南雲原

 朝は目覚ましが鳴る数分前に目が覚める。唐突に引き上げられるような感覚ではなく、意識がゆっくりと浮上して、その流れのまま身体を起こすのが常だった。
 カーテンを開けると、朝日に照らされた南雲原の町並みが広がっている。昨日と変わらない位置で建物が並んでいることを確かめてから、ゆっくりと動き出した。洗面所の鏡に映る自分の姿は昨日と変わらない。髪の長さも、顔色も、どこにも差異は見当たらなかった。

「今日の放課後田中マート寄ってかない?」
「また小テストだってー」
「差し入れ何にしようかな」

 校内を行き交う声は、特別な意味を持たないやり取りとして耳に入ってくる。笑い声や足音は確かに存在しているのに、そのすべてが薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるようで、手応えだけが欠けていた。
 南雲原の日々は穏やかで、同じことを繰り返しなぞる生活は安全で、だからこそ知らないうちに何かを少しずつ削っていく。好きだったものも、嫌いだったはずのものも、区別を失って同じ速度で沈んでいった。何かを選ぶことや理由を与えること自体が億劫になり、判断を保留にしたまま一日を終えることも少なくない。

「ナマエって趣味とかないの?」
「フレスコ画とか? ……いや、すぐには思いつかないかも」
「やりたいことも?」
「うーん」

 放課後の屋上には来夏の姿があった。彼女とは同じ時間に、同じ場所にいるだけの時間が自然と続いていく中で、気が付けば挨拶の延長のような会話が生まれ、互いの名前を呼ぶ仲になっていた。こうして顔を合わせた日は自然と横に並んで、特別な目的もなく言葉を交わしている。
 返答に詰まっていると、来夏は頬杖をつきながら首を傾げた。

「じゃあ、一緒にダンスやる?」
「ちょっと楽しそう」
「体験入部だけでもしていきなよ。ナマエなら岩城も突き返したりしないと思うし」

 そう言いながらも、来夏の表情には以前のような張りがない。大会以降、彼女がダンスに対して距離を取っていることは他部員から聞いていた。部に顔を出す機会も減り、幽霊部員のような扱いになっているとも。彼女を目当てに入部した新入生が落胆し、事情を知って去っていくという話を同時に思い出しながら来夏の顔を見る。
 視線を辿って校庭を見下ろすと、野球部が恒例のパフォーマンスを披露していた。汚れたサッカーボールを蹴り、バットで打ち、ふざけ半分にぶつける。その様子を面白がって人だかりができ、校舎の窓からも多くの視線が注がれていた。

 この学校にサッカー部はない。過去に起きた出来事が原因で廃部になった、という話はここへ転入してから何度も耳にしている。ふと、敷地に落ちていた潰れたサッカーボールや、使われなくなって隅に寄せられたサッカーゴールが脳裏を過ぎる。胸の奥に何かが浮かびかけるのを感じながらも、それ以上は考えないように意識を逸らそうとして──視界の端を横切ったものが、思考の流れを強引に引き戻した。
 野球部の輪の外側にいた人物が、ふざけた流れの延長とは明らかに異なる踏み込みでボールを蹴ったのだ。力の向きも、角度も、遊びのそれではなく、かつて何度も見てきた『蹴るための動作』だった。
 ボールは直線的に伸びた先で野球部員に当たり、怒りに震える声が屋上まで届く。

「ナマエ!」

 脳裏に浮かんだのは、かつて自分にボールを差し出してくれた友人の姿だった。足裏に伝わる衝撃や、意図した通りに転がったときの確かな手応えが、現在の静けさを押し退けるように蘇ってくる。身体が覚えている感覚が思考より先に胸を叩く。
 消えていたのではなく触れられずに眠っていただけなのだと、その瞬間に理解した。

「やりたいこと、あるよ」
「え?」

 言葉は思っていたよりもはっきりと、形を持って外に出てくる。視線が向けられるのを感じながらも、校庭から目を離すことができなかった。
 理由を探す前に答えが出てしまったことに多少の戸惑いはあったが、何かを失ったまま漂っていた時間よりずっと良かった。