裸足で深海を行け_2
何を血迷ったか、彼女の真っ直ぐさにあてられて、色よい返事をしてしまった。馬鹿なことをしたと思う一方で、その言葉を取り消す気は起きなかった。
最初の頃こそ頻繁に来ていた連絡は徐々に回数を減らし、気づけばこちらから声をかけるまで音信がない有様だった。早々に飽きられたのかと思ったが、早めに仕事を切り上げた日に連絡を入れてみると、彼女は弾んだ声でそれに応じる。第三者がこの関係を知れば彼女は都合の良い女と評されるに違いなかった。付き合って欲しいと言われたとき、彼女が説得材料にしたワードが脳裏をかすめた。
付き合うと返事をしたからには、彼女の提案したような、一方的に与えられるだけの存在にはなるまいと決めていたのに、これでは七海は完全にろくでなしだった。
「何か言いたいことはありませんか」
「言いたいこと、ですか」
数週ぶりに昼食の約束を取り付けた。連絡を入れると相変わらず彼女は二つ返事を寄越し、今こうして、通勤時とは打って変わった華やかな装いで向かいに座っている。
空いた皿を下げてもらい、食後のコーヒーを飲みながら、七海は先の質問を投げかけた。
意図を掴みかねている様子の彼女は言葉を返してなぞり、分かりやすく混乱していた。しかし眉間にしわを寄せうんうんと唸った後、細めていた眼を丸く開いて、特にありません!と元気に笑う。そこに偽りなど欠片もなく。普段七海が対峙している負の感情とは縁遠そうな清々しい笑顔を見ていると、溜息がこぼれた。
耳聡くそれに気づき、眼前の相手は困ったように首を傾げる。今のはどう考えてもこちらが失礼な態度を取ったにすぎないというのに、責めもしない。そうさせている元凶が言うことでもないだろうが、本気でロクでもない男に引っ掛かるのではないだろうか。
そんな心配までしてしまっていることが意外だった。自分で思っているよりずっと彼女を気にかけていたようだ。仮にここまでが全て計算づくだったとしたら恐れ入るが、彼女に限ってそれはないだろう。気持ち良いほど真っ直ぐに喋る人なのだから。
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「意思確認です。急に連絡が途絶えたので、関係を精算したいのではないかと」
「まさか!」
少々意地の悪い言い方になったかもしれない。言葉を音にした後そう気づいたが、彼女は腐ったりせず食い気味に七海の発言を否定した。大袈裟に口をへの字に曲げ、瞳を不満げに揺らしている。思ったことがすぐ顔に出るのは、悪意にまみれた社会では生きづらそうだなと思った。
何か言いたそうに見えたので黙って見つめていると、今度は照れたように目を逸らされた。人の目を真っ直ぐ見て喋る人という印象が強かっただけに、しおらしい態度は珍しかった。
「……正直に言うと、私はこんなに人を好きになったのが初めてでして」
そう口火を切った彼女は、やはり顔を上げた。時折視線を彷徨わせるが、すぐに七海の切れ長の目に戻ってくる。こういう丁寧な誠実さを、七海は好ましく思っている。
「今までは、相手はこういうこと言われたいのかなとか、こうすると喜ぶかなとか、相手の期待を先回りして接するという小狡いことをしていたんですけど、七海さんが相手となると上手く読めなくて自分の期待をぶつけたくなっちゃうんです。でも、最初にスナック感覚で恋愛の美味しい部分を……とか言った手前、そんな重い気持ちを知られちゃまずいなと思って、今、大人しくしてるんです。全部白状しちゃって、お恥ずかしい話ですけど……」
そこまで話し、一度区切る。そして、思い出したように手を合わせた。
「七海さんこそ、私にして欲しいこととか、ないですか?」
「ありません」
即答した七海は再度深く息をついた。向かいの彼女はしゅんと肩を落としている。場の雰囲気が重い。
別に、そう気落ちさせたかったわけではない。今の一言だけでは何も伝わっていないようなので、思い違いを起こさないためにもよく考えて言葉を重ねた。
「私は、真っ直ぐに告白してきたアナタと付き合うことを決めたので、無理に変わろうとしなくて結構です。そのままでいてください。どうしても改善して欲しい点があれば伝えますし、何の説明もなしにアナタを嫌うことはありません。どうせ良い方に転ばないので一人で悩まないでください」
「……七海さんって私のこと好きなんですか?」
「は?」
何を馬鹿なことを。七海は眉間のしわを深くした。あの真っ直ぐな告白に同情だけで応えられるほど酷い人間になったつもりはない。
電気が爆ぜるようにピリついた空気を感じ取ったらしい彼女は、いや、その……などと慌てた様子で必死に言葉を探していた。
「私があんまりしつこいもんだから、仕方ないなという気持ちで付き合ってくださっているのかと思っていたんですが……」
「私は貴方のことを憎からず思っていますから、その考えは改めてください」
「……怒ってます?」
「はい」
「すみません……。でもあの……」
「何か」
「今、天にも昇る気分です」
怒られる者らしくピンと姿勢を正す彼女であるが、そう言って心底嬉しそうにはにかんだ。花の咲くようなその笑みを見ていると何だか全てが馬鹿馬鹿しくなり「まあ良いか」と七海はお説教を割愛することにした。折角の逢瀬なのだから恋人らしく、もっと楽しい話をしよう。