リプライズ

予定は白紙の日曜日の午後、玄関のチャイムの鳴る音がして半分眠っていた意識がハッと現実に呼び戻される。お父さんもお母さんも留守だったなぁと思い体を起こし玄関に向かうと、扉の向こうにいたのは義一だった。

「義一。どうしたの?」
「なぁ名前、今暇か?」

日曜の昼間に部屋着で家から出てきた人間に聞くセリフかとは思ったけれど、一応暇だよと返事する。すると義一は少しほっとしたような顔をして、それから後ろ髪をいじった。義一とは長い付き合いなので、それが照れ隠しの仕草だということはよくわかっている。

「じいちゃん家に行くんだけど、一緒に来ないか」
「じいちゃん家って、あの豪邸みたいな家?」

義一はこくりと頷いた。義一のおじいちゃん家といえば、街外れにある、地元の人はみんな知ってる立派なお屋敷だ。私も子どもの頃は何度か義一と一緒に遊びに行ったことがある。結構厳しいおじいちゃんで、義一はおじいちゃんのことが苦手だったんだよなぁ…と思い出したところで、どうして義一が私に声をかけてきたのかようやく理解するところとなった。

「いいよ、準備するから上がって待ってて」

そう言うと義一は勝手知ってる人の家、靴を脱いでリビングへと向かった。

隣の家に住む同い年の義一は、小さい頃からの幼馴染だ。泣き虫な義一は、いつも私か義一のお姉ちゃんの後ろに引っ付いているような大人しい男の子だった。それがいつの頃からか、意地悪されても泣かなくなり、友達もたくさん出来て、私が見上げるほど身長も伸びてしまって。それでも時々こうして私を頼ってくることがあるので、可愛いやつだとついつい甘やかしてしまう。

準備を終えてリビングの義一に声をかけ、二人揃って家を出る。下りのバス停にたどり着くとちょうどタイミングよくバスがきて、一番後ろの席に並んで座るとすぐに義一が口を開いた。

「来年から俺が神楽を舞うことになったんだ」
「神楽って、あの毎年奉納してる?」

冨岡家には代々伝わる神楽がある。それを年に一度舞って神様に奉納する慣わしになっていて、義一のお父さんが舞っているところを私も今までに何度も見たことがある。だけど、果たしてあの緊張しいの義一に務まるのかどうか…と、隣を見たら、すでにプレッシャーからかものすごく暗い顔でため息をつく義一がいた。

「なるほど、それでおじいちゃんの家なのね」
「ああ、神楽について書かれた本があるから目を通しておけって」

由緒正しい家柄というのも大変だなぁと同情する。けれど、義一の家に伝わる神楽は水をモチーフにしているらしく、動きが滑らかで素人目から見てもとても美しく、何度見ても見飽きないのだ。あの神楽を義一が舞うところを見てみたいと、素直にそう思ってしまう。思いつく限りの励ましの言葉を並べて義一に伝えていると、バスはようやく目的の停留所へ到着した。

出迎えてくれた義一のおばあちゃんからおじいちゃんが留守にしていることを知らされると、義一はそっと胸を撫で下ろしていた。神楽に関するものはまとめて蔵で保管されているというので、私たちは玄関から庭へ向かい壁沿いにそびえ立つ蔵の重い扉を開けた。

義一が裸電球のスイッチを入れると、薄暗い蔵の中もパッと明るくなる。見た目は古いけれど大なり小なり積まれた荷物には埃すらなく、きちんと手入れされているのだろうと容易に想像できる。

「どれだったかな…」

適当に目星をつけた義一が籐のかごの蓋をひょいっと開けた。横から覗き込むと中には無数の小さな紙切れが入っている。その一つを手に取って広げてみると、そこには年季の入った美しい文字が並んでいた。

「何で書いてあるんだ?」
「ええっと…貴方の…」

貴方の作る握り飯は握り加減も味付けも非常に良い塩梅で美味いと思う。

手紙には確かにそう書かれてあった。何のことなのかさっぱり検討も付かず二人して首を傾げる。義一が次に手に取ったのは、さっきのとはまた違う筆跡で、今度は何故かお風呂の湯加減の好みについて尋ねていた。

「ふふっ、なんだろう、面白いね」

そうして私達は本来の目的も忘れ、しばらくその小さな手紙たちを夢中で読み進めた。筆跡は二つ、片方がお風呂の湯加減以外にも好きな食べ物苦手な食べ物を尋ねたり、相手の体調を気遣っていたりしていて、もう片方の筆跡がそれに答えるように返事をしていた。まるで交換日記のようだ。

そして最後の一枚には、庭のノウゼンカズラの花はいかがいたしますかと書かれていた。

「ノウゼンカズラってなんだろう」
「あ、もしかして…」

心当たりがあるのか、義一は最後の一枚の手紙を握りしめたまま蔵を後にするので慌ててその背中を追いかけた。義一は広い庭を壁沿いに突っ切っていく。

やがてたどり着いた場所には立派な竹垣があり、その竹垣一面に緑のつるが這っていた。その一部が竹垣の向こうに立つ電信柱に絡まって、上へ上へとつるが伸び、まるで一つの大きな木のように姿を変えていた。そして電信柱のてっぺんでは、たくさんの朱色の花が咲き乱れていた。

「わぁ、すごいね…」

この花がノウゼンカズラと言うのだろうか。隣を見ると、義一はその花に視線が釘付けのようで、ただ静かに夏の空に揺れる朱い花を見つめていた。

「この花、子どもの頃から絶対に刈っちゃダメってじいちゃんに言われててさ。ご先祖様が大事にしてた花だからって聞いてたんだけど…この手紙を書いた人が育ててたのかな」

ノウゼンカズラについて書かれていた手紙は義一が持っているその一通のみだった。遠い昔、手紙の二人もこうして並んでノウゼンカズラの花を一緒に眺めたのだろうか。もしも叶うのならば、ノウゼンカズラの花は今年も元気に咲き乱れていると伝えてあげたい。

「神楽、頑張らないとな」
「うん、応援してるよ」

ようやく義一がこっちを向いて、そして晴れやかな顔をして笑ってくれたので、私もつられて笑ってしまった。生温い夏の風もどうしてか心地よく、私たちは笑い合ったまま来た道をのんびりと戻ったのだった。


(210616)