中編

「忘れてはならない相手、かあ…」

「それって、やっぱり…うーん…」と給仕室の簡易イスに座って、じーっと沸騰するヤカンを見つめながら、名前は先程赤井に言われた言葉を考えていた。そりゃあ、赤井さんもあんなにかっこよければ…付き合っていた女性がいたって不思議じゃない…女性もほっとかないだろうし…すっごい美人なんだろうな…ジョディさんくらい……しかしどういう意味なのだろう…忘れてはならない相手……名前はうんうんと唸る様に赤井のことばかり考えていた。すると、急に目の前に誰かが立った。それに吃驚した名前が目線を上へと向けると、腰に手を当てて名前を睨むジョディが立っていた。

「ジョっジョディさん…!」
「名前…あなたのことを!すぐそこの扉前で!何度も何度も呼んだのよ…!」
「ごっごめんなさい…!ちょっと考え事に夢中に…!」
「ヤカンも沸騰してるじゃない!お湯がなくなるし危ないでしょう!」
「はい…面目ないです…」

火を消したジョディがヤカンを持ってお湯の量を確かめるために揺らした。聞こえて来た水音からすると、お湯はほとんどなくなっていた。名前が「本当にごめんなさい…ジョディさん…」と頭を下げると、それに溜息を吐いて「反省してるなら、もういいのよ…次からは、考え事しながら火を扱っちゃだめよ?」と呟いて、名前の頭を優しく撫でた。それに力強く頷いた名前が、もう一度水を足してヤカンを火にかけようと簡易イスから立ち上がった所で、ジョディから「あ、ヤカンのことで本当の要件忘れるところだったわ」と言われて名前が首を傾げると、ジョディは「ボスがあなたのこと、呼んでるのよ」と告げた。

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ジョイムズが待つ会議室の前で、名前は一度立ち止まり深呼吸をすると、2つノックして「名字名前です」と言うと、「入ってくれ」と答えがあったので名前は「失礼します」と告げて扉を開けた。

「名前くん、呼んで悪かったね。ここに座ってくれ」
「…いいえ、大丈夫ですジェイムズさん!……失礼します」

扉を閉めて、ジェイムズが進めてくれた椅子に腰かけると、ジェイムズが一つ咳払いをして名前を見つめると「…君をここに呼んだのは、赤井くんのことで伝えたいことがあったからだ」と口を開いた。名前がその言葉に目を丸くした後、そうだよな…ジェイムズさんの耳にも…そりゃあ…届いちゃうよね…他部署の捜査官にも噂されちゃうくらいだし…と恥ずかしそうに眉を寄せて「…そうでしたか」と小さく答えた。ジェイムズが一つ頷くと、長机の上で手を組んで「…君は、彼のことを好いているならば…知っておくべきことがある」と少し重い息を吐いて目を閉じた。「給仕として君が採用される、少し前の話になる…黒の組織のことだ。君も耳にはしたことがあるだろう?そして私達が今でも組織を追っていることも」と言葉を続けて目を開けた。名前はジェイムズの言葉に頷いて「はい、ジョディさんからも、少しは聞いたことがあります」と答えた。

「うむ……赤井くんはな、組織に潜入捜査していた時期があるんだ」
「潜入捜査…」
「そうだ。その組織のために、彼はある女性に近付くことにした」
「……」
「その女性の名は、宮野明美。…彼が、愛してしまった女性だ」
「…っ!」
「……その女性は、もうこの世にはいない。赤井くんのせいではないが…組織に死に追いやられてしまったんだよ。…彼は、彼女のことを今でも愛しているのだと私は思う。彼は…宮野明美のことも含めて、きっと組織を壊滅に命を懸けるだろう ――…私は、君の明るく元気な笑顔に親しみを感じている。君なら、赤井くんの新たな拠り所となれるだろう…だから、私は応援の意味を込めて、今日君にこの話をした。……急にすまなかったな、名前くん。私は先に戻るが…ゆっくり戻ってきなさい」

ジェイムズが微動だにしない名前の肩を軽く叩いて小さく微笑むと、会議室から出て行った。扉の閉まる音が耳に届くと、名前は、ゆっくりと顔を下に下げた。…ジェイムズの言葉が胸に刺さり、うまく頭が回らない。―― 赤井の忘れてはならない人…それが、この女性のことなのだとすれば、どうしたらいい?名前の唇は空気を食むだけで、音にならない。どう受け止めたらいいのだろう?昨日、あの資料室で喝を入れたのに。好きだから。赤井さんのこと、好きだから。でも、この話を聞いてお前はどうだ?赤井さんの周りのことを考えたか?赤井さんのこと、何か知ろうって思ったか?ただ、好きだというだけでみんなも引っ掻き回して迷惑を、かけていたんじゃないか?…なにが、我慢できないくらい好き、だよ。馬鹿みたいじゃん、俺。名前は眉を寄せると、両手で顔を覆った。

宮野明美の話は、名前の心を抉った。そして、周りをしっかり見て考えることを教えてくれた。きっと、宮野明美はすごい女性だったんだろうと思った。赤井が、心から愛した女性。赤井さんの忘れてはならない人、かもしれない女性。そして相手はもうこの世には存在せず、赤井さんの心の中で今も美しく生き続けているとしたら?俺は、そんなすごい女性に勝てるのだろうか?その女性よりも赤井さんを好きだって言えるのだろうか?赤井さんに宮野明美より好きだと、想ってもらえるのだろうか?そんな、そんなことは……

「おれ、おれ……ほんと、ばか」

涙は、出なかった。泣くことすら、烏滸がましいことだと名前は思ったのだ。ジェイムズは応援してるからこの話をしてくれたと言っていた。…聞いて良かったと両手を顔から離しながら、名前は目を細めて笑んだ。俺は、知らないままだったら、もっと…馬鹿な男になっていたかもしれない。赤井さんだけしか見えていなかった自分を、名前は深く恥じた。

「資料室で、言われたときに…気付いとけよな、俺…」

宮野明美は女性で、名前は男。それで目が覚めていれば良かったのに。名前は、短く笑うと、ふっと表情を無くした。赤井と初めて会った時の自分。他の捜査官たちに応援された自分。何も知らなかったときの自分。何も知らない自分が幸せだった時。赤井が頭を撫でてくれた時に感じたあたたかい熱。赤井が小さく微笑んだ表情。そして、赤井の過去を少し知った自分。…ふと、ジェイムズの言葉を思い出す。

≪…私は、君の明るく元気な笑顔に親しみを感じている。君なら、赤井くんの新たな拠り所となれるだろう≫

名前はぐっと拳を掴むと、ゆっくりと立ち上がってジェイムズが座っていた席を見つめながら小さく呟いた。

「…ジェイムズさん…俺、誰かの大切な者を踏んでまで、傍にありたいとは…思えないんです」