高嶺の花_9
いつもよりうんと早い時間に目が覚めた私の、起き抜けのぼんやり頭に浮かぶのはもちろん荒船くんしかいない。与えられた一日の猶予のおかげで余計に緊張感が高まっていた。昨日別れて以来、何をするにしても絶対彼のことを考えてしまう。最初からこうなることを見越して時間をくれたのかもしれない。とんだ策士だ。
高嶺の花という表現したことに対し荒船くんは納得のいかない不本意そうな顔をして、私にとっての“当たり前”に異議を唱えた。一晩明けて改めて考えてみれば勝手な決めつけを当人に押し付けるのは確かに失礼なことかもしれないと飲み込めた。親や教師が子どもに“良い子”であることを求めるのと同じで、相手に理想の姿であることを強要していたようなものだ。
私は荒船くんを“自分なんかとは違うすごい人”と思うばかりで、立場や肩書を取り払ったフラットな状態で見れていなかったのだと思い知らされた。
いくつかの反省点を踏まえた上で考えると、私にとっての彼は親切で面白い友人に他ならないと同時にストレートに好意を伝えられて不快感を感じる相手でもなかった。好きか嫌いかの二択で考えればもちろん前者。けれど、高校三年生にもなって自分の中の「好き」という感情の分別が苦手なものだから、今ある感情が恋なのか友愛なのか結論が下せない。以前の吊り橋効果がまだ続いているだけの可能性だって十分にあり得る。
こんな状態でどう返事をしても、それは失礼ではないだろうか? などと自問自答を何度か繰り返してみたのに、薄目で確認した時計の針は全然進んでいなかった。
約束の時間までまだ1時間はある。
待ち合わせのモールに到着してしまった私は、取り敢えず前に入ったカフェで時間を潰すことにした。
出迎えてくれた店員の「何名様ですか」の問いかけに一人ですと答えようとした矢先、すぐ後ろから頭越しに「二人です」ときっぱり声がした。
顔を引き攣らせながら振り返ると、視線の先の荒船くんは以前のようにキャップで自分を煽ぎながら「よう」と目を細めたのだった。
返事って、彼と合流してどのタイミングで言うべきなんだろう。そもそも映画の前?後?面白みのない真面目腐った思考回路で幾つものシミュレーションをしてここまで来たというのに、想定していた全てのパターンを冒頭から粉々にぶち破ってくれた荒船くんは運ばれてきた飲み物に口をつける。グラスの中で氷がカラリと涼しい音を立てているが、私は汗を流しっぱなしだ。完全に冷や汗なんだけども。
「ええと、集合までまだ1時間以上あるのに随分早いね?」
「ミョウジもな」
「あ、うん。そうだね。確かに……」
初めて映画館で会った時並に上手く会話ができない。許してくれ……。わけもなく神様的ななにかに許しを乞い、天を仰ぎそうになる。
暑い中ここまで来たくせに、入店時のアクシデントで動転しホットティーを注文してしまった私は、落ち着け落ち着けと自分に念じつつ白く華奢なカップに手を伸ばした。甘い色をした湖面に波を起こしながら一口含むと、軽度の火傷を負った。
入試の面接で短所を聞かれたらイレギュラーに弱いところだと自信を持って答えようと思う。
すっかりポンコツと化している私が気の毒に映ったのか、荒船くんは昨日のことを即座に持ち出すことはせず、「そういえば」とわざとらしい前置きをして話し始めた。
「今日の映画、シリーズものの二作目なんだが…」
そう切り出され思わず前のめりになる。夏休みに入ってから見た映画の話を聞いて欲しいとずっと思っていたからだ。
今までみたいに、楽しく。
「一作目なら借りて見たよ」
「らしいな。どうだった?」
「傘の柄にグラスを引っ掛けて飛ばすのがスタイリッシュすぎて笑っちゃった! あと、何と言っても教会のシーンの緩急あるアクションがかっこ良かった……」
「どっちも好きだろうなと思ってたシーンだ。かっこよさと画面のオシャレさに振り切ってる作品だよな。俺は特に……」
頬杖をつき、してやったりの表情を浮かべるのが様になっている。会話の主導権を渡して今度は彼の好きなシーンの話に相槌を打つ。徐々についさっきまでの緊張はほぐれ、絡まっていた糸の結び目を一つまた一つと解いていくようにゆったりと時間が流れる。
荒船くんは昨日の話を引っ張り出す様子もないし、もしかしたらアレは夢だったんじゃないかとすら思えてしまう。
「他にも何か作品観たか?」
「週に一本から二本のペースでいろいろ。アクションだけじゃなくて感動系とか恋愛ものとかSFとか、気になったのを適当に観たよ」
「特に面白かったのは?」
「どれも面白かったけど、そうだなあ……。普段全然見ないから、ラブストーリーは新鮮で面白かったかな」
「へえ、なんてタイトルだ?」
タイトルを口に出した瞬間、私たちは顔を見合わせた。
私の馬鹿! と瞼の裏で自分に掴みかかっても状況は覆らないし、時間は巻き戻らない。再度グラスを傾け氷を鳴らしている彼も、たぶん内容に覚えのあるタイトルだったのだろう。
元々感情が顔に出やすい私が明らかに「しまった」と言わんばかりに口を歪めたため、荒船くんも流石にもう受け流してはくれなかった。半弧に濡れるコースターへ氷だけが残るグラスが戻され、それが合図となった。
件の作品は小さな書店を営む普通の男性と大女優の恋愛を描いた物語。つまり、高嶺の花の話である。
「恋愛映画で勉強したミョウジの“答え”がいよいよ聞けるってわけか?」
「……勉強とか、そういうんじゃ……」
言い訳が店に流れるささやかなオルゴール音にすら負けた。テーブルの上で白くなるほど強く組んでいる指に視線を落とし、やっぱり夢じゃなかったなんて、そんな当たり前のことにひっそり息苦しくなった。
吸うも吐くも浅くしかできず、酸欠気味の頭では言葉をまとめきれないでいると、「ミョウジ」と私を引き上げる声がした。ハッと顔を上げ、ようやく普段の呼吸のリズムを思い出す。
「昨日の話なんだけど、」
一度ブレスを挟み脳内で続きを積み上げる私を、彼は辛抱強く待った。
「その……、私は自分に自信がなくてすぐに卑下しちゃうし、人の目も気になっちゃう臆病者で。だからいつも自分のことにいっぱいになってて、荒船くんに私の価値観を押し付けてたのかもって昨日のやり取りで気付いた。だから、まずは謝らせて欲しい。ごめんなさい」
「ああ」
窺った先の荒船くんは「分かってくれたならそれで良い」と目で語り、姿勢を正して続きを促す。
とっくに知っていたことだが、いい人だなと改めて思うし友達になれて良かったとも思う。そしてだからこそ、今が惜しい。
何度も頭の中で練習したセリフを、1フレーズも漏らさぬよう懸命に追いかけた。
「それで、昨日言われたみたいに自分なんかって考えを取っ払って返事をするなら、好意を持ってもらえたことは嬉しいし、私も多分、荒船くんのことが好き……だと思う。……ただやっぱり、また自分本位になって荒船くんを傷付けたりガッカリさせるかもしれないし、それで友達ですらいられなくなるのは嫌だから、お付き合いとかは、ちょっと……。こんなこと言うの、ズルいと思うんだけど、今のままじゃダメなのかな」
あ、眉間に皺。
荒船くんの表情がすぐに険しくなった。ズルいことを言っているのは百も承知なので予想の範疇だが、それでも圧がすごい。でも素直な気持ちを伝えたことに後悔はない。
自分の名前が呼ばれるのを待つ定期テストの返却時のように縮こまり待っていると、額に手を当てた彼は溜め息を吐いた。永遠のように感じられた時間だったが実際は十秒も経っていない。
再度目が合い、自然と背筋が伸びた。
「付き合う前から別れる時のこと考えてんのかよ。怒りそうだ」
「う、も、もう怒ってんじゃん……」
「怒ってねえ、呆れてんだ」
その一言でギュと心臓を握られたような感覚に陥った。咄嗟に深呼吸をして痛みを逃す。
そのわずかな隙を見逃さず、荒船くんが私に照準を合わせた。
「いいか? 高嶺の花なんてふざけた持ち上げられ方しても、俺は傷付いたりガッカリする以前に絶対覆してやると思ったし、実際その結果が今だ。それに、俺はお前の悪いことばっかり先に考えるところも、映画を観た後内容に気を取られて足取りが覚束なくなるところも、寝起きの悪いところも、イレギュラーでパニクって熱いもん頼んじまうそそっかしいところも、全部込みで好きだと思ってんだ。それでもまだ不安かよ」
身に覚えのある具体例をポンポン出され、言葉を失う。これまで情けないところを披露し続けていた自分に呆れるとともに、こんなしょうもない出来事をひとつひとつ丁寧に覚えている彼に驚いた。
一体いつから好きでいてくれていたんだろう。そう考え始めるともう私の負けで、みるみる顔が火照ってくる。
目を回しそうになっていると、荒船くんは肩をすくめて笑うのだった。
「そんな顔しておいて「好きなのに付き合えません」はねえだろ」
「……コロコロ意見変えるなって言わない?」
「返事を変えるなら今のうちだ」
めちゃくちゃカッコイイ台詞だな。いつだかと同じ感想を抱きながら、観念した私は「不束者ですが…」と頭を下げて更に笑われた。
§
ハ? 好きなキャラが死んだ……。
彼が最期に歌った有名な曲が頭の中で巡る巡る。メタ的に考えるとかなりおいしい死に様だったし、記憶に残る良いシーンだった。しかしそれはそれ。何故こんなことに……。
人の流れに呑まれながら劇場の扉を抜けると一気にざわめきのボリュームが上がる。飛び交う会話の断片をぼうっと拾って歩みを進めれば、不意に手を捕まえられた。
「またフラフラしてんなお前は」
「荒船くん……」
「魂が抜けてるぞ」
そりゃそうでしょなんて口答えする気力も、握られたままの手に照れる余裕もない。この気持ちをどうしたら……。そう長嘆息しかけていた私だったが、そう言えばと右隣に目配せをする。
「どうした?」
「……荒船くん、このあと何か用事とかある? 感想聞いてよ。一人では抱えきれない」
「! ああ、奇遇だな。ちょうど俺も同じこと言うつもりだった」
彼はこちらの提案に一瞬だけ虚をつかれたようだったが、すぐに目を楽し気に光らせて口角を僅かに持ち上げた。
その瞬間、目の前で星が飛んだ。……あっ。
──目がキラキラ輝いちゃって 小鳥も飛び回り……
件のフレーズが頭の中で鐘のように何度も響く。
ああ……、こういうことだったんだ。高嶺の花なんて言っていたのが途端に馬鹿馬鹿しくなり、作品屈指のお調子者の言葉遊びがすとんと胸に落ちた。
「ミョウジ? 今度はどうした?」
「目がキラキラ輝いちゃって 小鳥も飛び回り……ってやつ、今私も分かった、かも」
伝えたいことをきちんと汲み取ってくれた荒船くんが言葉に窮し、まばたきを繰り返す。それに対してかわいいなあと思ってしまった私は、彼との距離を詰めるのだった。
なんだ。恋って、難しく考えなくても良かったみたい。