恋染めし

昔、まだ子供だったころ、夜店の金魚が欲しいと父にねだったことがある。電球の光に照らされゆらゆらと水面を泳ぐ赤い金魚が、子供心に美しいと思ったからだ。優しい父は大層困ったことだろう。優しく宥めてくれた母も、泣き疲れ眠った私をおぶった父も、今はもういない。

往来の行き交う人々を見ていると、どうして私はそこからこぼれてしまったのだろうと思う。手を取り合う親子や、肩を寄せ合う男女でごった返すこの夜に、幾度も血に濡れたこの隊服はどうにも似つかわしくない。冨岡さんはずっと不機嫌だ。聞かずとも人混みは嫌いだと、その左頬に書いてあるようだった。

「ぼーっとするな」
「いえ、浪漫溢れる夜だなぁと思いまして」
「どこがだ」
「好きな人とお祭りの夜を歩けるんですよ?こんな素敵な夜がありますか!」

もしもあの夜鬼が出たのが私の隣の家だったら、鬼殺隊が来るのがもっと早ければ、私がか弱くて刀を持てるほど強くなければ。どれか一つでも違っていたら、私は今夜ここに集う何も知らない大衆の一人になれていたはずなのに。つまらない偶然程どうしてこうも積み重なってしまうのか。

「またそれか。冗談はよしてくれ」
「まだ冗談だと思ってたんですか。本当つれない人ですね」

何故冨岡さんを好きになったのかと聞かれるとよくわからない。だけれど好きなところは沢山ある。伏目がちに閉じた瞳を覆う睫毛や、長い指とその先にある形のいい爪は特にお気に入りだ。

私は明日死ぬかもしれない。だから冨岡さんに好きだと言う。女の私がそう言うことをはしたないと叱る人もいるかもしれない。だけど時代の移ろいと共に世間は大きく様変わりしている。最近では自由に恋愛を楽しむ男女も増えているらしい。私は大正という時代に感謝して、今夜も冨岡さんに愛を囁くのだ。

「冨岡さんと夜の街を歩けるなんて幸せです」
「任務だろう」
「でも二人きりです」

笑いかけると鬱陶しそうにため息をつくところも好き。今夜は祭りの夜なので夜店の賑わいも一際で、いつもよりうんと近くを歩けるのも役得だ。

少し前の祭りの夜もこの辺りは人で溢れ返っていて、闇夜に紛れて数体の鬼が現れた。向かったのが新人の隊士で、頸を跳ねるどころか逆に深傷を負わされ、一般の人たちにまで被害が及んでしまった。同じことがあってはならないとこの辺りが持ち場である柱の冨岡さんと、もう一人階級が上の方のものをということで私が呼ばれたのである。あの時ほど地道に頑張っておいてよかったと思ったことはない。

「どうして俺なんだ」
「どうしてでしょう…理由があればお嫁にもらってくれますか?」
「それとこれとは別だ」

そうやって眉を顰めてあからさまに不機嫌な顔をされると、私の心臓は握りつぶされたかのように苦しくなって、悲鳴のようにきゅうっと切ない音を立てる。こんな顔、きっと私以外誰も知らない。そう思うと幸せで堪らなくなるのだ。

「好きなところならいくらでも言えますよ。一つずつ言ってみせましょうか?」
「遠慮しておく」

冨岡さんが好き。冨岡さんを好きでいると、私は自分のことを好きでいられる。本当は鬼を斬るのは今だって怖いし、本当は女学生みたいな可愛い袴を着て街を歩きたい。それでも、この野暮ったい隊服と腰に下げた日輪刀でもいいやと思えるのは、冨岡さんがここにいるから。私は何も間違ってなんかないんだと思える。例え、あの群衆からこぼれ落ちた存在なのだとしても。

不機嫌で可愛い冨岡さんの横顔を見つめていると、ふっと風のにおいが変わった。これはどこかに潜んでいるようだ。おそらくは、ここから二つ先の路地裏の辺り。

「出たぞ」

冨岡さんのその言葉を合図に目星をつけた場所へ急ぐと、路地裏の奥で男女が一組、鬼の陰に怯えているのが見えた。

「鬼狩りか、鬱陶しい」

振り向いた鬼の口からは涎が滝のように流れていた。どうやらまだ誰も喰っていないようだ。間に合ってよかった。邪魔な私達から先に始末してしまいたいのか、鬼がこちらに居直る。瞳に文字もないし、きっと私一人でも大丈夫。冨岡さんの一歩前に出て、ここは私がと刀の鯉口に手をかけようとしたとき。

「あれ?!刀がない!」

慌てて冨岡さんを振り返ると、顔色一つ変わらない冨岡さんがちょいちょいと私の背中を指差した。

「人混みを歩くから刀は背中に隠しただろう」
「あっそうでした!」
「敵に背を向けるな」

そう言って冨岡さんが一歩後ろに下がったのと、鬼がこちらに爪を剥き出して襲いかかったのと、私が背中の刀を抜いてその場にしゃがみ込んだのは、たぶんほぼ同時だったと思う。鞘がからんと音を立てて地面に落ちて、冨岡さんが小さく、あ、と呟いた。身を翻したところにちょうどよく飛び込んできた鬼の頸を、振り上げていた右手に左手を添えて力のままに振り下ろした。狭い路地の両の壁に血飛沫が飛んで、鬼の体は簡単に崩れ落ちて消えてしまった。怯えて座り込んでいたはずの男女は、一目散に往来の方へ駆けて行った。

「ああ、行っちゃった…」
「名前」
「冨岡さん、どうしたんですか?」

冨岡さんがさっきと同じ顔で、今度は私の後ろの方を指差している。振り返ると、血溜まりの中に鞘とリボンが落ちていた。あっ!と声をあげて自分の後頭部を触ると、あるはずのものがそこにはなかった。

「そんなぁ…」

刀を放り投げて、血の海からリボンを拾う。血と泥で汚れたそれは、くっきりと鬼の爪痕が残っていた。

「この間奮発して買ったんですよぉ、私の可愛いリボン…」

せっかく冨岡さんと二人きりの任務だから、せめてものお洒落にと可愛いリボンをつけてきたのに。まさかこんなことになるなんて、と冨岡さんに泣きつくと、往来の方ががやがやと騒がしくなってきた。どうやらさっきの男女が警察を呼んできたようだ。

「行くぞ」

冨岡さんはすたすたと往来へ戻ってしまった。まずい、今警察が来たら私は刀を持った半狂乱の殺人犯としてしょっ引かれるに違いない。慌てて鞘と刀を拾い、血を拭って背中に隠す。こっちです!という男の人の声とドタドタと駆けつけるいくつかの足音。間一髪のところで一行と入れ違いに往来に戻ることができた。

「冨岡さん?」

辺りを見回すと、少し先の露店で冨岡さんは何かを買っているようだった。人混みをかき分けて冨岡さんに駆け寄ると、左の手首をぐっと掴まれた。そのまま人の流れが途切れた曲がり角を過ぎた辺りまで引っ張られ、くるっと振り返った冨岡さんが私の左手に何かを乗せた。

「これで機嫌をなおせ」

手のひらに乗せられたのは、赤いトンボ玉に小さなガラス玉がいくつも連なってぶらさがっている、とても可愛い簪だった。

「これ、私に?」
「気に入らなかったか」
「とんでもない!嬉しすぎて、言葉が…」

思いもよらない冨岡さんからの贈り物に、私は言葉を失ったまま、手のひらの簪を見ていた。指先が少し震えて、遠くの電球の光が小さなガラス玉に反射してキラキラと輝いている。冨岡さんがそれを手に取って、私の髪にそっと挿してくれた。不意に距離が近くなる。甘い匂いが漂って、頭がくらくらとした。

「祭りの夜は長い」
「はい…っ!」

それがまだ任務の途中だという意味だとはわかっていたけれど、その言葉は私を、まだ冨岡さんのそばにいられるのだと、隣にいることを許されたような気持ちにさせた。

冨岡さんが好き。人混みに戻っていく冨岡さんの後について小走りになると、簪の飾りがしゃらりと音を立てた。視界の端に映ったそれが、金魚の尾鰭みたいに美しく揺れていた。


(210117)