「うーん、遅くなっちゃったな…」
ポアロに行く前にマフラーを取りに家に寄った為に、すぐ向かって到着する時間より遅くなりそうだった遙は、梓さんに連絡しておくか、と信号待ちでバックからスマホを取り出した。チャット画面を開いて最近お気に入りになっている猫のゆるかわいいスタンプと共に、少し遅くなりそうだという言葉を送った。平日の昼間で仕事のお昼休憩でランチに出掛ける人が多いせいか、信号前は結構な人数になっていた。信号機下に付属されている数字が0になると同時に、規律正しく人々が動き出した。
足早に人の垣根を慣れた足取りでするすると抜けて歩いていた遙の耳に、男性の喧騒の声が聞こえた気がして、徐に足を止めた。何処だろうとあちこちに視線を向けていると、店先の少し奥まった路地裏で、銀色が鮮やかな長髪の女に、不良の男子学生が怒鳴っているのが見えたので、遙は眉を顰めた。そこ横ではサングラスをかけた恰幅の良い男が立っており、事の成り行きを見守っているように見えた。遙は心配になって更に眉を寄せ、そちらに足を向けた。
▼▲
「おい!なんとか言えよ!ぶつかっておいて謝らねーなんてよ、ああ゛!?」
目の前の目障りな不良の男子学生に、銀の長髪を揺らしたジンは、一つ舌打ちをした。今すぐこの目の前の人間を撃ち殺したかったが、白昼堂々出来ることではなかった。誰が見ているかもわからないし、出来れば颯爽と立ち去れるのが一番いいのだ。ウォッカは、聞こえた舌打ちを聞いて本格的に焦り出して「早く失せろ!」と告げるが、「うっせーよおっさん!」と息巻いて反論されてしまう。ラチがあかないと判断したジンが「ウォッカ、こいつを連れて行け」と不機嫌さを隠すことなく告げると、ウォッカが「い、いいんですかい、兄貴…」と問いかける筈だった言葉を飲みこんだ。ジンの背後に、こちらに向かう青年の姿が見えたからだ。ジンもその存在に気付いたのか、ゆっくりと後ろを振り返った。
―― そこには、柔らかい黒髪を揺らして澄んだ美しい瞳を丸くした青年が立っていた。
「あ、あの…大丈夫、ですか…?――っ…すいません!俺てっきり女性かと…」
「あ、兄貴が女性…だと!?」
「わ゛ーーすみません…!!」
ばっと頭を下げて勢いよく謝った遙に、ジンはじっと視線を送るだけで、口を開かない。ウォッカだけが思わずと言った様子で答えて、ゆっくりとジンの様子を窺うかのように目を向けていると、不良の男子高生が痺れを切らしたように「おい…!てめえ、一言俺に謝っていけ!」とジンに手を伸ばす。―― が、その手はジンの胸倉を掴むに至らなかった。何故なら、その手を遙掴んだからだ。止めようと手を伸ばしかけていたウォッカが、その両手を暫し彷徨わせた後にゆっくりと下ろした。
「オニイサンさ……急に入ってきて、なに?」
「んーーー…まあ、落ち着いて落ち着いて!君、何処に住んでるの?ここに何しにきてたのかな?」
「あ゛?ダチと遊ぶ約束してたんだよ、ここで待ち合わせでな。そしたら、こいつらが急にこっちの路地から出来てき俺にぶつかったのによ…謝りもしねーんだよ、むかつくだろ!」
「それは災難だったなあ…でもさ、まあ、道も狭いし!こっちから出来てくると見にくそうだし、このぶつかった綺麗なお兄さんも気付かなかったんだよ。君がここに座ってるって。だからさ、えーーーっと、あ、そうだ!この飴!6個もあるんだよ!俺の栄養補給用だったけど、特別に君にあげよう!とっても美味しいんだ!ほらほら食べて!」
「あ?……――っちょ、おい!やめ…むぐ!!」
「食べたね?どう?美味しいでしょ?」
「………ま、うまいな」
「よーーーし、じゃあこの飴の美味しさに免じて、今日のことは忘れよう!君も早くお友達に連絡して、場所を変更したらどうかな?」
「……っち!変なオニイサンだな…わーったよ…」
不良の男子学生は口の中の飴玉を転がすと、最後にジンを睨んでその場を後にした。それに笑顔で手を振った遙が、穏やかに微笑んで困ったように眉を下げた。
「急に割って入ってすみません…女性で外人の方かと思ってました…」
「いや…助かったぜ、ニイちゃん」
「良かった…!」
ウォッカが、にっと笑んだのに安心した遙が、今度は照れたように少し頬を染めて笑ったので、ジンは鋭い眼光を少し緩めた。「あ!あなた方にもあげます!本当に美味しいんですよ、この飴」と嬉々とした表情で飴を差し出す遙の様子を、ジンは微動だにすることなく見つめていた。変わりにウォッカがその飴を受け取り、短くお礼を告げると遙は頷いて答えた。じっと話さないままのジンに遙は日本語分からない男性なのかな…とそのまま気にすることなく「一緒にそこまで行きませんか?」と言うと、そこでジンが初めて口を開いた。
「お前、名前はなんだ」
「っ!(この人話せたのか…!てっきり…)すみません、名前も告げずに……!遙と言います」
「…遙か、一緒に来い」
「ええっ!?」
「兄貴っ!?」
ジンの言葉に全く同じ反応を返した遙とウォッカは二人で目を合わせた後に、ジンに向き直った。
「ごめんなさい……俺、これから用事があって…今もそこに向かう途中なんです」
「礼をしたかったんだがなァ……―― 連絡先、教えていけ」
「あ、あにき…?」
遙は頭を下げると、ジンの言葉に頷いてバックからメモ紙を取り出して、そこにさらさらちとペンを滑らせてジンにそれを渡した。受け取ったジンがその紙を見ると名前と電話番号が書いてあったので、遙に目を向けた。遙は微笑むと「一応教えましたが、お礼はいいですので!」と告げた後、思い出したようにはっと焦ったような表情になった。慌てて時間を確認すると「っごめんなさい…一緒にって言ったんですけど…俺、約束があって…!言い出したのは俺の方なのに、本当にすみません…!本当にお礼はいいので!」と路地裏から大通りに慌てて駆けて行った遙の後ろ姿を、ジンは引きとめるでもなく眺めた。
―― 大通りに出て、注ぐ陽射しの中に溶けた遙の艶ある柔らかい黒髪を、風が遊んでいき、白い項が露になった。そこに、一つの赤い花を目に止めて、ジンは目を細めた。
本当に小さいが、見る者が見れば、それは一目でわかる。―― それは、その者が誰かの者であるという、証だった。
「兄貴…?どうしやしたか?あの遙って男、気になるんで?まあ、確かに何処かで見たことあるような気もしやすが……」
「……ウォッカ、調べておけ」
「へいっ」
そのウォッカの返事を合図に、ジンはようやくその場から歩き出した。口元には、静かに薄い笑みを浮かべていた。