腕を怪我した時のことを、名前は今でもよく覚えている。急な任務で駆けつけたその場所では、今まさに小さな少年が鬼に襲われようとしているところだった。無我夢中で駆け寄り必死に少年を守った。その少年が死んだ弟の姿に重なったからかもしれない。
少年を鬼から庇った際に咄嗟に出したのが利き腕だった。その場はどうにか凌いだものの思った以上に傷は深かった。
「お姉ちゃん、ごめんね…僕のせいで…」
「いいのいいの!見てたでしょ?お姉ちゃんとっても強いから大丈夫よ」
少年は名前の言葉に顔を上げ、安心したようににこりと笑った。幼い弟も、生きていればこんな風に笑いかけてくれたのだろうか。胸の奥が締め付けられるのを誤魔化すように、名前は少年に笑い返した。
死んだ弟はかえってこない。けれどもこうして誰かの命を守る度、名前は自分が救われるような気がしていた。家族を失ったあの日から、空っぽになってしまった心の中が満たされていくような気もしていた。
しのぶの治療は迅速かつ適切だった。名前もしばらくは怪我は完治したものだと思っていた。けれどもある日を境に腕に違和感を覚えるようになった。それは徐々に違和感の域を超えていき、ついには刀も握れぬほどへの痛みへと変わっていった。
夜が明けて山を降りても、名前は義勇の少し後ろで俯いてばかりだった。
「蝶屋敷まで送っていこう」
別れ道に差し掛かったところで義勇は名前に振り返って声をかけた。泣き腫らして赤くなった目で義勇を見上げた名前だったが、すぐに目を伏せ義勇の羽織の裾を躊躇いがちに摘んだ。
「義勇さんのところに行くのはだめですか」
「…構わないが」
「しのぶさんへの言い訳、考えなくちゃ」
名前は口角を上げそう言ったが、その表情が無理に作られたものだということは義勇にもよく分かった。
「俺はこのままお館様のところへ報告に出向く。一人で帰れるか」
「はい、大丈夫です」
繕われたその笑顔がひどく痛々しく思え、義勇は思わず名前の頬に手を添えた。親指の腹でそっと赤い目尻を撫でると、堪らず名前は眉根を下げた。
「すぐに戻る」
それだけ言い残し義勇は踵を返すと足早にその場を去った。その背中が消えるまで見送ると、名前は視線を自身の手元へと移した。
全てを思い出したとき、名前はこれを好機だと捉えた。記憶が戻ったとなれば、話は必ず何故蜜璃との共闘任務で怪我をしたのかというところに行き着くであろう。そうすれば利き腕のことを誤魔化し続けるのは難しい。けれども記憶がない状態ならば、全てを有耶無耶にしたまま任務へ赴くことができる。
名前は鬼殺隊の剣士であることをどうしても諦められなかった。この命が尽きる時は鬼殺隊の剣士としてありたいと思っていた。どんなことがあっても刀を握り続けたいと思っていた。その強い気持ちは腕の痛みと比例するように膨らんでいき、温かく優しい家族に責めたてられる夢を見てしまうほどに名前を追い詰めていた。
けれども、それはもう叶わないのだと名前は悟った。これ以上は周りに迷惑をかけることはできない。正しい判断が下せないのならばそれはもう鬼殺隊の剣士としてあるべき姿ではない。ただ、ここが退き際なのだと頭では理解できても、今何の痛みも違和感も感じないこの腕は、まだ鬼を滅することができるような気がしてならなかった。
「どうして…」
広げた手のひらに枯れたと思っていたはずの涙が再びこぼれ落ちた。名前は叫びたくなる衝動を堪え、手のひらの涙を握りしめるとゆっくりと水柱邸を目指し歩き始めた。
(210921)