一夜限りの恋だから

難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき




吉原遊廓には鬼が棲む。愛憎渦巻くのこの場所で、それは徳川様の時代から実しやかに囁かれてきた噂の一つだ。鬼は人を喰うものだから、鬼には殊更気をつけなきゃいけないよと、それが先代の女将の口癖だった。

冨岡義勇と名乗る端正な顔立ちの青年は、その若さに見合わない大金を番頭に渡し、花魁を一人買いたいと宣ったそうだ。腰に下げた刀を隠すこともしないので堅気の人間でないことは明らかだったが、羽振りがよさそうなこともあり番頭は彼を追い返しはしなかった。

「鬼について知っていることはないか」

お座敷での宴もそこそこに、奥の間に彼を通すと開口一番そう言った。ああこの人は鬼狩りなのだと、私はそこでようやく気がついた。

先代の女将は親を鬼に殺されたと言っていた。自分が生き残ったのは鬼狩り様に助けられたからだ、とも。皆老婆の戯言だと相手にはしていなかったし、私もその一人だった。でも今になって思う、あの話は満更嘘ではなかったのだと。女将が語っていた鬼狩りの出立ち──黒装束に腰の刀というのは、今目の前にいる男の特徴と全く同じである。

「わっちはただの花魁でありんすから」
「そうか」
「お許しなんし」

そう告げると彼はそれきり喋らず、呑まず、それどころか私に指一本触れることはなかった。格子窓の向こうを見やりながら、夜も更けやらぬ前に吉原を後にした。

もう二度とお目にかかることもないだろうと思っていたが、予想に反して彼は足繁くこの部屋を訪れた。けれどいつまで経っても格子窓の向こうを気にするだけで、彼はちっとも私に触れようとしない。皮肉を込めてもっと安い遊女を買ったらどうかと言ったこともあったけれど、吉原を一番よく見渡せるのはこの部屋だと言うので、返す言葉も見つからなかった。

平たく言えば、退屈なのだ。大凡二時間程で彼は帰っていくのだが、その間私は彼の端正な顔立ちを眺めることくらいしかすることがない。気を使うことはないしなんなら部屋にいなくてもいいと言われたが、そういうわけにはいかない。番頭も女将も皆この男が私に熱を上げていると思っているのだ。

困り果てた私は、ある夜囲碁を打たないかと彼を誘ってみた。最初は断られたものの、私が退屈で死んでしまうと文句を言うと、将棋ならと渋々承諾してくれた。私は喜び勇んで襖の向こうの禿に盤と駒を持ってくるよう嬉々として告げた。まぐわいの最中だと思っていたのか、禿が酷く驚いた顔をしていたのでとても面白かった。

この世で一番退屈な時間が真反対になった。囲碁も将棋も吉原中の遊女はおろか、客の男にだって負けたことはない。そして彼もまた、私に将棋の対局で勝てたことは一度たりともなかった。何が面白いかって、負けたときの彼の表情だ。いつもは顔色ひとつ変えず部屋に佇む彼が、将棋で負けた途端歳よりも幾分か幼いような顔であからさまにムッとするのである。私はどうしてもその顔が見たくて、駒落ちを持ちかけることも手を抜くことすらも忘れていた。彼を義勇さんと下の名で呼ぶようになったのも、その頃からだったと思う。

「はい、王手」
「待った」
「待ったはなしでありんす」

季節が一つ巡ったころ、前々から上がっていた身請け話がようやく纏まる運びとなった。相手は実業家のおゆかり様だ。身代金もかなり色をつけてくれたようで、主人をはじめ店の者皆が喜んでいた。

義勇さんはいつからか、格子窓の向こうを気にすることもなくなっていた。義勇さんが鬼と口にしたのは初めて逢ったあの夜だけで、あれから私たちは遊女と客と呼ぶには少し風変わりな時を過ごしていた。対局料にしては随分高くついたのではないかと思うが、鬼狩りという生業は私が思うよりもずっと羽振りがいいのかもしれない。

「義勇さん」
「何だ」
「ここから先は花魁としてではなく、一人の女として私の話を聞いていただけませんか」

義勇さんは盤面を見ながら何やら考え込んでいたようだったけど、私の問いかけにすぐに顔を上げた。

父が事業に失敗して蒸発し、母はそれを苦に自害した。残された一人娘の私が借金のかたに吉原大門を潜ったのが十の頃だ。遊女として客を取るようになってから、いつか必ず金持ちの妾になってこの吉原から足を洗ってやるのだと、それだけを心の支えに生きてきた。ところが今は、ひどく口惜しく思うのだ。遊女でなくなる私は、もう二度とこの人に逢えない。

「義勇さんは私にただの一度も将棋で勝てなかったでしょう?」
「…言ってくれるな」
「だから一つ、お願いを聞いてほしいのです」

いつからだろう。その瞳に私を映して欲しいと、いつから私はそう願うようになってしまったのだろう。遊女が客に恋心など抱けば、最後は必ず不幸になる。この遊廓で数多の姐さん達がそうして身を滅ぼしていくのを何度この目で見てきたことか。私はそうはならない、絶対に。頭ではそう理解しているのに、心がそれを是としない。

盤を挟んで向かい合わせの状態から、私は義勇さんに隣り合うよう傍に寄る。膝に置いた義勇さんの手に自分の掌を重ねると、想像以上の温かさに私はまるで無知で初心な少女のように胸を高鳴らせらた。

「抱いてほしいのです」

義勇さんは僅かばかりに目を開いた。初めて見る表情だった。

「本気で言っているのか」
「後生のお願いです」

重なり合っていた手のひらを義勇さんが指を絡めるようにして繋ぎ直し、反対の手が私の頬をなぞった。一つも取り零すことがないようにとその瞳を見つめたままいると、どちらからともなく唇が重なる。口内を侵す舌はまるで意志を持った別の生き物かのように絡み合い、私は思わず義勇さんの胸に手を当てた。

唇が離れ苦し紛れに息を吐き出し、堪らず義勇さんの胸にしなだれかかった。義勇さんの左胸からとくとくと鼓動が波打つ音がする。ただの接吻一つでこの有様なんて、花魁のくせにと笑われてしまうだろうか。

「名前と言います。私の本当の名前」
「覚えておこう」

再び視線が絡み合えば同じように唇も重なる。義勇さんの唇は私の左の耳を掠め首筋をゆっくりと辿っていく。右の瞳から涙が一筋流れてしまったこと、義勇さんは気づいただろうか。

「名前」

哀しい。夜の隙間を埋めるようなこのひとときに、私は生涯身を焦がして生きていくのだ。こんなに幸せで哀しい夜の在り処を、きっと誰も知らない。


(210516)