雪風

君は覚えているだろうか、昔約束をしたことを。美しい朝焼けといえば相場は海だと君が言うので、鎌倉に行こうと誘った。あそこは飯も美味い、見るものも美しい、特に梅雨時の紫陽花は趣があると言うと、一緒に見たいと言ってくれた。あの約束を守れなかったこと、本当にすまなかったと今でも思っている。

「杏寿郎さんはずるいですよ、本当にずるい!」

雪の降る曇天の空の下、紅蓮に染まった刀を地面に突き刺し、それに縋るように片膝をつき、涙に濡れた頬は冷たい雪風に晒される。君は不謹慎だと怒るかもしれないが、その姿をとても美しいと思った。

「どうしてこんな時にしか逢いに来てくれないの?!」
「君が呼んだような気がしてな!」
「呼んだけど!呼んだけど…今逢いに来られたら私死ねないでしょう?!」

体中の傷から流れ落ちる血に、今そうして何かに縋り付いていないと体勢を保てないのだろう。白い地面に赤い血がぽたぽたと染みを作っていく。名前が呼吸をする度に白い息が空中を流れて、その痛みに歪む顔を霞の向こうへ隠していく。

「私杏寿郎さんのことなら何でもわかるんです!死ぬなって言いに来たんでしょ?!わかりますよ、だって私が杏寿郎さんの立場だったら同じこと言うもの!」

雪風が吹き荒ぶ中、名前の声が悲しげに響いた。出来ることなら代わってやりたいと思うのだ。その使命の重さに今にも押し潰されそうなその小さな背中を、今すぐにでも支えてやりたいと思うのだ。

「さっきから何をぶつぶつと。しぶとい鬼狩りだ」
「五月蝿いわねあんた!鬼のくせに!今杏寿郎さんと話してるんだから黙ってなさいよ!」

身を預けていたはずの刀を一気に引き抜いたかと思うと、踵を返して爪先を思い切り踏み込んだ。熱波のような彼女の怒りは不知火となって、横薙ぎの斬撃が立ちどころに鬼の頸を斬り落とした。名前の呼吸の型はいつ見ても美しい。まるで精霊の舞でも見ているかのようだ。けれども今度こそ名前は体を支えられなくなり、その場にペタリと座り込んでしまった。

「大丈夫か!」

斬った鬼の体は風に乗りさらさらと消えていった。不思議なことにそれと同時に風も止んで、小さな雪の粒がいくつも、はらはらと名前の黒い隊服を滑り落ちていった。

名前といえば、先程までの鬼顔負けの形相は何処へやら。今にも泣き出しそうな顔で、まるで幼子が母親に縋るように、こちらへ両手を伸ばしていた。その小さな体をそっと包み込んでやれば、確かに温かさを感じるのだ。

「君は先程俺が死ぬなと言いに来たと言ったがそうではない」
「そうなんですか?」
「昔鎌倉に行こうと約束しただろう!あの約束を果たせなかったことを詫びに来た!」

腕の中の名前が少し首を傾げる。右の空を見ながら口をへの字に歪ませて。けれどもすぐに首を横に振った。

「どうだろうか」
「だめです、杏寿郎さん。全然だめ」
「む、そうか」

風が凪いだので乱れた髪をそっと耳にかけてやった。例え住む世界が違うとしても、俺はまだこうして君に触れることができるのだ。

「鎌倉には一人で行きます」
「そうか。いつか千寿郎を誘ってやってくれ。きっと喜ぶ」
「そうですね、それは素敵」

ようやく名前が笑ってくれた。真っ白な世界で、たった一つそこだけ色がついたような、花のような笑顔だ。

これから先、君が本当に辛い時、悲しい時、きっと俺は君に何もしてやれないだろう。不甲斐ない。そんなつもりで君の手を取ったわけではないのだ。だからせめて、俺はいつでも君に逢いに来よう。君が俺を求めてくれる限り、何度でも。

「俺は君の笑った顔が好きだ。一等可愛らしい」

冷たい頬を両の手で包むと、名前がふにゃりと笑った。文字通り、ふにゃりと。今の名前は鬼殺の剣士でも何でもない、この世でただ一人、俺が心から愛したただ一人の女性だ。

「私も、杏寿郎さんの笑った顔が一番好き」

そして俺もまた、君が愛してくれたただの一人の男なのだ。君に向き合う時、俺は全ての柵から解き放たれ、何も持たないただの男になるのだ。そんな君の隣は、いつも心地が良かった。

けれども、俺も君も、その瞳の焔が翳ることはないのだ。ふらりと立ち上がって放り投げていた刀を鞘に戻すと、覚束ない足取りで名前は一人歩き始めた。右へ左へと、揺れるように雪の上に小さな足跡を残しながら。

「行けるか」
「もう少しだけ」

振り返らずに歩くその頬に、最早涙はなかった。どうか嘆かないでほしい。必ずまた逢いに来るから。君を飾る美しい言葉を持って、必ずまた。


(210126)