Bittersweet

彼女のことを思い浮かべると一番に思い出すのは、ふわりと漂うあの甘い香りだ。その甘さの向こうに密やかに佇む少しの苦さが、いつだって俺の心を締め付けてきた。初めて会ったあの日から、今までずっと。

その甘い香りが唐突に鼻孔をくすぐったのは、木曜の夕方、駅の構内。大学からの帰り道、鉛色の空から絶えず落ちてくる雨の粒を見ながら、どうしたものかと考えあぐねているときだった。

「義勇くん?」

不意に名を呼ばれ声の方を振り返れば、二つの丸い瞳と視線が交わる。手は今にも傘を広げんとする仕草をピタリと止めたままだった。

「やっぱり義勇くんだ」

声の主は俺を認識するとパッと表情を緩めた。弓なりに細くなる瞳に、途端に胸の辺りが苦しくなる。

「久しぶりだね。蔦子ちゃん元気?」
「あ、はい」
「ちょうど蔦子ちゃんに連絡しようと思ってたの」

言いながら彼女は俺の手元を見る。そして今度は不思議そうな顔をして、少しだけ首を傾けた。

「義勇くん、傘持ってないの?」

彼女がそんな顔をするのも無理はない。今日の午後からの降水確率は100%、出かけに母さんからも姉さんからも傘を持っていくよう言われたけれど、その時雨が降っていないことをいいことに傘のことなどすっかり忘れて家を出てきてしまっていた。

彼女の問いかけに小さく頷くと、彼女はあろうことか持っていた傘を俺に差し出した。

「よかったらこれ使って」
「いや、悪いです」
「大丈夫、私折りたたみの傘持ってるから」

彼女は肩にかけていたバッグの中を探る。てっきりその折りたたみの傘を出すのかと思ったら、彼女の手にはスマートフォンが握られていた。

「ごめん、会社から電話だ」

そして彼女は反対の手に持っていた傘を半ば押し付けるようにして俺に持たせ、小さく手を振って駅の構内へと消えていった。



名前さんは、姉さんの高校時代からの友人だ。初めて名前さんに会ったのは、まだ俺が小学生の頃だった。

「こんにちは。蔦子ちゃんいますか?」

出かけに友人が来るから上がってもらっていてと言伝を残して近くのコンビニに向かった姉さんと、入れ違いに家にやってきたのが名前さんだった。姉さんと同じ制服を着ていたから姉さんが言っていた友人だということはすぐにわかった。制服の上に羽織ったアイボリーのカーディガンから少しだけ出した両手で、行儀良く通学カバンを握っていた。

「あの、少し出かけてくるから上がっててって…」

姉さんからの伝言をそのまま伝えると、名前さんはにこにこと人懐っこい笑顔を浮かべながら、そうなんだねと返事をした。

「じゃあお邪魔します」
「どうぞ…」
「義勇くんだよね?いつも蔦子ちゃんから話は聞いてるよ」

名前さんはそう言いながら脱いだ靴を揃える。名前さんが動くたびにふわふわと甘い香りが漂って、それが俺の鼻をくすぐった。

「…甘い匂いがする」

不意に口をついて出た言葉に思わず慌てたが、当の本人は不思議そうな顔をしてカーディガンの袖口辺りを嗅いでいた。が、あっと何かを思い出したような顔をして、カーディガンのポケットを探りはじめた。

「もしかしてこれかな?」

名前さんはポケットから何かを取り出した。少し屈んで俺に目線を合わせると、その取り出した何かを手のひらに乗せ、そのまま俺の方に差し出した。

「あげるね。蔦子ちゃんには内緒だよ」

悪戯っぽい笑みを浮かべて名前さんが差し出してくれたのは、一口サイズの小さなチョコレートだった。

その時の感情をなんと呼べばよかったのだろうか。当時の幼い俺には知る由もなかったが、あの時名前さんから漂ってきた甘い香りと、内緒だよという言葉の少しの背徳感の狭間で、俺の胸はただただ締め付けられるばかりだった。

おずおずと受け取ったチョコレートは結局もったいなくて食べられないままだった。そしてあの時の感情が恋だと気がついたのは、それから何年も経った後のことだった。



広げた傘は黒地に花柄のラインが入った、どこからどう見ても女性もののデザインだった。細い持ち手がどうにも手に馴染まない。それでもこの雨から身を守る術としては本当にありがたかった。

「義勇、今帰り?」

振り返ると仕事帰りの姉さんがそこに立っていた。姉さんの視線はすぐに俺の手元に行き、そこからすっとのぼって傘の模様をじっと眺めた。

「その傘…」

家までの帰り道、並んで歩きながら駅で名前さんに会ったことを伝えると、姉さんはだから傘を持っていくよう言ったのにと俺を詰った。

「でもちょうどよかったわ。名前に連絡しようと思っていたところだったの」
「名前さんも同じことを言ってた」
「あら、そうなの」

エントランスで傘を閉じながら姉さんが笑った。下ろした傘の先から止めどなく雨の雫がこぼれ落ちる。二、三度傘を振るわせれば、すぐに小さな水溜りができた。

「その傘、私が返しておこうか?」

姉さんの言葉に手の中の傘を見やる。同時に別れ際に向けられた名前さんの笑顔を思い出していた。傘を返すというのは、もう一度会うための口実になるだろうか。

「いや、自分で返しに行くよ」

気づけばそう返事をしていた。姉さんはそう?と笑って、じゃあいつがいいか聞いてみるねと言ってくれた。



週末ならどっちも家にいるみたいよと姉さんがそう教えてくれたので、土曜日になって早速名前さんの家に行くことにした。一昨日の雨が嘘のように今日は晴れ渡っている。半袖でも暑いくらいだ。

名前さんは社会人になってから一人暮らしをしているようで、姉さんに教えてもらった家の住所は駅から少し離れた単身者向けのマンションの一室だった。エントランスで部屋番号を押して名前を告げれば、すぐに名前さんの声がして鍵が開く音がした。

「義勇くん、わざわざごめんね」

玄関の扉を開けてそう言った名前さんの声が、少しだけ鼻にかかっているような気がした。こんなにいい天気なのに長袖のカーディガンを着ている。貸してもらった傘を手渡すとありがとうと笑うので、慌ててこちらこそと付け加えた。

「よかったら上がっていって、散らかってるけど」

好きな人にそう言われて断ることができる人間などいるのだろうか。玄関に一歩足を踏み入れると、途端にあの甘い香りが全身を包むので、頭の芯までくらくらとするようだった。

リビングに通されれば、名前さんの言葉とは真逆で部屋の中はとても綺麗に整理整頓されていた。なんとなく落ち着かなくて無意識にTシャツの胸元を手で仰ぐと、名前さんは慌ててエアコンのリモコンを手に取った。

「ごめんね、外暑かったよね」
「あ、いや…」
「あのね、笑わないで聞いてくれる?実はバッグに入れてたと思ってたはずの折りたたみ傘、家に忘れちゃってたみたいでね、」

名前さんはそう言うと、口元を両手で覆って小さくくしゃみを一つした。そしてすんと鼻を啜るので、俺は慌てて名前さんの手からリモコンを取り去った。

「すみません、俺のせいで」
「ううん!私ってほんと抜けてるよね…。蔦子ちゃんにもいつも心配かけてばっかりなの」

冷たいお茶持ってくるねと名前さんがキッチンの方へ向かう。少しの鼻声と季節外れの長袖に、だから週末は家にいると返事が来たのかと察して、途端に申し訳なくなった。名前さんのおかげでこちらは雨に濡れずに済んだというのに、当の本人に風邪を引かせてしまうなんて。

小さな猫足のテーブルの前に座り、その上にエアコンのリモコンを置いた。名前さんがすぐにグラスに入ったお茶を持ってきて、その隣にどうぞと並べる。

「何かいるものがあれば買ってきます」
「大丈夫だよ!熱も出てないし、ゆっくりしてれば治ると思うから」

名前さんは、自分用にかケトルに水を入れてお湯を沸かしはじめた。そしてテーブルの角を挟んで斜め横にちょこんと腰掛けた。

暑いのはきっと、この部屋にいるのが俺と名前さんの二人だけだからだと思う。もう一度会いたいと思ってやってきたはいいものの、何を話せばいいのだろうか。テーブルの上で長袖から少しだけ出した指先をいじっていた名前さんがふっと顔を上げ、真正面から思いっきり視線がぶつかってしまった。

早く大人になりたいと思っていた。この恋を自覚してからは、早く大人になって、名前さんに釣り合う人になりたいとずっと思っていた。でも、当たり前だけれど俺が歳を取れば名前さんも同じだけ歳を取る。いつまで経っても埋まらないこの距離に、少しずつ焦りはじめていた。今の俺じゃ駄目だろうか。この距離を近づけるには、何か口にしなければ始まらないんじゃないだろうか。

頭がくらくらとしていた。名前さんの甘い香りはいつも胸を締め付けるから、俺はいつだって苦しい。

「名前さんのこと、好きです」

行き場を無くした思いが口になって、気づけば言葉になって溢れていた。名前さんは俺の言葉を認識するとはっと目を見開いて、そして戸惑ったように視線を逸らした。

「私は…」

眉尻を下げて、少し潤んだ瞳で、胸の辺りで合わせた指先をひっきりなしに動かしている。名前さんが次の言葉を口にするまでのたかだか数秒が、永遠に続く沈黙のようで自分の心臓の音だけがやけにうるさい。

「私は、義勇くんよりずっと年上だし…大学にも可愛い子いっぱいいるでしょ?私なんかより、ずっと…」

名前さんはそれだけ言うと、手の動きをぴたりと止めて、唇を真っ直ぐに結んでしまった。今にも泣き出しそうな顔をするから、触れたくてたまらなくなる。そんな顔をさせているのは自分だというのに。

「名前さんが俺のことをどう思ってるのか教えてほしい。納得出来る理由がほしい。じゃないと諦められません」

名前さんの言葉は、この長い片想いを終わらせるには到底納得できるものじゃなかった。年齢なんか関係ない。名前さん以外に好きだと思える人もきっといない。それはこれからも、きっと変わらない。

「…ないよ、そんなの」
「え?」
「そんな言葉、ないよ」

ようやく顔を上げた名前さんと再び視線が交わる。今度は真っ直ぐに揺らがない瞳に、否応なしに胸が高鳴る。

「だって、義勇くんに傘を貸したの…また義勇くんに会いたいって、そう思ったから」

静かな部屋にカチッと音が鳴り響いて、ケトルがお湯を沸かし終えたことを知らせた。名前さんが視線を逸らして立ち上がろうとする素振りを見せたので、思わずその腕を掴んでこちらに引き寄せた。

ぐらりと体勢を崩した名前さんがゆっくりとこちらに倒れ込んで、そのまま腕を引いてその体を胸の中に押し込めた。強く抱きしめると、今までで一番近いところからその甘い香りが漂ってくるから、強く強く抱きしめた。もう二度と離したくないと思ってしまうほどに。

「義勇くん…本当にいいの?」

胸の中で小さく名前さんが呟く。想像以上に熱い体温と柔らかさに、心臓の音がこのまま伝わってしまうんじゃないかというくらい激しく鼓動していた。髪の隙間から見える名前さんの耳が真っ赤に染まっていて、たまらなく愛おしいと思った。

「名前さんじゃないと、駄目です」

振り絞るようにそう伝えれば、名前さんは小さく頷いて、ゆっくりと俺の背中に腕を回してくれた。触れ合ったところがどこもかしこも熱くて、このまま溶けてしまうんじゃないかと思ってしまうほどだった。

「義勇くん…」
「…はい」
「お湯、冷えちゃう…」

その言葉に少しだけ腕の力を抜いてすぐ近くにある名前さんの顔を見ると、真っ赤に染まった頬が少しだけ悪戯っぽい笑みを見せていた。そんな可愛い顔をされたら、とてもじゃないけどこの腕を解けない。

「もう少しだけ…」

もう一度腕に力を込めて名前さんの肩口に顔を埋めれば、名前さんは少しくすぐったそうに身を捩って、それから俺の頭をぽんぽんと撫でた。敵わないなと思う。頭のてっぺんから足の爪先まで甘い香りが包むけど、その香りの向こうはやっぱり少しだけ苦かった。


(210721)