前編

「あっかいさーん!お疲れ様です!コーヒーいかがですか!?」
「……」

自分のデスクの上で腕組みをして難しい顔をしている赤井の横で、満面の笑みでコーヒーを差し出したのは、最近FBI捜査本部に給仕として採用された赤井と同じ日本男性、名字名前だ。
自己紹介をして回っていて一目惚れしたらしく、ことあるごとに赤井に飲み物を持って行ったり、他の捜査官が赤井に持って来るように頼まれた資料を奪い取って持って行ったりしている。周りはそれに困った顔をしながらも、名前の恋を応援したいと思っているので、何も言わなかった。

「………悪いが、さっき飲んだばかりなんでな。他に回してやってくれ」
「ええー!…赤井さんのために持ってきたのに…」

名前の顔を少しも見ることなくそう告げると、席を立ちながら煙草を咥えて会議室を後にした。「赤井さん…!!」と悲しそうな顔をしながら赤井の背中を見送ると、横からすっとコーヒーを攫っていく綺麗な手が見えた。名前が「あー!俺が赤井さんのためだけに入れたコーヒー…!」と泣きそうになりながら叫ぶと、攫ったコーヒーを美味しそうに飲むジョディが名前に眉を下げながら「シュウは他にって言ったじゃない。それなら、私が飲んだっていいでしょう?」と名前の頭にポンっと手を置いた。

「あ、後で飲んでくれるかもしれないじゃないですか!」
「飲まないわね、断言するわ」
「ジョーディーさーーーん…!!」
「はいはい、泣かない泣かない」

コーヒー美味しかったわよ!とウィンクしてコーヒーを持ち去り、自分のデスクで仕事を始めたジョディに、名前は大きな溜息を吐きながら給仕室に足を進めた。
―― 名前は、捜査官ではないのであまり事件のことを詳しく知らない。いつもここ、本部に無事帰って来るようにと祈りながら、残業や緊急本部を立ち上げて捜査する捜査官たちにお茶や夜食を配る給仕として正式採用され働いている。
初めてここに来た日、「よろしくお願いします」と挨拶周りをしている中で出会ったのが、赤井秀一だった。黒く長い髪が美しく、翡翠の綺麗な瞳が自分の瞳とピタッと合った瞬間「好きです!!!」と大声で叫んでしまった。後から聞いた話だったが、同じ日本人なのに、銃の腕前も素晴らしく、FBIきっての切れ者だとFBI捜査官たちの中でもとても有名だったのを知って、名前は好意の他に深い尊敬の気持ちも生まれた。

それからは毎日のように自分の想いを告げているが、惨敗している。ちっとも相手にしてくれない。名前はヤカンを火にかけ、午後には捜査から一時休憩して戻ってくる捜査官の分のコーヒーを準備しながら、ぐっと拳を握る。名前の瞳に、燃えたぎる炎がメラメラと燃えていた。

「…絶対、諦めないから!赤井さん!!」

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名前がジョディに簡単な書類整理を任されそれを熟していると、午後の捜査を一時切り上げた捜査官たちが見えたので、名前はジョディに声をかけて給仕室に入ると、お盆に乗せたコーヒーを持ってすぐに戻ってきた。
会議室に入ってきた捜査官の一人がそれに気付いて「おお!名前、それって俺たちのか?」と尋ねたので、「そうです!お疲れ様ですグット捜査官!」と笑顔で答えると、グットは嬉しそうな表情をして「ありがとうな!おいみんな!コーヒーが来たぞ!早く飲め!」と問いかけると、次々に笑顔になって名前にお礼を言いながら、集めた情報をボードに書き込んで話し合いを始めた。名前はそれを微笑んで見つめていると、扉を開けて赤井が入って来たのが見えた。手にはコーヒー缶を持っていた。名前がショックを受けながら「赤井さん…!コーヒーなら俺が淹れますよ!?」と駆け寄ると、「…いや、また今度でいい」と短く答えた。名前は「俺赤井さんのためにコーヒーを淹れる腕磨くので付き合ってください!」と想い叫んだが、赤井は一つ視線を向けて「…すまないが」と断られた。名前が負けじと「では一緒に夕飯どうですか!?」と問いかけると「悪いがキャメルと行く予定だ」と淡々と返された。打ちひしがれる名前の横を気にした様子もなく赤井が歩いて行こうとすると、グットたちに声をかけられて話し合いに加わってしまったので、次に話しかけるタイミングも失ってしまった。
「赤井さん…」と名前が沈んでいると、ジョディに「名前!ちょっといいかしら?」と言われたので、ゆっくり頷きながら「どうしました?」と呟くように答えた。

「シュウの言葉を気にしなくていいわ。…また誘えばいいじゃない!ご飯は私…は今日は仕事終わるの遅くなりそうだし…今度、行きましょう。――それと、この事件の資料…持ってきてくれないかしら?」
「ありがとうございます、ジョディさん……―― 分かりました…」

名前の侘しい背中を見送ったジョディが、短く溜息を吐きながらグットたちと話している赤井を見つめながら「ご飯くらい、行ってあげればいいのに…」と呟いて、また資料を読み返す作業に戻ったのだった。


「ええっと…ここだったはず…」

少し薄暗い資料室の中で、名前がジョディに頼まれた事件資料を見つけると同時に扉が開く音がして、数人の捜査官たちの声がした。どうやら名前と同じで資料を探しに来たらしい。聞いたことのない声だったので、違う部署の人間かなと見つけた資料を持ちなおして歩き出そうとするが「なあ、名字名前ってヤツの話聞いたか?」「ああ、知ってる」「赤井に惚れて告白したってヤツだろう」「そうそう」と会話が聞こえたので、踏み出した足をそっと止めた。

「すげえよな」「ああ、男だろ?」「捜査官じゃなかったよな?」「給仕だってよ」「結構可愛がられてるらしい」「赤井にか!?」「いや赤井は知らん」「んだよ面白くねえ」「スターリング捜査官とよく一緒にいるの見かけるぜ」「顔はいいのか?」「いや普通」「げっ!赤井も可愛かったら考えただろうになあ」「いやいやつーか男だろう彼は」「そうだったな。赤井もかわいそうだな。同性に好かれちまって」「はっはっは。告白される度に振ってるらしいぜ」「そりゃそうだ。かわいくもなけりゃあ、男だし」「俺だったら嫌だな」「お前も一回告白されてみろよ」

……捜査官たちが出て行った後も名前は、足が動かなかった。≪赤井もかわいそうだな。同性に好かれちまって≫≪俺だったら嫌だな≫と、嘲笑ったような声が、忘れられなかった。ずっと耳に引っ付いている。じっとりと体が重くなる感覚がした。赤井の好意しか考えていなかったが、もしかして、俺は赤井さんに迷惑をかけていたのだろうか?わからない。だって、みんな優しかったから。応援してくれるって言ってくれたから。笑顔だったから。振られても気にすることないって、また告白すればいいって、言って、くれたから……言ってくれた、から…ぼたぼたと、資料に水が零れた。…いや、水なんかじゃない。これは、俺の涙か。名前は瞳から零れ落ちる涙を見て、他人事のように感じながら、手のひらで涙を拭いた。

そうだよな、…考えてなかった。自分の想いだけで、一生懸命走っていた。赤井だけしか見えてなくて、でも…本当に好きなのだ。我慢出来ないくらいに好きなのだ。こんなのでへこたれていてはだめだ。言いたい人には言わせておけばいい。でも、今度は赤井と二人になれた時に言うようにしよう…赤井に迷惑はかけたくない。名前はそう決心すると、バチン、と強く両頬を叩くと、資料に落ちた涙を乾かしながらようやく資料室を後にした。


ジョディに資料を渡した名前が、「随分遅かったわね、見つかりにくいところにあったの?」と不思議そうに尋ねたので、「いえ、えっと…知り合いの捜査官の方に会いまして!」と苦し紛れに答えると、「そうだったのね」と微笑んで受け取った。ボード前に置いてある捜査官たちの飲み終わったコーヒーカップをお盆に集めて、給仕室で洗っているとノック音が聞こえたので「はーい」と返事をしながら振り向くと、赤井が立っていた。名前が嬉しそうに微笑んで「赤井さん!」と名前を呼ぶと、赤井が中に入ってきて「水をくれるか?」と紙コップを差し出した。「赤井さんのためなら!何杯でも!」とペットボトルのお水を簡易冷蔵庫から出して注いだ。どきどきしながら「どうぞ!」と赤井の瞳を見つめると、小さく微笑んで「ありがとう」と去って行った。
名前は赤井のその表情に、顔を真っ赤にさせてジョディに声をかけられるまで微動だにしなかった。

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次の日の朝、少し早めに到着した名前が「おはようございます」と扉を開けると、窓辺に寄りかかって外を眺める赤井の姿が目に入ってぱあっと顔を輝かせた。赤井も名前が入ってきたことに気付いて「…早いな」と呟いて時計を見た。

「ちょっと、早く目が覚めたので!赤井さんはいつもこの時間なんですか?」
「ああ……あまり、眠くならないんでな…君は、寝つきが良さそうだ」
「はい!」

鞄を置いて赤井の隣に同じようにして寄りかかる。ふっと息を吐いた名前が、ずっと赤井に聞いてみたいことを口にした。

「…赤井さん、好きな人がいるんですか?」
「……」

赤井からの答えはない。どうとればいいかも分からない。名前が少し戸惑ったように目を伏せて答えを待っていると赤井が「そうだな…」と少し掠れた声で呟いた。質問の肯定だと思った名前が目を見開いて動けないでいると「その質問は、難しいな」と言葉を続けたので「へ?」と顔を上げた。

「名字くん…俺には、その質問は難しい…いや、難しいというより、どう答えていいかわからん、という方が正しいか…」
「え、っと…」
「忘れてはならない相手なら、いる…と答えておこう」

赤井はそう答えてふっと小さく笑みを浮かべると、名前の髪を一度さらりと撫でて「もうすぐみんなが来る。コーヒーを淹れてくれ…今日は、君のコーヒーを飲もう」と告げると、自分のデスクに向かった。
赤井が触れた黒髪に、恐る恐る手を置いて、それから窓の外の風景を見て、…赤井に頭を撫でられたことを理解すると、途端に顔を真っ赤にして「あっ赤井さん!コーヒー待っててください!」と大声で言うと急いで給仕室に消えていった。

「……お前の気持ちを、無下にしているわけではないんだ…」

「すまんな、名字くん…」と捜査室の天井を見ながら、僅かに目を細めてそう呟いた声は、当然誰にも聞かれることなかった。