んだ。



昼間の疲れもあってか、名前が目を閉じてうつらうつらとしていたのは、夜半も夜明けに近い時間だった。遠くで聞こえる男の声で名前ははっと現実に引き戻された。一つは食事の世話をしてくれたあの小姓のもの、もう一つは──。

「こんな時間にすまない」
「とんでもありません。お連れ様は奥でお休みになられているはずです」

足音が一つこちらに近づいてくるのを感じ、名前はゆっくりと立ち上がった。廊下を折れて姿を見せた羽織の柄は、この一日ですっかり名前に安堵をもたらす柄となった。

「…名前」

小姓の言葉にてっきり部屋で眠っているとばかり思っていた義勇は、この場で姿を見せた名前に驚いた。

「起きていたのか」
「あ、いえ、えーっと」

完全に起きていたわけではないのだけれどと歯切れの悪い名前に、義勇はゆっくりと距離を詰めた。

まさか、ずっとここで待っていたのだろうか。名前の歯切れの悪さをそう捉えた義勇は、そっと名前の左頬に触れた。思った通り、外から帰ってきた義勇が冷たさを覚えるほど、その体は長い時間夜の空気に晒されていたようだった。

義勇の指先が名前に触れた瞬間、名前の肩が小さく跳ねた。今の名前には無遠慮だったかと、義勇はそっと頬から手を離した。が、下ろされた羽織の袂を名前が両の手でぎゅっと掴み、何やら言いたげな瞳でじっと義勇を見つめる。

「どうした」
「あの…」
「遠慮することはない」

義勇が努めて優しい声色でそう問えば、名前は眉尻を下げ、ためらいがちに口を開いた。

「…寂しかった」

ぽつりとそう呟いた名前は、なおも上目遣いに義勇の瞳を見据えている。その何とも言えないいじらしさに、義勇は困ったなと思った。今しがた無遠慮だと己を律したばかりだというのに、目の前の名前に触れたくて堪らない。

本能の赴くまま再び名前の頬に手を添え顔を近づけてみると、名前は察したように顔を赤くしきゅっと目を瞑った。その仕草に義勇は満足気に口角を上げ、そのまま唇を重ねたのだった。


(210717)