円堂ハル

「よろしく、ハル」
「よろしくお願いします、えっと……」
「ナマエでいいよ」

 とっちゃんと母さまが女の子を連れて帰ってきた。知り合いの縁だとかで、少しの間うちで預かることになったらしい。
 その日から、俺の日常は少しだけ様子を変えた。学校から帰るとナマエさんは母さまと並んで台所に立っていたり、とっちゃんとテレビを見ながら他愛もない話をしていたりする。雷雷軒のラーメンがどうだとか、近所の店が閉店したとか、そういうどうでもいい話だ。
 そうでない日は、何をしているのか分からなかった。部屋にいる気配も、外に出ている気配もはっきりとは掴めない。気配だけがあるような、ないような。
 顔を合わせれば挨拶をする程度で、仲良くなった実感はあまりない。それでも、悪い印象は抱いていなかったし、親がいない日に二人だけで交わす会話も居心地が悪くなかった。沈黙が間に落ちても誰もそれを埋めようとしない、そういう距離感だった。

「ハル、見て、おまけしてもらった」
「良かったですね。でも、さっきラーメン……」
「あげる」

 差し出されたベビーカステラを反射的に受け取って、齧る。頬についていたらしい欠片をナマエさんの指先がすくった。
 ──どうしてこんなことになったのか、ことの発端は数時間前にさかのぼる。
 試合も練習もない休息日は時間だけが余った。からだが落ち着かず、何かをしなければいけない気がするのに、そうする理由が見つからない。傍にあったボールを転がして、壁に軽く当てては受け止める。無心で同じ動作を繰り返していると、扉をノックする音が部屋に響いた。

「ハル、いる?」
「すみません、うるさかったですか」
「気にしてないよ、一緒に出掛けないか誘いに来ただけ。どう?」
「良いですけど……」

 行き先は聞かなかった。というか、たぶん、ナマエさん自身も決めていなかったんだと思う。目に入った建物にふらふらと引き寄せられていくし、途中で引き返したり、知らない路地に迷い込んだりもしていた。何度か同じ場所を通った気もする。
 意外と抜けているところがあるのかもしれない。

「この辺りも結構変わってるね」
「来たことあるんですか?」
「すごく前に」
「すごく?」

 そう言ってナマエさんが笑った。何かを押し込めたような、もう諦めてしまったような、どちらとも言い切れない曖昧さが印象に残った。
 それ以来、時々、ナマエさんと外へ出掛けるようになった。決まった行き先があるわけじゃなくて、商店街を端から端まで歩いた日もあれば、電車に一駅だけ乗って何もせず戻ってきたこともある。再開発された通りでナマエさんが足を止め、こんな感じだったかなと首を傾げるのを隣で見ていた。
 気が付けば、そういう時間が一ヶ月ほど続いていた。

「付き合ってくれてありがとう」
「ナマエさん一人だと迷子になりそうですし」
「たしかに」
「否定しないんだ」

 笑って、そろそろ帰ろうかとナマエさんが言うのとほとんど同時に、サッカーボールが飛んでくる。ほとんど無意識に足を出して受け止めると、河川敷の方から小学校低学年くらいの子が走ってきた。

「お兄ちゃん、サッカーできる?」

 曖昧に返すと勝手に納得したようで、仲間の方を振り返る。人数は五、六人。ゴール代わりに置かれた水筒とリュック。線の引かれていない地面。勝ち負けも時間も、たぶん決まっていない。
 ナマエさんが「すっごく上手だよ」と口を開いたことで、その子の目がさらに輝く。そうして気が付けば、輪の中心に立たされていた。

 靴のつま先で土をならしながら子どもたちの中に入る。力は抜く。視野も狭める。先を読みすぎないようにする。普段無意識にやっていることを一つひとつ止めていく。
 途中からナマエさんも加わった。走り出しは遅く、歩幅も小さい。周りの速度に合わせているのが分かる。それでも、立ち位置だけは崩れなかった。ボールと人の間に自然と身体を入れて、選択肢を一つずつ消していく。
 奪いには行かず、相手が蹴ろうとした瞬間に次のコースだけを塞ぐ。結果、ボールは別の足元へ転がっていく。偶然に見えるけど、続けて起きることは偶然と呼べない。
 笑い声が風に押されるように河川敷を流れていった。勝ちたいとか、点を取りたいとか、そういう空気はない。ただボールが転がって、追いかけて──また蹴る。それだけの時間だった。

「ありがとうございましたー!」

 子どもたちが大きく手を振りながら去っていく。ナマエさんが河川敷の土手に腰を下ろすのを見て、少しだけ間隔を空けながらその隣に腰を下ろした。

「ナマエさんってサッカー経験者ですか?」
「物心ついたときからやってるよ」
「好きなんですね」
「……うん、だいすき」

 言い切っているのに柔らかくて、何かを誇るというより、ずっと傍にあったものを確かめているみたいだった。これまで見た中でいちばん穏やかな表情から、目を逸らすことができなかった。
 たぶん、羨ましかったんだと思う。ナマエさんが向けている「すき」は、俺が知っているサッカーとは違う場所にある。勝つためでも、証明するためでもきっとない。それでも確かに、彼女の中で生き続けているもの。胸の奥に残った熱は焦りとも、悔しさともちがった。
 ただ──触れてみたいと思った。ナマエさんが好きだと言った、サッカーに。