高嶺の花_8
傘を持っていないのに雨の匂いがしてきた時みたいな、そんな嫌な予感がしていた。そのせいか単に根を詰めているせいか集中力も早々に切れ始めている。図書館の自習スペース内に木霊するシャーペンの音を聞きながら、観念した私は筆記用具をノートの上に手放す。少し早いけどお腹も空いてきたし帰ろうかな。頭に入るわけでもないのに文字をぼーっと目で追って思案していると、不意に肩を叩かれた。
振り向いた先には荒船くんの姿があった。私は数回瞬きを繰り返す。同校の生徒を見かけることは珍しくないが、ボーダー推薦が決まっている彼とこの施設で顔を合わせるのは初めて。口を開きかけた私を制し、彼は「少しいいか?」と音にならない声で伺いを立て出口を親指でさす。それに肯首を返し手早く荷物をまとめ、席を立った。
「わざわざ悪い」
「帰ろうかなって思ってたところだったし丁度良かったよ。ところで今日はどうしたの? 図書館で初めて見た。珍しいね」
首を振りながら冷房の効いた図書館を後にする。ずっしり重そうな入道雲は遠くにあるばかり。もちろん雨の匂いなんてしてこないし、夏の風物詩となりつつあるゲリラ豪雨に遭う心配もなさそうだった。
その代わり、沈み始めている日に反して涼しさは置いてけぼりだ。外気の暑さに顔をしかめる私の隣を歩きながら、荒船くんは含みのある視線を寄越した。
「ミョウジに会いに来た。話しとかなきゃならねえことがあってな」
「話?」
SNSや電話ではできない話なのだろうか?意図を汲み取れず首を傾げる。彼が痺れを切らしたかのように口を開く。
「……高嶺の花ってのはどういう意味だ?」
それを聞いてハッとする。今日ずっと付きまとっていた虫の知らせの正体はきっとこのことに違いない。
爽やかな笑みを浮かべひらひらと手を振っていた同級生のことを思い出しながら頭を抱えそうになった。
本人のいないところで荒船くんの話をした私に非があるけれど、まさか速攻で当人の耳に届くとは。
「犬飼くん、言わないって言ったのに!」
押し出した恨言に荒船くんは少しも笑ってくれず、代わりに非難めいた口調で返事をする。
「男子高校生に向かって高嶺の花って、お前なあ」
単語を重ねられるとバツが悪い。別に陰口のつもりで使った言葉でもないのだけれど、言いようのない後ろめたさがあった。悪いことをしたのがバレてしまった時のように居心地が悪くて、どんどん指先が冷えていく。
「嫌な意味で言ったんじゃないよ! そうじゃなくてね……」
「そうじゃなくて?」
慌てて弁解を試みても、力を込めれば込めるほど言い訳は空虚に響く。しかし、彼はわざわざここまで来ておいて用件を有耶無耶に流してくれる人ではない。
落ち着いた声が、力なく消えた私の言葉尻を反芻し続きを促した。もはや怒られる子どもの気分だ。自然と視線も足下に落ちる。引き伸ばされ始めた互いの影が付かず離れずの距離感のままゆらゆら進んでいた。
「ええと……。荒船くんは勉強も運動もできるし、というかきっとできるようになるまで努力する人なんだと思うし、それに加えてボーダーに所属して街を守ってるすごい人だから、私とはステージが違うなあって尊敬してて。だから良い意味のつもりで高嶺の花って表現を……」
「ステージが違うってなんだよ」
今度こそ声には微かな怒気が混じる。会話をするときはいつも映画の話題ばかりだったので、こうして普通の喧嘩みたいなことをするのも初めて。
察しの悪い私は彼の憤りの核を見定められず仲直りの仕方も分からない。けして怒らせたかったわけではないのに。
人と衝突すること自体ほとんどないから、脳みそはパニックになりつつあった。しかし、適当に謝罪をして済ますのではなくせめて彼に対しては嘘偽りなく誠実でありたい。荒船くんは私の大事な友達だから。
「も、もちろん友達だとは思ってるよ! でも異性としてどうかと問われると私なんかがおこがましいって思っちゃうし、そもそも手が届かない存在ってイメージと言いますか。あのほら、例えばロイ・ミラーみたいな。……いやあれは最後結ばれるからちょっと違うか」
つい最近見たラブコメ色の強いアクション映画のヒーローを引き合いに出して説明すれば、帽子の影でピクリと眉が動く。前置きなしにキャラクター名を持ち出してしまったが通じたらしい。
前もって話をしていたわけでもないのに同じ作品を見ていたという事実がどこか嬉しい。こんなタイミングで喜んでいる場合ではないけれど、会ったら話したかった映画の感想もたくさん溜まっているのだ。長期休みに入る前、顔を合わせては話に花を咲かせていた日々が懐かしく感じられた。
そのぼんやりした思考を遮るように目の前の影が突然手を繋げた。
確認するまでもなく、私の左手には自分以外の体温がある。
「……」
思わず立ち止まった私の手を引き、何事もなかったかのように荒船くんは歩みを進めた。混乱したまま半歩分の遅れを大股で取り戻し、おずおず話しかける。
「あの〜、ちょっと荒船くん、なんか、手が……」
「簡単に届くだろ」
そういう意味で言ったんじゃないよ、と答えかけたが荒船くんがあまりにも真面目な表情をしていたので気圧されて言葉をのむ。妥当な返答が浮かばない私は、口を開けたり閉めたりするばかり。そんな様子を見て私にとっての高嶺の花は長い長いため息をついた。
「すごい人って勝手に持ち上げられて線引きされんのは、面白くない。……俺はミョウジのことが好きだが、そういうところはどうかと思うぜ」
「えっ」
「あのなぁ、ミョウジの言う“すごい人”の俺は、自由に人を好きになっちゃいけねーのかよ。それとも俺に好きだって言われんのが迷惑か?」
「……」
「おい、聞いてるか?」
「き、聞いてる……けど、ええ?」
好きって……友達として?
こんな状況下にありながら馬鹿げた確認しようとしたのに、聡明な彼は「異性として」と正しく私を先回りした。「顔に書いてある」なんて言って考えを読まれることは今ではもう珍しくもない二人にとってのお決まりのパターンではあるが、いつものようには笑えない。
強く降り注ぐ西日のせいだろうか。それとも左手で温められた血液が全身に回っている? とにかく全身が熱い。こめかみを伝う汗が鬱陶しくて、空いている右手で雑に拭った。
私はこういう時、ハンカチもタオルも使わずその場しのぎをするような人間だ。荒船くんのように前もってキャップを用意しておくような計画性もない、適当な性格。推薦の面接に向けて考えなければならない自身の長所もこれと言って思いつかず、ちょうど頭を悩ませている最中である。
つまるところ、私は私に自信がない。これっぽっちも。荒船くんに好かれる要素なんて皆目検討もつかない。
「……どうして」
だから、純粋な疑問が口をついて出た。極度の混乱で目頭がじんわり熱を持ち、視界が滲む。思わず目元を手で覆うと、西日を眩しがっているのだと勘違いしたのか、荒船くんが私の頭にキャップを被せた。そして、言いにくそうに返事をくれる。
「“目がキラキラ輝いちゃって 小鳥も飛び回り”、じゃ答えになんねえか?」
私たちが仲良くなるきっかけとなった映画シリーズのセリフ。目深に被せられた帽子の影響でお互いにお互いの表情は窺い知れないが、はっと息を止めた私の様子から、意味が伝わったことを彼も察したらしい。
「明日16時」
手を離されたかと思うと、1枚のカードを握らされる。やや大きい黒キャップを右手で支えながら確認したそれは映画の前売り券。ちょうど犬飼くんと会った日に借りたシリーズの最新作だ。
「今すぐ返事してくれって言っても難しそうだから、一日だけ待つ。自分なんかって思うのをやめて、ただ俺の気持ちをどう思ったかだけ聞かせてくれねえか。お前が来るまで待ってるからな」
いつの間にか辿り着いていた家の前に私を置いて、荒船くんはそのまま去っていく。短く整えられた茶髪の先が、夕陽を受けてきらきら光って見えた。
たくましい背が見えなくなるまで呆然と立ち尽くしていた私は、そこでようやく気が付いた。映画館で偶然鉢合わせたあの日、彼が自分の家を通り過ぎてまで私を送ってくれていたことに。