まだそうだと気付かない

 ポアロで次の新しいイベント絵を描いた遙は、一度家に寄って着替えを取りに行くことにした。早めに昴の所に戻らないと、心配しそうだしな……と眉を下げて小さく笑みを浮かべた遙が、鍵を開けて扉を開けた所で携帯が鳴った。画材の入ったトートバックを玄関に置いて携帯画面を見ると、そこには知らない番号が映っていたので出る気はなかったが、一拍置いてお昼に助けた綺麗な銀髪の男性に電話番号を教えたことを思い出したので、もしや、と思い「もしもし……?」と電話に出れば、『……さっきは助かった、感謝するぜ。――で、礼がしたいんだが』と耳に心地よい低音が鼓膜を揺らした。遙は自分の考えがあたったこともあり、ふふっと柔らかく微笑んだ。

「いえいえ!お礼は本当にいいんですよ!俺が助けたくてしたことですから……!」
『そうもいかねぇな……空いてる日はあるか?』
「ちょ、ほんっとうにいいですって!?」
『明日はどうだ、――遙」
「ひえっ」

この人、ほんっとうにいい声してる!と思わず頬が熱く火照ってしまった。しかも押しも強くて断れそうにない雰囲気に、遙は早々に白旗をあげた。「……あの、出会ってまだ1日もたってないんですけど、これだけは言わせてください……その声はズルいです!――明日、空いてます」とむくれた声で答えると、電話の向こうで低く喉で笑う声が届いた。『住所を送っておけ、迎えに行く。――ああ、オレの名は黒澤陣だ』と告げられて、遙はそこでやっと相手の男の名前を知らなかったことに気付いた。覚えるように「じくろさわ、じんさん……」と言葉にすると『そうだ。じゃあな、明日楽しみしてるぜ……住所、忘れるんじゃねェぞ』と釘を指すように再度伝えると、電話は切れた。
電話が切れてから、遙が思い浮かべた相手がいた。

「……昴に明日のこと、なんて言おう……」

遙は右頬を人差し指で軽く掻くと、脳裏に腕を組んで「僕も一緒に付き合いますよ」と言ってくる最近過保護になった昴の姿が浮かんできて、大きなため息を吐いたのだった。

▼▲


――とりあえず、遙はコナンに連絡して協力を仰いだ。昨日は家から着替えを取って工藤家に戻る途中でコナンに連絡を取り、明日はコナンと出掛けることにしてもらったのだ。晩御飯を一緒に食べている最中に昴にそのことを伝えると、先にコナンが連絡していてくれたらしく「ええ、コナンくんから聞きました。――ボウヤが一緒だから心配はないだろうが、くれぐれも周りには気を付けてくれ」と沖矢の声で赤井の言葉を告げられて、思わず遙は咳き込みながら「り、りょうかいでーす……」と苦笑いしたのだった。

……そして、本日。遙の目の前には黒澤陣がいた。カラン、と手に持ったグラスが音を立てている。酷く艶のあるその姿に、遙は思わず見惚れてしまいじっとジンを見つめていると、視線に気付いた陣の伏せていた深緑の光彩が遙の黒い瞳と混じり合ったので、ドキッとした。そうして口端を微かに上げたジンが「そんなに見られると、穴が開きそうだ」と少しからかい混じりに言うので、遙は頬を染めながらコホンと喉を整えると「あんまりにも美しい男性がいれば、みんな思わず見つめますよ!眼福ですからね!」と果汁100%オレンジジュースを飲んだ。遙はお酒が苦手なのだ。頼んだ時も「ガキか」とジンに鼻で笑われたので、遙は「まさか初対面で、こんなお洒落なバーに連れて来られると思わないでしょう!?」と小声で抗議したのはつい数分前のことだ。

「陣さんはお酒好きなんですね、ジン、美味しいんですか?」
「飲んでみるか?」
「うーーん……じゃあちょっとだけ!」

手に持っていたグラスを遙に近付けたので、受け取って少し傾けた。舌がピリリッとして遙は表情を思いっきり顰めた。すると、ジンが「ふっ、ブサイクだな」と目を細めた。そんなジンにグラスを押し付けながら遙は「俺はオレンジジュースで十分です……」とゴクゴクと口直しをした。一息ついた様子にジンは「昨日はなんであそにこにいた」と問いかけられたので、遙はすぐに答えた。

「ああ、行きつけの喫茶店に絵を描きに。俺、絵を描くのが趣味なので」
「どんな絵だ」
「!!陣さん絵に興味あるんですか?……み、見ます?」
「見せてみろ」

遙がぱあっと今日一番の輝いた表情を見せた姿に、ジンは思わず目を奪われた。いそいそとトートバックからスケッチブックを取り出し広げて、これが今度描こうと思っていたデザイン原案で、こっちはこの間応募して小さいけれど賞をもらったイラスト、そしてこっちのは雑貨店で仲良くなった店主から頼まれて描いた動物たちの絵です、と嬉々としてジンに説明してくれる姿が何故だかとてもいじらしく見え、ジンは思わず手を伸ばした。触れた黒髪の柔らかさが、癖になりそうだった。指通りが良く、さらりとジンの武骨な指の間を踊るように通り抜けていく。「陣さん?」パチリと目を丸くして不思議そうな表情をしている遙の目尻を、ジンは優しく撫でていく。それは、ジンにとっても無意識だった。

「?……っくすぐったいですよ!」
「……じっとしてろ」
「いやいや!?俺の絵の話、聞いてました!?」
「聞いてねぇが?」
「いやそこは聞いてて!?」

遙はムニムニと顔を触り続けるジンに突っ込むと同時に、ジンの携帯が鳴った。ジンがすぐに不機嫌になり舌打ちをしたので、遙は仕事の電話かな?と一応オレンジジュースを飲み干した。「俺だ。連絡するまで電話はかけるなと言った筈だぞ……」と威圧のある声音で電話先の相手に告げていたが、ジンの言葉を聞いていると、もうこれでお開きのようだ。遙は広げていたスケッチブックをトートバックに戻すと、濃紺のカーディガンを羽織った。ジンがチラリと目で合図して電話を切ると「……仕事が入った」と眉を寄せながら立ち上がったので「忙しいのに、今日はありがとうございました!」と遙は微笑みながら、ジンと一緒に椅子から立ち上がった。

会計で軽く「俺が払う」「いや、俺が」「それじゃ礼ならねェだろうが」「あっ」と言い合って、遙は深々と頭を下げて「ごちそうさまでした」とお礼を告げた。バーを出ると、もう会うことはないだろうと思った遙が「では、本当にありがとうございました!楽しかったです!」と柔らかい笑みを見せた所でジンが「……遙」と呼んで左手首を掴んだ。まるで、離れたくないというように強く――

「次に行く場所を、考えておけ」
「――えっ」
「これで終わりじゃねェよ」

深緑の色彩が、遙を静かに見つめて離さない。遙がその圧におずおずと頷くのを見届けると、ジンはようやく掴んでいた手首を名残惜しそうに離すと綺麗な銀の髪を揺らめかせながら反対の方に去っていった。

遙は、先ほどのジンの様子に少し恐れを抱いていた自身を宥めるように、ジンが強く掴んでいた自分の左手首を右手でぎゅうっと抑えたのだった。