前編

「んん゛う゛…」

名前は、何度か眠たげな目を瞬くと、寝ていた布団から起きてぐーっと背伸びすると大きく欠伸をした。ゆっくりと歩き出して、ヤカンに水を入れると、火にかけた。
その間に服を着替えて、簡易デスクの上に置いてあるノートパソコンに電源を入れて会社からの作業メールの確認をし始めた。

…日本に帰国して、衣食住を整えた名前は小さなセキュリティ会社に就職し在宅職員として働いている。会社から呼び出されない限り、出勤しなくても大丈夫だし給料も一人なら十分に生活していける程だった。会社の社長も穏やかそうな人で、「海外生活が長かったら、大変なことも多いだろう?困ったことがいつでもいいなさい」と優しげに目を細めてぽんっと肩に手を置かれた挨拶初日が、まだ記憶に新しかった。

「えっと……このメールは本社に送るメールで…うーん…こっちは再度添付しなおして分かりやすい説明に変えるか…このセキュリティ説明文じゃ理解出来ないだろうし……っと」

メールに夢中になっていると、お湯の沸騰する音が聞こえてきたので、火を止めた。こっちに来てから新しく買い直したお気に入りのコーヒーカップに注ぎ入れると、コーヒーの深い薫りが鼻腔を擽ったので、小さく微笑んだ。朝食に昨日作り置きしていたおにぎりを冷蔵庫から出して温めた名前の耳に、携帯のメール受信音が聞こえてきた。
確認すると、『ジョディ・スターリング』と表示されたので、名前は「ジョディさんからだ!」と弾んだ声でメールを開けた。どうやら、組織を追って日本で捜査をしているらしかった。とても心強い小さな探偵が一緒に捜査を助けてくれているようで、名前は最近お気に入りのポアロという喫茶店で出会ったコナンのようだと微笑んで、『捜査くれぐれも気を付けてくださいね!』と返信を送った。

―― 日本に帰国して、一番迷ったのはジョディに新しいメールアドレスと番号を送るか否かだった。何も言わずに帰国してしまい、心配してくれているだろうか怒っているだろうか…と考えもしたが、迷惑ばかりかけた自分がいなくなって安堵しているかもしれないと思うと、すぐに連絡先を送ることが憚られたのだ。仕事先が決まり、生活が安定してきて気持ちに余裕が出来始めてからやっと、迷惑って思われててもいいから、あんなに良くしてもらった人に何も言わないままの方が失礼に当たるな…と思い切ってメールを送った。送った後で、返信返って来なかったら凄いショックだ…と何も考えないように仕事に没頭していた名前の携帯のバイブが鳴った。名前がそれに慌てて携帯を開くと、ジョディからの電話だったので、すぐに通話ボタンを押して「…もしもし!っあの…ジョ、ディさん…?」と言葉を詰まらせながら言葉を告げると、「名前!!!」と大きな声で自分の名を叫ぶジョディの元気な声が聞こえて来た。思わず携帯を耳から離した名前がその声が懐かしくてふふ、と短く笑った後に「…はい」と眉を下げて答えると、今度は嗚咽交じりの声が聞こえて来たので名前は酷く焦った。

「ジョディさん!?あの…!やっぱり、連絡したのご迷惑でしたか…?」
『ばか…!嬉しいから泣いてんのよ!メール送ってエラーで返って来たときの私の気持ち、考えなさい!』
「……っジョディさん……俺に、メール送ってくれたんですか…?」
『当り前よ!名前は私の大事な友人なのよ…!何も言わずに行くなんて…!一発殴ってやりたいわ!何処にいるのか教えなさい!』
「……いえ、それだけは、まだ…言えません」

「…ごめんなさい、ジョディさん。殴るのは、また会えた時にお願いします」と名前が言うと、ジョディが「…わかったわ、あなたの声が聞けただけでも嬉しいから」と優しい声が聞こえてきて、名前はぐっと喉に力を入れた。泣いてしまいそうだった。知らなければ、ずっと隣にあった存在。赤井とは別の意味で大事な人。それなのに、知ってしまった後は何もかもがこんなに遠くになってしまう。でもそうしたのは、自分だ。そうしなければ、いけなかった。赤井やFBIで命を懸けて戦う捜査官たちへの、けじめだった。

「…俺が今いる場所は言えないので、ジョディさんも…もし日本に来ることがあっても場所は言わないでください…そしてこの連絡先も…秘密にしてください」

…宮野明美や黒の組織のことを、FBIを退職する前に資料室で調べていた名前は、赤井に平気で気持ちを伝えていた自分をさらに深く恥じた。赤井の暗く、それでも大事にしていた宮野明美を想う心を、自分の軽率な告白などで汚していたのではないかと。ジョディに連絡を取ったが、少しでも赤井とまた会うような確率を無くしておきたいと思った名前は、自分の居場所を秘密にしておこうと決めた。ジョディの「了解よ」という声が、何故かとても寂しそうだったが、名前は目を伏せて「ありがとうございます…」と掠れた声で告げたのだった。

―― ぼうっと前の記憶を思い出していた自分から、ふっと帰って来た名前は、手に持っていた携帯を置くと、リビングに置きっぱなしにしていた朝食を簡易デスクに運んで仕事を始めた。仕事の主な内容は、セキュリティに関する相談メールや、セキュリティ説明文で分からないことがあった人へのメール対応だ。淡々とそれを熟して、一つだけ社長に聞かなければいけない内容のメールがあったので電話をして確認を取って送り返していれば、もうお昼も過ぎていた。遅めの昼食だけど、ポアロに行こうかな…とノートパソコンの電源を切って財布と携帯を手に持つと、名前は部屋を後にした。

外の空気を深く吸って伸びをすると、間接や背骨の凝った音が聞こえてきて苦笑した。住宅街の角を曲がって、いつもは建っていた筈の木材アパートが焼失していたので、名前は思わず二度見した。「大変だな…住んでる人無事だったかな」と呟きながら警察官から事情聴取を受けている男性数人を横目に通り過ぎようとしていると、見知った顔が見えて名前は思わず名前を呼んだ。

「コナンくん!?」
「名前さん!」

名前の声に振り向くと、にっこりと笑顔になったコナンが駆け寄ってきた。「名前さん、何処かにお出かけ?」と首を傾げられたので名前は「そう、夢中で仕事してたらもうお昼すぎてた…」と笑う名前に「お疲れ様!…あ、ねえ…火事あったの知ってた?」と聞かれた名前が「いや…こんな近くなのに全然気付いてなかった…爆睡だった…」と困った顔をしながら首を振った。「名前さん危機感なさすぎだよ…」と呆れた表情のコナンに「うっ…」と胸を抑えて「危機感育てます…」と苦し紛れに告げると、「じゃあ、またなコナンくん!」と手を振りながら名前はポアロへの道のりへと足を進めた。

ポアロに着いた名前が梓とマスターに挨拶をして軽い昼食でお腹を満たしてゆっくりした後、「帰るか…」と席から立ち上がった時だった。マナーモードにしていた携帯のバイブレーションが震えたので確認すると、先程別れたコナンからだった。≪お昼ご飯食べ終わって時間があったら、博士の家まで来てほしい≫と書かれていたので少し考えた後に「了解です」と返信した名前は、梓やマスターにご馳走様と告げて会計を済ませると、博士の家へと向かったのだった。

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途中で見つけた洋菓子店で、哀にショートケーキのお土産を買った名前が、博士の家の玄関前でコナンと、その隣にもう一人、茶髪の男が立っていた。名前の姿にコナンがやけに嬉しそうに「名前さん!」と呼んだので、名前も微笑んで「来るのちょっと遅かったかも、ごめんねコナンくん」と返すとコナンが「いいんだ、そんなことよりお願いがあるんだ」と名前の手を柔く掴んだので首を傾げて「なに?」と聞くとコナンが隣に立つ男に目を向けて「この人と仲良くなって欲しいんだ」と口を開いた。

「さっきの火事の…木馬荘に住んでた人なんだけど新一兄ちゃんの家に住むことになったんだ。それも、名前さんに言っておこうかと思って。…この人は冲矢昴さん!ぼくと同じシャーロキアンなんだ!」
「へえ!シャーロキアンに悪い奴はいない!ってやつか!」
「そうだよ!さっきぼくも灰原に言ったばかりなんだ!さすが名前さん、ぼくのことわかってるね!」
「そりゃあね!…知らない人を住まわせるなんて、とは思ったけど、コナンくんと同じシャーロキアンなら大丈夫だね!……―― コナンくんの友人の名字名前と言います!よろしくお願いします、冲矢さん。あ!言っておくと俺はシャーロキアンではないですよ…」

「コナンくんの話を聞いて知ってるだけです!」と困ったように微笑む名前に、昴は今にも名を呼びそうな自分をぐっと制した。急にいなくなったときと変わらない、明るい名前が立っていた。冲矢は、変装していて良かったと深く思うと、静かに笑みを作って「コナンくんにご紹介いただきました、冲矢昴です。こちらこそ、よろしくお願いします…名前さん」と手を差し出した。それに「はい!」と名前が握り返して穏やかに笑うのを酷く懐かしく感じた冲矢は、するりともう片方の手で名前の髪を梳くように撫でた。それにきょとん、とした表情で見てきたが、冲矢は気付いた様子もなく名前の柔らかい髪を堪能していたので、おろおろしていた名前の様子を見かねたコナンが呆れたように「昴さん…名前さん困ってるよ?」と告げると、一拍遅れて「ああ…すみません、あまりに……いえ、何も断らずに触ってしまいまして、とても綺麗でしたので」と名前に謝ったので、いえいえと名前は首を振って照れたように目を細めて笑った。

「そんなこと、言われたの初めてです!普通に洗ってるだけなんですけどね…」

ひたすらに明るい彼は、普通に考えれば嫌がられるような行為なのに、一つもそんな様子は見受けられず、それどころか優しく笑って受け入れる。FBIにいるときも思ったが、人を疑うことすらしない、素直な人間性のままだ。昴がじっと名前を見つめるが、一つも目が合うことはない。それはそうだった。今自分は、赤井秀一ではないのだから。でも…何故だろうか。彼のあの一身に自分を見つめる真っ直ぐな瞳が、こちらを見てはくれないだろかと、強く願った。

―― あなたの一番大切な場所には入れないって…!あなたの気持ちを大切にしたのよ

―― あの子をしっかり、みてあげなさいよ!

「あ!これ、早く哀に渡して来なきゃ…!ごめん、コナンくん!俺ちょっと渡して来るから、ちょっと待ってて…!」と慌てた様子で博士の家の中に消えていく名前の後ろ姿を冲矢がじっと見つめながら、ジョディに言われた言葉を思い出していると「ねえ、大事な者…今度はしっかり捕まえられそうなの?」とコナンに問いかけられた。冲矢はふっと口元を緩めると「勿論」と短く答えて…片目を開けた。そこには、強い意志を持つ翠の瞳があった。

「今度こそ、しっかりと…な」