裸足で深海を行け_1
言葉は真っ直ぐな方が良い。
「好きです付き合ってください!」
今日こそ届きますようにと祈りを込めて言い切ったナマエを一瞥し、七海はフーッと長く息をはいた。特徴的な眼鏡を外し、疲れた様子で目頭を揉んでいる。その姿を見て、高校の頃の担任が自分を叱る前によくやっていた動作と同じだなと思い至り、ついついナマエの背筋がピンと伸びた。
短い沈黙の間に漂う空気は不穏を極めていた。胸にひしめくのは嫌な予感。眼鏡を戻した彼はトドメを刺すためか、ゆっくり丁寧に、小さい子どもに言い含めるような口調で「いいですか?」と切り出した。
「私はいつ死ぬかも分からない、人には説明しずらい職に就いています。ですから、どなたともお付き合いする気はありません。アナタの気持ちにはお応えしかねます」
「えっ、もしかしてヤの付く、」
「違います」
馬鹿馬鹿しい妄想を冷たく否定され、ホッと胸を撫でおろす。
「それじゃあ何も問題ないですね」
ニッコリ笑えば、「アナタ話聞いていましたか?」と顔を顰められた。明らかに理解ってない女に辟易としているようだった。
彼は綺麗な顔をしているが、目元が少し涼やかすぎて場合によっては怖くも見える。ナマエよりずいぶん上背もあるし、体格も良いので今だって結構な迫力がある。
けれども、そんな些細なことで尻尾を巻いて逃げるナマエではない。なんせ、告白はもう両手で数え切れないほどしているのだから。
「もちろんです。七海さん、いつ死ぬか分からない、なら尚更今のうちに出来ることはやっておいた方が良いと思いませんか? 恋愛も試してみると楽しいかもしれませんよ。そして何とここに、お誂え向きの練習台があります!」
「練習台でいいんですか」
「いや、練習台のままだとあんまり良くないですけど……。でもそこから本命のポジションに滑り込むぞと言う意気込みなので大丈夫です。臨機応変にいきます」
「……」
彼は額に手を置いたまま答えない。呆れかえって物も言えないのかもしれないし、今の主張のメリットとデメリットを天秤にかけてくれているのかもしれない。これは好機!ポジティブがウリのナマエは、後者である可能性に賭け、さらに臆せず畳みかけた。
「どうでしょうか! 私は七海さんのことが大好きで、大抵のことなら仕方ないなあって許しちゃうと思うので、スナック感覚で恋愛の美味しい部分だけつまむにはなかなか良い物件だと思いますよ」
「とんでもない言い方をしますね……。それに飛びついたら私は相当なろくでなしでは?」
「そんなことはありません。私の提案ですから。それに、そう言う時点で全然飛びついてないじゃないですか。私としては飛びついてもらった方がありがたいんですけど」
「どうしてそこまで私にこだわるんです」
ああ言えばこう言う、口の回るナマエの主張を訝しんでいるのか、七海はそう訊ねた。「私のどこが好きなんですか」と聞かれたようなものだ。往来でそんなこと言わせるんですか?! と顔を覗かせかけた羞恥心を押しとどめ、落ち着いて言葉を返す。言葉は真っ直ぐ。不備なく伝わるように。
「そ、れは、なかなか難しい質問ですね……。理由はたくさんありますよ。顔も声もすごくタイプだからとか、電車で妊婦さんにスマートに席を譲ってたのがかっこ良かったとか。でも一番はやっぱり、見えない痴漢から助けてもらったからですね」
ナマエには、電車内で痴漢に悩まされている期間があった。それも普通の痴漢ではない。腰から尾骨にかけて触られる感覚があって振り返って見てもいつも誰もいないのだ。慌てて手を引っ込める人がいるわけでもなく、ただ自分だけに触られているような感覚があるだけという非常に奇妙な状況だった。夢?いやいや、立って寝るほど器用じゃないし。誰かに相談したくても説明が難しくて言い出せない。日に日に募るストレスで頭がおかしくなりかけているところ、車内で「ちょっと失礼」とナマエに救いの手を差し伸べてくれたのが七海だったのだ。正しく言うと、彼は手を差し伸べたのではなく電車の揺れに合わせてふらついたように見せかけナマエの肩に手を置いただけなのだが、あの日以来姿のない痴漢はいなくなった。
無理やり名前を聞き出し、こうして会話をするようになっても七海はもちろんあの時のことを「私が解決しました」なんて言ったりしない。けれども、あの一瞬で何かをしてくれたのはナマエにも分かる。たまたま目に入ったとか、見るに堪えない状態だったとか、理由は分からないがどうあれ自分が救われたというのは紛れもない事実であり、彼を慕うようになるのも無理からぬ話だというものだ。
「……助けたのが私以外の方だったら?」
「ここにあるのは七海さんに私が助けられたという事実のみなので、その質問はナンセンスです。それに、たとえ出会いが偶然でも私の気持ちは必然です。……実体験もあって私は何となく、七海さんのお仕事に察しがついてますし、本当にオススメ物件なんですよ」
見上げると、いつの間にか眼鏡を取っていた彼と視線が交わる。色素の薄い、綺麗な瞳は真っ直ぐこちらを射抜いていた。ナマエは、彼の顔がとびきりタイプであることを再確認しつつ、その魅力をも凌駕する優しさを感じ取っていた。
七海の最初の断り文句には、ナマエのことが嫌だというような言い回しは一切なかった。あったのは、恋人に悲しい思いをさせる可能性への懸念のみ。
他人のことを心から思える優しいあなたを近くで支えたいと願うのは、私の傲慢でしょうか。
沈黙に耐えかねておずおずと口を開く。
「…………告白の件、やっぱりどうしてもダメ、ですか?」
「そうですね……一旦持ち帰って考えても構いませんか」
「ですよね……って、えっ?! 良いんですか?」
お断り前提で頷こうとしていただけに、七海の言葉に耳を疑った。今まで何度も告白し玉砕してきたナマエだが、その場で首を横に振られなかったのはこれが初めてだ。目を丸くするナマエに、七海は顔色ひとつ変えず答える。
「それを今から考えるんですが」
「もちろんです。考えてくださる時点でかなり嬉しいので! 私はいつまでも待ってますから! 前向きに検討をお願いします!」
「営業マンみたいですね」
「私はウーマンです!」
「そういう意味ではありません」
一瞬、つまらないボケをピシャリと封じたつれない七海の固く結ばれた口元が微かに解けたように見えた。彼がどんな結論を出そうとも、今日のこの瞬間が幻覚でなければそれだけでも嬉しいなと思った。