まだ春の鼓動を知らない

ぎゅう、ぎゅう、とただ白いキャンバスの上に足跡を残す音だけが響く。どこまでも続く雪に覆われた白い大地がまぶしく、目がチカチカとしてぎゅうっと瞑った。寒さは突き刺すようだけど、今日は吹雪いていないし晴れている分とても過ごしやすい。自分の歩いてきた足跡を眺め、いつもより遠くまで歩いてきてしまったかもしれないと思う。一息ついて荷物を降ろし悴んだ両手を擦り合わせると、少しずつ体温が戻ってくる。鯉登さんがくれた帽子を被っているから頭と耳はとても暖かいけれど、手だけはどうしても隠せない。(手袋をすればいいのだろうが、引き金を引く際になんだかズレを感じて慣れないのだ)

今日の晩御飯の足しになればと思い、野うさぎかもしくは鴨でも獲れたらと山まで出てきたけれど、残念ながら収穫はゼロだった。また尾形さんに嫌味を言われそうだと想像しただけで眉間に皺が寄る。(「俺を連れて行かんからだ、残念だったなあ蘇芳玲?」という彼の嫌みたらしいニヤニヤした顔が思い浮かんだ)(狩りにだって非番の日に勝手に着いてくるくせに)
ふと、ガサリと木々が揺れた。瞬時に銃を構えそちらに銃口を向ければ、そこにいたのはアイヌの女の子。



「なんだ、アイヌか…」



ちょっとだけ、いや、かなりがっかりした。動物だったら食べられたのに残念だなあ。ポツリと呟いた瞬間、後ろから木々の揺れる音がした。わたしが振り返るよりも速くわたしの身体を完全に拘束する何か。人間?力が強すぎて、もがけばもがくほど締め付けられるように身体が痛む。後ろから羽交締めにされたかと思えば、そのまま地面に叩きつけられ息が上手くできない。なんだこの人、馬鹿力すぎる。力の強さからして男性だろう。ぐるりと視界が反転して、馬乗りになるような形でわたしを取り押さえる男を確認するも、逆光で顔まではよく見えなかった。離してもらいたくて力なく脚をバタバタさせたけれど全く効果はなく、締め付けは強くなる一方だ。



「テメェ、アシリパさんに何してやがる」
「ぅ、はっ…な、に」
「あの子に手を出す奴は許さねえ」
「は、 話を くっ…」



誤解を解きたいのに、このままでは殺されてしまう。ミシミシと音がするんじゃないかというくらい首や胸元を圧迫され、意識が遠のきかけた頃 わたしが初めに銃口を向けたアイヌの女の子が「杉元!何をしてる!」と声を荒げた。その瞬間にパッと手が緩み、ゲホゲホと勢いよく咳き込むと被っていた帽子が落ち、束ねていた髪の毛が露わになる。そんな情けない姿のわたしを見た男は、「え、お、女の子…?」とショックを受けたように突然狼狽え始めたのだった。







「ほんっとうに悪かった!」
「…良いですよもう、顔を上げてください」
「いやでも…俺の気がすまないよ」



そう言って眉毛を八の字にする軍服・軍帽の彼 杉元佐一さん。傷だらけで筋肉質な彼の風貌を見るに、退役した軍人なのだろう。ただ、退役してもなお こうして軍服を着用しているのは不思議だ。きっと彼にも事情があるのだろうと思うし、深くは聞かないでおこうかな。彼の背中をポンポンと軽く叩いて励ますように、「気にしてませんから、ね、杉元さん」と微笑むと、彼は少しだけ安心したように「ゴメンね、何かあれば力になるから」と答えた。
「そうだぞ玲、杉元が言うように私たちはいつでも力になる」とアイヌの少女 アシリパさんも声をかけてくれる。こんな山の奥でちぐはぐな二人組に出会うと思ってもみなかったわたしは、そんな言葉をかけられてつい頬が緩んでしまう。



「ところで玲さんはこんなところで何してたの?」
「わたしは晩御飯の食材を、と思って」



そう言いながら背負った銃をちらりと見て「父のお古で…形見なんです」と笑えば、杉元さんはぐにゃりと顔を歪めて眉間に皺を寄せた。きっと、わたしのことを可哀想だとかそういった目で見ているのだろう。こうした同情の眼差しにはいつまで経っても慣れないな、と思いながらゆっくりと目を伏せる。そんなわたしを見かねてか、アシリパさんが食事に誘ってくれた。ちょうど昼時だし、わたしも持ってきていた握り飯と少量のおかずを差し出せば二人とも涎を垂らして喜んでくれたのだった。(感情表現が豊かすぎるなあ)



20240227
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