「諦めます」と言いたくて

鬼というものが、妖ではなく本当にこの世に存在すると知ったのは、杏寿郎さんに初めて出逢った日のことだった。曇天の空の下、松明の炎のような髪が私の視界を遮ったかと思うと、杏寿郎さんは易々と私の体を抱き上げ、そして腰に下げていた日本刀で鬼の頸を斬り落とした。瞬きをする間くらいの、ほんの一瞬の出来事だった。

「君、大丈夫か!」

初めて見る鬼というものの恐ろしさに、私の全身はガタガタと音を立てるように震えていた。転んだ拍子に擦りむいた手のひらに気付いた杏寿郎さんは、血で汚れるそこに優しく手ぬぐいを当ててくれた。

「他に怪我は?」
「あ、あの、」

それでも尚体を震わす私に、杏寿郎さんは詰襟の洋装を脱いで私の肩にかけてくれた。特徴的な瞳の色はまるでお日様のように輝いていた。

高等女学校に通う私は、卒業したら親の決めた人と一緒になることが決まっていた。その方は父の仕事で取引のある方の御子息だったので、子どもながらにもこの縁談の意味をわかったつもりでいた。結婚し夫となる人を支え、子を産み育てる。それが私に課せられた役割だと思っていた。

杏寿郎さんに二度目に逢ったのは、鬼に襲われたあの日からしばらく経ってからのことだった。庭に迷い込んだ烏がじっと私を見つめて来るので、ああきっとあの方の──その時はまだ杏寿郎さんの名前を知らなかったので──遣いの烏なのだろうと察した。私は自分の部屋に置いていた、あの日預かっていたままの詰襟の洋装と手ぬぐいを手に取り庭先に降りると、烏はゆっくりと翼を広げ飛び立った。

烏は私の歩調に合わせるように、低くそしてゆっくりと空を舞った。人通りの少ない路地を抜けると突然現れた開けた場所に一本の銀杏の木が静かに立っていて、烏は大きく旋回してその木に背を預けて佇まう彼の肩で羽根を休めた。

「呼び立ててしまってすまない」

杏寿郎さんは初めて逢ったあの日よりも幾らか穏やかに微笑んでいた。私は慌てて傍まで駆け寄って、持っていた風呂敷包を杏寿郎さんに差し出した。

「あの、先日は本当にありがとうございました。何とお礼を申し上げればいいのやら…」
「礼には及ばん!それが俺の生業だ」
「左様でございますか…この洋装も…長い間お返しできず申し訳ございませんでした」
「構わない、替えなどいくらでもあるからな!」

洗濯をお願いした女中がこの洋装は非常に珍しい織物で出来ていると言っていたので、杏寿郎さんはそれを取りに来たのだろうと、私はその時までそう思っていた。思わず杏寿郎さんの言葉に些か首を傾げてしまうと、杏寿郎さんは少し眉尻を下げて笑った。

「君にもう一度逢いたかったんだ」

私はその時、自分の心の臓が激しく音を立てるのを確かに聞いた。


私たちの逢瀬は決まってよく晴れた昼下がり、私の女学校が終わって家に帰るまでの間のとても短い時間の中で行われた。杏寿郎さんが連れ立っている鴉には要という名があり、逢瀬の日には要が女学校の門で私を待ってくれているので、帰り際校舎から門の辺りをじっと見つめるのは私の日課になっていた。

自分の定めを忘れたわけではなかったけれど、杏寿郎さんに逢えば逢うほどに私の想いは募っていく一方だった。杏寿郎さんといると、私は胸の奥がたまらなく苦しくなる。逢えない日々は時が止まってしまったかのようで、辺りは途端に色を無くしてしまう。

「私、おかしくなってしまったのでしょうか」
「何故そう思う」

何もかも、家も家族すらも捨てて杏寿郎さんと共に生きてゆけたなら。杏寿郎さんとの逢瀬を重ねるうちに、次第にそんなことを考えるようになってしまっていた。思えど口にすることが出来なかったのは、言ってしまえば杏寿郎さんはきっと私の願いを叶えてくれるだろうと思ったから。優しい杏寿郎さんに私の人生を背負って欲しいなどとはどうしたって言えなかった。

「何度好きと伝えても足りないんです」

杏寿郎さんは困った子だとでも言わんばかりに、まるで子どもをあやすみたいに唇を寄せてくれた。こんなにも苦しいのに、こんなにも幸せだと思う、恋とは何と矛盾したものなのだろうと、杏寿郎さんの腕の中でそんなことを考えていた。


幾つか季節が巡って、卒業の時期が近づいていた冬のある日、両親に呼ばれた私はひどく叱責された。

「二度とあの男に会うな!」

私の様子がおかしいことに感づいたのは母の方だった。秘密裏に女中に後をつけさせたのだと、そういうことだった。何も言えなかった。嫁入り前の、それも許嫁がいる娘のすることではないと自分でもわかっていたし、破談になれば父の仕事にも差し障る。私は父の言葉に黙って頷くしかなかった。

女学校への行き帰りには女中が共にするようになった。要は利発であったので、私の様子を見て何かを察したようだった。いつもなら私の肩に止まって道案内をしてくれるはずが、黙って私の顔をじっと見つめるだけだった。

「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
 人づてならで 言ふよしもがな」

女中は首を捻っただけだったけれど、その言葉は確かに要に届いたようで、一つ頷くような仕草を見せると黒い翼をはためかせ空高く飛び上がった。

夜が更けると雪が降ってきた。杏寿郎さんは今頃何を思っているのだろう。怒っているだろうか。呆れているだろうか。最後に杏寿郎さんに逢ったとき、直に柱になると言っていた。私には鬼殺隊というもの、柱というものが何たるかを正確に推し量れているのかはわからなかったけれど、あの時杏寿郎さんが見せてくれた笑顔は杏寿郎さんの瞳と同じくお日様のように輝いていた。もう二度とあの笑顔を見られないのだと気がついて、その日は少しも眠れなかった。


しばらくは天気の悪い日が続いていた。あれから杏寿郎さんには一度も逢えず仕舞いで、私の様子を見た両親はいくらか安堵したようだった。私の気が変わらぬうちにと両親は祝言の日を取り決め、婚姻の準備を着々と進めていた。

眠れない夜と、疲れて眠り込んでしまう夜が交互に続いていた。その日はよく晴れていたものの夜は体に堪えるほどに冷え、私は中々寝付けずにいた。褥の中で目を閉じていると、ふと頬に冷たい空気が当たった。戸が開いていたのだろうか。ゆっくりと瞼を持ち上げた私は、目の前に広がる光景に思わず息を呑んだ。

「き、っ」
「静かに」

杏寿郎さんだった。久方ぶりに私の目に映ったその姿は、最後に逢ったあの日と何処か違うような気がした。いつも着ている隊服の上に見慣れない白い羽織を纏っていたせいかもしれない。

杏寿郎さんは私が声を上げる前に素早く私の口元をその大きな手で覆い、もう片方の手の人差し指を自身の口の前に立てた。そして私の体を抱き上げると、音も立てずに部屋を後にした。


「承服できんな!」
「えっ?」
「それが俺の答えだ」

杏寿郎さんは私の体を抱えたまま、風のように夜の街を駆け抜けた。冷たい夜の空気が耳を切るようだった。轟々と風鳴りの響く中、杏寿郎さんの声は確かに私の耳に届いた。

私は杏寿郎さんの胸の辺りをしかと握りしめていた。杏寿郎さんの羽織の裾がちらちらと風に靡き、私はそこで初めて炎を模した裾模様に気がついた。あんなに寒いと思っていたのに、私の体はその炎に焚きつかれたかのように熱を帯びていた。

街の外れまでやって来るのに五分とかからなかったのではないだろうか。鬼に、刀に、喋る鴉に、杏寿郎さんといると私はあの日からずっと妖の中にいるのではないかと思ってしまう。杏寿郎さんは私をゆっくりと地面へと下ろし、私も握りしめていた羽織をゆっくりと手から離した。

「俺は今から君を攫う。帰るなら今だ」

そう言った杏寿郎さんの瞳はやっぱりお日様のように輝いていたけれど、言葉とは裏腹に、私はその瞳の奥に潰えることのない炎を確かに見た。この方は生まれながらに炎の人なのだと、今更になってようやく気がついた。私はきっと、この命尽きる日が訪れるまでその炎に灼かれ続けるのだろう。

「この体も心も、全て杏寿郎さんのものです」

私の出した答えに杏寿郎さんは満足そうに口角を上げると、再び私の体を持ち上げ夜の街を後にした。私は杏寿郎さんの腕の中、胸に耳を寄せその鼓動の音を聞いていた。どくどくと脈打つように響くその音は、紛うことなく杏寿郎さんが今ここに生きているという何よりの証だった。


(210504)