I'm feeling myself again

義勇が任務の報告を終え屋敷に戻ると、名前は何時ぞやのように縁側の隅で小さな寝息を立てていた。穏やかな寝姿に一瞬拍子抜けしたものの、それもまた名前らしいと義勇はその隣に腰掛けた。柔らかな髪にそっと手を触れる。とその時、目尻からこめかみを抜けた涙の粒が板敷を濡らしていることに義勇は気がついた。

刀が握れない。それが名前にとって何を意味するのか、長い付き合いのなかで多少なりとも名前の為人を理解しているつもりの義勇にとっても、その痛みの深さを正確に推し量ることはできないだろうと思った。せめて今はゆっくりと眠れるようにとその寝顔を見守っていると、名前は小さく身じろぎ添えられた義勇の手に顔を擦り寄せた。そしてゆっくりと目を開いた。

「義勇さん…おかえりなさい」

名前は目を擦りながらゆっくりと起き上がった。大きく伸びをしてふっと一息つくと、名前は義勇の隣に膝を抱えて座り直した。瞼こそまだ赤いものの、先刻の別れ際より顔色も表情も幾分かよくなったように義勇の目には映った。

「眠れたか」
「はい…何だか気が抜けちゃったみたいです」

苦笑いでそう告げた名前だったが、そうかと言葉を返した義勇の思った以上の優しさを含んだ声色に、心の奥につかえていたものがすっと溶けていくような気がした。

死ぬまで闘い続けるつもりだった。それが自分が進むべき唯一の正しい道だと思っていた。だけど、そうじゃないのかもしれない。慣れ親しんだ水柱邸の縁側から見る景色を眺めながら、名前はぼんやりとそんなことを考えていた。

しばらくの沈黙のあと、先に口を開いたのは義勇の方だった。

「これからどうするつもりだ」

義勇の言葉に名前はうーんと言葉を濁したが、気持ちの整理をつけるようにぽつりぽつりと言葉を返した。

「隠って柄でもないしなぁ…。アオイちゃんみたいに蝶屋敷で働くか…あとは、育手をやるっていう手もありますよね」

しのぶさんが許してくれたらですけどね、と罰が悪そうに名前は付け加えた。どうやら上手い言い訳はまだ考えついていないらしい。抱えた膝の上に置いた両腕に顎を預けぼんやりとしている名前の横顔をしばらく眺めていた義勇だったが、不意にあることを思い出した。

「そういえば…何故記憶が戻ったことを隠していたんだ」
「…え?」
「昨日ここに来た時はもう戻っていたはずだ」

思い返せば昨日、名前が稽古と称してこの屋敷を訪れた時、義勇の目にはすでに名前は記憶を取り戻していたように見えた。見た目がわかりやすく変わったこともあるが、何よりもあの眼差し。義勇に任務への帯同を申し出たときに見せた名前のあの眼差しは、鬼殺への覚悟を背負っているものの眼差しに思えてならなかった。

名前は驚いて目を瞬かせ、小さくさすが義勇さんとこぼした。

「義勇さんにはなんでもお見通しだったんですね」
「あのなぁ…」

どれくらいの付き合いだと思っているんだと、言葉にはしないものの呆れた視線を寄越す義勇に、名前は照れ臭そうに首をすくめて笑った。

記憶を取り戻した時、名前は義勇に本当のことを言うべきか僅かながらに迷っていた。結局は任務へ赴くことを優先して隠してはいたのだが、それにはもう一つ理由があった。義勇にその理由を話すつもりはなかったが、今名前はどうしても伝えたくなってたまらなくなってしまった。何もかも見透かされているということがこんなにも嬉しいことだなんて、と心が浮き足立っているのが自分でもよくわかった。

「だって義勇さん、すっごく優しくしてくれるから。もうちょっとだけ甘えてたいなぁ…なんて」

ほのかに赤く染まった頬でそう言った名前に、今度は義勇が驚く番だった。

「…それはこっちの台詞だ」

ぼそりと呟かれた言葉を名前は上手く聞き取れず、何か言いましたか?と聞き返すも義勇はふいっと名前から顔を逸らした。それが照れ隠しの素振りだということを、名前は知っている。長い付き合いはお互い様なのだ。

名前は義勇にもたれかかるように半身を預けた。見上げた空にはいつか見た空のように雲ひとつない水色だ。まるで今の自分のようだと名前は思った。考えることもやるべきことも山のように目の前に横たわっているけれど、今はまだもう少しこうしていたい。そんな気持ちも見透かしてくれたらいいのにと、ささやかな願いを込めて名前は義勇の名を呼んだのだった。


(210925)