Set Your Mind

「お久しぶりですね。調子はいかがですか」
「うーん、特に、何も」

蝶屋敷の診察室にて。しのぶの問いかけにぼんやりとした返事をする長髪の少年は、どこか定まらない視点で窓の外の景色を眺めている。さっきから窓の向こうを行ったり来たりしているあの青い蝶、名前は何と言っただろうか。

「アオスジアゲハですね」
「はぁ」

少年の視線に気がついたしのぶが蝶の名を口にしたが、少年はぼんやりと聞き流すだけだった。どうせ次に来た時にはもう忘れてしまっているだろう、と。現に彼がその蝶の名をしのぶから聞くのはこれで三度目である。

しのぶが耀哉からの命を受け時折経過を見ているこの時透無一郎という少年もまた、記憶を失っている。あまねの話によれば山奥で双子の兄と暮らしていたが、鬼に襲われたらしい。兄の方は絶命、弟の無一郎も重症だったが、産屋敷家の甲斐甲斐しい看護の成果により今や鬼殺隊隊士として目覚ましい成長を遂げている。はじまりの剣士の末裔らしい。それを裏付けるように、刀を持ってまだ幾ばくもないこの少年は、今ひとつ空いたままの柱の席を埋める最有力候補だとしのぶは考えている。

それにしても、としのぶは無一郎を診察しながら考える。記憶障害という点において、より深刻なのは無一郎の方だ。自身の生い立ちから何から完全に思い出せないようだし、今現在も記憶が安定していない。けれど鬼殺隊の隊士という点においては、しのぶが不安を覚えるのはむしろ名前の方だった。記憶を失ってから刀を握った無一郎と、刀を握った記憶を無くした名前。あの子はもう一度、自分の意思で鬼殺を志すことができるのだろうか。

「特に変わったところはないようですね。お館様には私から報告しておきますので、またひと月後、いらしてください」

診察を終えたしのぶがそう言うと、無一郎はぺこりと頭を下げ部屋を後にした。きっと覚えてはいないだろう。今回もしのぶが鎹鴉を飛ばしてようやく蝶屋敷へ足を運んだのだ。次回も素直に応じてくれればよいのだが、と、張り付いた笑みの下でしのぶは小さく息を吐いた。



しのぶが名前を訪ねて部屋に赴くも、中はもぬけの殻だった。今日は一日蝶屋敷にいると言っていたはずだ。となると、縁側の方か。

名前が縁側を好むのは、そこにカナエとの思い出があるからだ。刀を手入れするときも、庭で鍛錬をするときも、カナエはいつもそこで穏やかな笑みを浮かべて佇んでいた。家族を亡くした名前はカナエやしのぶを本当の姉のように慕っていたし、しのぶもまた、名前のことを本当の妹のように可愛がっていた。いたのだけれど。

名前の記憶はもう戻らないかもしれない。しのぶはそう考えていた。名前が記憶をなくしてもうひと月が経つが、未だ記憶を取り戻すきっかけすら掴めていない。思い出話を伝えてみても駄目だった。義勇に会わせてみても駄目だった。故郷に赴いても駄目だった。妹を思う姉という立場なら、今のままでも構わない。けれども師としてならば──。

「ここにいたのですね」

縁側ではしのぶの予想どおり、名前が暖かな日差しを浴びながら針仕事をしていた。

「しのぶさん。なほちゃんたちに頼まれて入院着のほつれを直していました」
「そうですか。ありがとうございます」

しのぶが名前の隣に腰掛ける。優しく漂う藤の花の香りが名前の鼻孔をくすぐった。

名前は黙々と針を動かしながら裾のほつれを直していく。昔からそうやって手先を動かすことが好きだったと、名前の穏やかな横顔をしばらく見つめていたしのぶだったが、やがてゆっくりと口を開いた。

「名前、機能回復訓練を受けてみませんか?」
「機能回復訓練?」

しのぶの言葉に名前は手を止め、しのぶと瞳を合わせた。

「少し酷な話をしますが、名前の記憶は今後二度と戻らない可能性があります」

それは名前自身薄々は覚悟していたことだった。けれども面と向かってしのぶにそう言われると、まだその事実を真正面からは受け止められないとでも言わんばかりに、名前はしのぶから目を逸らした。

「貴方の師として、私はもう一度名前に刀を握ってほしいのです」

名前はしばらく俯いたまま、膝の上の布をぎゅっと握りしめていた。しかしその力は徐々に弱まり、名前はゆっくりと頷いてみせたのだった。


(210807)