1.
廊下側、前から2番目の席。席替えはもうしないとやる気のない担任が宣言したから、ここが私の定位置。
「古文の教科書貸して」
換気のため休み時間には必ず開けている窓から、ひょいと教室を覗き込んだ人気者は片手で私を拝んだ。
文庫本を閉じて教室を見渡したが、どうやら柳生くんは不在のようだ。残念なことに他のテニス部も見当たらない。私は窓枠に肘を乗せている仁王くんに向き直った。
「柳生くんは居ないみたいですけど」
そう伝えると、彼は瞳を細めてケラケラ笑った。何かおかしなことを言っただろうか? 首をかしげてみたところで皆目見当がつかなかった。
「何か変なこと言ったかな?」
「あー、いやすまん。柳生がおらんのは知っとるよ。やき、古文の教科書貸してくれんか?」
「うーん、柳生くんは良い人だと思うけど勝手に教科書を借りるのはどうかと……」
とは言えあの紳士な柳生くんが怒っているところはあまり想像ができない。むしろもしかしたら、仲が良い仁王くんに対してはそのくらい慣れっこかもしれない。うんうん唸っていると、私を見下ろしている仁王くんはさらに肩を震わせていた。
「そう。俺も柳生には怒られたくないけ、お前さんに教科書貸して欲しいって言っちょるんじゃけど」
「私?」
自分で自分を指差す私を、重ねて仁王くんが指差す。間抜けな図だ。どうやら今までずっと会話が噛み合っていなかったらしい。
「ああ、“私”じゃ。大して仲良くない俺には貸したくないかの?」
「ううん、大丈夫です。少し待ってね」
わざわざ友達でも何でもない私に声をかけるだなんて、きっと全然知り合いに出会わなかったのだろう。たらい回しにされたのなら可哀想だなと勝手な設定を盛りつつ教室を出て廊下の個人ロッカーから古文の薄い教科書を取り出す。
後ろを振り返ると、思っていたよりも近くに仁王くんが立っていて少し面食らった。パーソナルスペースが広めだと自覚している私は距離を稼ぐように両手を突き出した。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
柳生には内緒な、と言い残し仁王くんは踵を返した。
気だるそうに歩く猫背は廊下でたむろする生徒の間をするする抜けて、二つ隣の教室に入っていった。
§
「ミョウジ!化学!化学貸してくれ!」
件の窓が勢い良く開けられた。慌ただしく身を乗り出してきた丸井は私の机の上を見て手を伸ばした。たった今閉じたばかりの化学の教科書を勝手に抱えた彼はそれに頬ずりせんばかりの勢いだ。化学の先生は忘れ物に厳しい人なので気持ちは分かるが、気持ち悪いのでやめて欲しい。
「貸すのは良いけど1時間100円ね」
「ほらよ!」
「痛っ!」
冗談まじりに右手を出すと、丸井はそこに力強くお手をして走り去って行った。こちらが怒る間も無く、だ。こんなに強く叩かれたとなると損した気分で少し文句も言いたくなる。丸井め、小学生かよ。
じんじん脈打つ手のひらを慰めるように揉んでいると、今度はやや低い声が掛かった。
「今の丸井か?」
台風のような友人と入れ替りで現れた仁王くんは廊下を走り去る赤髪の背に目線を投げているようだった。
「うん」
「ふぅん。なあ、俺今100円持ってないんじゃけど取ってきた方がええ?」
大げさに下げられた眉を見るに、さっきの会話は筒抜けだったと思われる。わざとオーバーなリアクション付きで私にちょっかいを出す仁王くんはずいぶんと物好きらしい。詐欺師などと言う二つ名もしっくり来る意地悪さだ。
「冗談だから間に受けないで欲しいです」
口をへの字にして、返される教科書を受け取る。仁王くんがまた笑ったのを見て、なんだか手のひらの上で踊らされているような気分になった。同い年のはずなんだけどなと考えつつ教科書を片付けるため立ち上がると、一時間前と同じように窓枠に肘をついた仁王くんが口を開いた。
今度は私の目線の方が高い。上目遣いで三白眼の鋭さが増している。
「それにしてもミョウジは真面目と思っちょったけど、置き勉とかしとるんじゃね」
仁王くんは寡黙でクールだと思ってたけど、ただの同級生にフレンドリーに話しかけるんだねと素直に言葉を返しかけた私はそれをぐっと飲み込む。純粋な感想なのだが、喧嘩腰だと捉えられかねない。
あまり親しくない相手とのコミュニケーションは難しい。
「国語は得意な方だから置いてても大丈夫なんです」
「理系なのに?」
「……うーん、英語が得意だったら私は文系クラスだったかもしれないです」
「へぇ。……ところでミョウジサン、なんで同い年の俺に微妙に敬語使うんじゃ? 丸井とはえらい仲良さそうやったけど、なんか俺嫌われとるんかのう? 心当たりがないけ、ショックぜよ」
こてんと首をかしげる仁王くんからの、予想外の指摘に私は一瞬固まった後慌てて首と手を振った。
「あ、いや違うの。丸井は同じクラスだったことがあるけど、仁王くんとは今までかかわりがなかったし、あんまり話したことないからいきなりタメ口使ったら馴れ馴れしいと思われるかなと……。ごめんなさい、心配性というかなんというか……」
「俺、馴れ馴れしかったかの?」
「滅相も無い! 全然! 私は気にしないから!」
「そ。俺も気にせんけ、その気持ち悪い敬語やめんしゃい」
「き、きもちわるい……」
あけすけな物言いは心配性の私には出来なさそうな芸当だが確かに必要以上にかしこまられるのもまた不愉快なのかもしれない。やっぱりコミュニケーションって難しい。
脳内反省会を開き、「次からは気をつけます、あ、気をつけるね」とうなだれると仁王くんは満足気に頷いた。
「それじゃあ、これは教科書のお礼とお近づきのしるしナリ」
そう言うや否や、彼は私の目の前に手のひらを突き出した。驚いてまばたきを繰り返すしかない私を見てニヤリと口角を上げ、手をくるりと返しながら握りこぶしを作る。
たっぷり三秒の沈黙を破り、ゆっくりと再び細い指が開かれると、そこにはビニールに入った小さなパステルカラーのブロックが二つ。飴だ。
えっ! と声を上げてそれを食い入るように見つめる私の手に半ば無理やりお近づきのしるしを乗せた仁王くんはまるで魔法使いのようで。
「じゃ、またな」
自分の手のひらと仁王くんの顔を交互に見やる。そんな私を尻目に、仁王くんはあの魔法の手のひらを振ってまたも廊下をするりと抜けて行くのであった。