03

「じゃ、いってきます」

少し遅刻気味になってしまったはるとは、走り出るように家を出た。「小狼ほんとすまん…!」と呟いて、走る速度を上げようとした時、ふっと甘くて優しい香り交じる魔力の気配を感じてはるとは思わずスピードを緩めた。近くではない。何処からかはるとに教えるかのように風が意志を持って運んできている。はるとは視える目で他の人には見えないモノを掴むかのように宙で何かを掴む動作をした。風はただそれに賛美して甘えてくるだけで、運んできた香りについて伝える気は一つもなさそうだった。はるとはそれに困ったような表情をして「まあ…そのうち多分、会えるだろ」と後ろ髪を引かれつつも小狼の元へと急いだ。

▽△

「なんとか、間に合いましたね…」

ほっと息を吐いてはるとが席に着くと、すぐに桃矢と雪兎が来てくれた。そして、桃矢の手にはリコーダーが握られていたので、はるとが首を傾げると、それに気付いた桃矢がリコーダーをひらひらとさせて「さくらの忘れモンだ。いまからゆきと持ってくから、はるとも一緒に来いよ」と言ってくれたので、はるとは嬉しそうに頷いた。

いつもの場所へ向かうと、さくらの姿が見えた。知世や小狼も一緒にいるようで、何やら女性と話をしているようだった。多分、初めて見る小学校の先生だ…新任の先生かな?と思いながら、フェンスに着いた。「さくらー!今日笛のテストだろ、玄関に忘れてたぞ」と桃矢が呼びかけるとさくらが振り向いた。

「あや!?そ…そういえば鞄の中になかったかも…」

ありがとー!と駆け寄ってくるさくらの可愛さにはるとがふふっと笑っていると、その女性もこちらを見て優しげに微笑んでいる。とても可憐な美しい女性だったので、はるとが思わず見惚れていると、急に風がざわめいた。まるで、朝のことを教えるような感じだったので、はるとがはっとしていると、その隣で桃矢が気を張り詰めた気配がしたので、見れば桃矢が目を見開いて驚いていた。「か…ほ……」とまるで言葉を絞るように呟くと、その女性が微笑んだ。

「おっきくなったね、とーや」

▽△

それからの桃矢は、ずっとぼーっと心此処に在らずの状態が続いていた。雪兎がお昼を買いに行って戻ってくると、「はい、おごり」と飲み物をくれたので、はるとはありがたく貰うことにした。桃矢も「さんきゅ」とお礼を言って受け取ったが、今度はその飲み物を眺めてぼーっとし出した。頬杖をついて眺める雪兎の真似をして、はるとも同じ格好で桃矢を眺めた。

「綺麗な人だったね。観月先生」
「そしてとても可憐な方でしたね、観月先生」

雪兎とはるとの言葉に、桃矢がぎくっとした。雪兎がお昼を食べるために紙袋から菓子パンを取り出すと食べ始めた。もぐもぐと食べながら「聞かないほうがいい?」と聞いてくる雪兎に桃矢は黙った後、ひょいっと雪兎の手から菓子パンを奪って食べると「…もうちょいしたら話す」と告げた。「うん」と返事をした雪兎が次に取り出した特大フランス調理パンをはるとが感心しながら見つめつつ、はるとは観月歌帆のことを思い出していた。間違いない。彼女が朝、風たちが運んできた甘くて優しい香り交じる魔力は彼女のものだ。間違いなく、彼女は自分たちと同じ人間だとはるとはお弁当の唐揚げをお箸で掴んだ。それを口まで持って行こうとした所で、腕を掴まれた。視界から唐揚げが消えて、その原因を追えば、犯人は桃矢だった。もぐもぐと口を動かしており、その先にあるはずの唐揚げがない。

「桃矢…私が作った唐揚げの味はいかがですか?」
「お前が作ったのか?……うん、美味い」
「そうですか…」

楽しみにしていたのに…とはるとは眉を下げて卵焼きを口に入れた。でも、何やら桃矢が先程とは違う嬉しそうな表情をしているので、はるとはまあいいかと食事を進めた。雪兎が「良かったね、とーや」と微笑んだ後に「僕にも今度はるとの唐揚げ、食べさせてね」と言うので、はるとは「ええ、私ので良ければ喜んで」と目を細めて笑うと頷いた。

―― 授業も全て終わって桃矢や雪兎と帰り、家に着いたはるとは、鞄を置いてソファに深く座ってゆっくりと体を落ち着けていると携帯が鳴ったので確かめると、そこには【着信:シギル】と表記してあった。はるとはふっと笑みを浮かべると、すぐに電話に出た。「もしもし」と言い終わる前に、シギルの低いが落ち着いた声音が『はると、ずっとお前の声が聞きたかった』と言葉を被せてきたので、はるとは困ったように笑った。

「相変わらずだな、シギル。李家からの鍛錬縛りが終わったんだろう?お疲れ様」
『ああ…やっと、お前に電話することを許された。死ぬかと思った』
「そこまではないだろう流石に…オーバーだな」
『…唯でさえ、こんなにも長い事離れていたんだ。そう思うさ』
「ご当主、まだまだお強いしお綺麗な方だから、鍛錬にも気合入るだろ」

はるとが、そう言って小狼の母親の幻想的な美しさのある顔を思い出していた。言葉を話せば、体に筋が一本通ったようにピンとなるあの心地よい緊張感と幼い頃は魔力が不安定になることが多かったはるとを労わってくれるような優しさ溢れる言葉に嬉しくなったものだった。はるとが懐かしむように笑みを溢すとシギルが不貞腐れたように『俺はお前一筋だ。お前のことを想えばこそ、俺の鍛練にも身が入る』とはっきりとした声で告げるので、はるとは「お前はなんでそんな俺のこと好きなんだろな…」と呆れたように溜息を吐いた。

『後、伝えたいことがある。……俺も香港…李家を離れて、小狼の守護をするお前の守護の任を仰せつかった。御当主直々の任だ。―― 俺も、しばらくしたらお前の傍に戻る』
「っおまそれ……」

シギルの心底嬉しそうな声に、はるとは思わず息を詰めた。そして大きく大きく溜息を吐くと、「勘弁してくれ…」と酷く疲れたように空を仰いだ。シギルが傍に戻るとなれば、はるとの行動はシギルによって制限されてしまう。香港では周知の者が多かったので少し苦痛に思うだけだったが、ここは日本。しかもシギルの事を知らない者だらけ。しかも高校も一緒になるのは100%だ。そうなれば桃矢や雪兎にも紹介しなければならない。シギルははるとの傍に―小狼は御当主の息子で次期当主なので別として―自分以外の者がいるのを嫌うし、認めるまで時間がかかる。しかも今はクラスメイトの谷元の件もあるのだ…シギルが戻るのを考えただけでストレスしか溜まらない。

『はると、また四六時中一緒にいれると思うと今から幸せでたまらない…もう少し待っていてくれ』
「おい俺の話ちょっと聞いてくんない?」
『ああ、いくらでも聞くぞ……――っと、いや…すまない。呼ばれた』

はるとが米神に人差し指を置きながら、既に疲労えを表情に露にしてシギルに今のはるとの学校生活や現状、親しくなった友人とまだ敬語で会話をしていることなどをシギルを刺激しないように伝えようとした所で、シギルが呼ばれてしまったようだった。『お前の話を聞けないなど辛いが…必ずまた話してくれ、必ず』と言い終わると、名残惜しげに電話が切れた。待ち受け画面に戻った携帯電話を見つめながら、はるとは泣きたいくらい嫌になった。そしてもう一度、この言葉を口にした。

「ほんとうに…本当にシギル…勘弁してくれ」
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