Some Things Never Change

水柱邸にたどり着いた名前は盛大なため息を一つついた。機能回復訓練を始めてから一週間、しのぶから暇を許してもらったはいいが、しのぶは名前に一つの条件を出した。それは、全集中の呼吸を止めないこと。

「機能回復訓練か」

玄関先で額の汗を拭う名前を見て、義勇はすぐに名前の呼吸の変化に気がついた。大方しのぶが機能回復訓練と称して名前に稽古をつけることにしたのだろう。名前は大きく肩で息をしながら、義勇の言葉に数度頷いた。

一度習得していた全集中の呼吸を、記憶こそないものの名前の体は覚えていた。けれどもこのひと月で著しく体力の低下している名前にとって、全集中の呼吸常中というのは非常に堪えるものだった。

「ここに来るまで本当に疲れました。私本当に四六時中こんなことをしていたんでしょうか」

名前は縁側に腰掛けぱたぱたと手で顔を仰ぎながらそう言ったが、律儀に呼吸を止めない名前に、彼女らしいと思った義勇はその隣に腰掛けた。

「冨岡さん、すぐにわかるんですね、呼吸のこと」
「義勇だ」
「あ、そうですね、ぎ、義勇さん…」

あれから数度体を重ねたが、まぐわいの最中は素直に応じるくせに、こうして面と向かって顔を合わせると、途端に名前は義勇の名を呼ばなくなる。その心情は義勇にとって全くもって理解しかねるものだったが、ふと顔を真っ赤にして照れる横顔に、そういえば昔もそうだったと義勇は思い出していた。

ほとんど名前の一方的な片思いで始まったこの恋に、想いが通じ合ってからもしばらくは、何をするにしても名前は恥ずかしがってばかりだった。あれから随分と時間が流れたように思うが、今も性分というものは変わらないのだなと、躊躇いがちに自身の名を呼ぶ名前を見て、義勇はそんなことを考えていた。

昔を懐かしんでいくらか穏やかに佇む義勇の横顔に、名前はしのぶの言葉を思い出していた。

「…あの、」
「何だ」
「義勇さんは、私がこの先ずっと何も思い出せなくても、私のことを好きでいてくれますか?」

記憶をなくしたあの日から、名前は義勇のあの悲し気な瞳を忘れることができなかった。記憶を取り戻したいと切に願うのは、ほとんど義勇のためだと言っても過言ではなかった。二人で過ごす時間を積み重ねるに連れ、その思いは日に日に増していくばかりだった。

名前があまりにも不安気な顔をするので、義勇は持ち合わせた数少ない言葉のどれもが、今名前の心のうちを晴らすことはできないだろうと考えた。足りない言葉の代わりに唇を寄せようとすると、近づく気配を察知した名前がそっと指先で義勇の唇に触れ、その動きを制した。

「と、時々は、言葉でちゃんと聞きたいのです…」

それが義勇にとって最も苦手とする類の願いであることはわかりつつも、名前はそう口にせずにはいられなかった。躊躇いつつも赤い顔で真っ直ぐに義勇を見つめる名前に、観念したかのように義勇は口を開いた。

「俺の気持ちは変わらない」
「…本当に?」
「ああ、約束する」

特段気の利いた言葉も思いつかないまま義勇はそう告げたが、詰まるところ義勇の口から出てくる言葉ならなんだってよかった名前の方は、満足そうに微笑んで義勇の唇を迎えにいった。

触れるだけの口付けが少しずつ深くなっていく。義勇がゆっくりと名前の体を板敷の上に横たえて、赤いままの耳にそっと唇を寄せた。

「…名前」
「はい…」
「全集中の呼吸が止まっている」

ハッとすぐそばにある義勇の顔を名前が見やると、義勇のその表情は至極真面目なものであった。

「義勇さんは本当に意地悪…」

絶対に今言うべき台詞ではないとため息混じりにこぼした名前の悪態は、二度目の口付けに呑み込まれていった。


(210811)