中編

「え…えっと…」
「こんにちは、名前さん。シチューを作りすぎてしまったので、お裾分けに来たのですが…ご迷惑でしたか…?」

仕事が早めに一段落ついたので、久しぶりにしっかり昼食を食べられると椅子から立ち上がった名前が、コーヒーを入れなおそうとキッチンに向かおうとすると、来客を知らせる呼び鈴が鳴った。あまり人が訪ねてこないこの部屋に、一体誰が来たのだろうか…と名前がドアスコープを見ると、そこにいたのは、最近コナンから紹介された『冲矢昴』の姿があったので、ぎょっとした名前が慌ててドアを開けた。

目の前に出された紙袋から、シチューのいい薫りがしている。名前が「あ…いや…!」と眉を下げながら困ったように微笑む昴に必死に首を振って答えると「…嬉しいです。シチュー大好きなので!」と目を細めて笑った後、昴の手からシチューの入った紙袋を受け取った。

「部屋、散らかってますけど…よかったら上がって行ってください」
「…それでは、お言葉に甘えて…」

安心したような表情をした昴が、「失礼します」と静かに微笑んで名前のパーソナルスペースへと足を踏み入れた。名前の部屋は生活感に溢れていたが、室内は何処も綺麗にされていて、埃の一つも見当たらないほどだった。優しい陽射しが、キッチンでコーヒーを淹れている名前の横顔を淡く照らしていて、何故かとても美しく昴の目には映った。玄関先から動かない昴に、名前が首を傾げて「どうしました…?」と問いかけると、昴がはっとしたような表情をした後、「いえ…」と短く返して、靴を脱いだ。

「コーヒー、お嫌いじゃないですか?」
「ええ、よく飲みます」
「良かった!座って待っててください!…あ、冲矢さんはもうお昼済ませたんですか?」
「いえ…実は、まだ食べていないんです」
「それなら良かった!俺もまだなんです…一緒にシチュー、食べましょう!」

コンパクトな食卓テーブルの上に、コーヒーとシチューを二人分置いた名前が、そう微笑んだので、昴は「はい、いただきます」と微笑み返して、名前が座るのを待った。

名前は席に座ると、昴ににっこり笑いかけて静かに手を合わせて「いただきます」と頭を下げると一口食べた。「おいしい…!」と表情が明るくなった名前が昴が見ているのにも気付かずに嬉しそうに食べ続ける姿に、昴はひっそりと口元を緩めると自分も食べ始めた。「…あ、飲み物はコーヒーだけでいいんですか?他に…えっと、お茶と紅茶しかないですけど…あるので、おっしゃってくださいね!」と告げた。それに昴はやんわりと首を振って「いいえ…またあなたのコーヒーが飲みたかったので、大丈夫ですよ…」と微笑んだ。名前は昴の言葉に首を傾げながら「俺…この人にコーヒーなんか淹れたことない…けど…」と思いながら、目の前の美味しいシチューを綺麗に平らげた。

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「そう言えば、この間コナンくんたちと海で事件を解決したと聞きました。冲矢さんすごいですね!」
「ああ…コナンくんの力あってこそ、ですよ…」
「ふふ、コナンくんは『昴さんってすごいんだよ!』って電話してきました。コナンくんに認められるなんて、すごいことです。あの子は子供にしておくにはもったいないほど、優れた子供ですから…」
「…ええ、そうですね。私もそう思います」

一緒に昼食を食べた後、昴がシチューを入れて持ってきたプラスチック容器を丁寧に洗って拭き、また紙袋に入れた名前が、昴の前にそれを置きながら「ありがとうございました」とお礼を言うと、簡易にラッピングされたクッキーが昴の前に差し出された。昴が「これは…?」とクッキーを見つめながら言うと「シチューのお礼です。俺、お菓子作りが趣味なんです」と少し照れたように頬を指で掻いた。昴が「お菓子作りが…」と小さく呟くと、優しく微笑んで「名前さんの手作りをいただけるとは…とても嬉しいです」と答えると、紙袋に大事そうに入れた。そんな昴の様子に「いや…えっと…そんなに…大層な物ではないので…」と困ったように笑った名前は、はっとして壁に掛けていた時計を見た。在宅ワークとはいえ、時間を疎かにしていけない。「すみません…仕事を始めないといけないので…」と名前が昴に申し訳な下げに頭を下げれば、昴は「ああ…長居してしまったようですね…すみません」とすぐに席を立ち、玄関に向かうその後ろを、昴を見送ろうと名前がすぐ後を着いて行った。

「今日は本当にありがとうございました。シチューとても美味しかったです」
「いえ、私もご馳走になってしまって…ありがとうございます。名前さんの手作りのクッキーを食べるのが楽しみです。―― また、ご連絡させていただきます」
「あ、はい!また…」

微笑みながら、玄関の扉を閉めた昴に、手を振りながら言葉を返していた名前が、はて、と不思議そうな表情をして呟いた。

「……っと、いうか…冲矢さんって…俺の連絡先知ってるっけ…?」

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――― 俺、お菓子作りが趣味なんです

昴は工藤家への帰路に着きながら、名前の言葉を思い出して小さく口元に笑みを作った。FBIにいた頃は、名前のことを何一つ知らなかった。ただ、自分に好意を寄せ、想いを口にしてくれた日々はあれど、名前自身と話をしたことなど、片手の指で足りる程しかしてこなかった。それも、名前が…赤井に質問するばかり。ジョディに言われて目が覚めるまで、名前のことを知ろうと思わなかった。……決して、名前を蔑にしていた訳ではない。…宮野明美という、一人の女が、赤井の胸に在ったからだ。ずっと、…ずっと。今でもその女は消えず、赤井の胸で存在し続けている。赤井を、組織壊滅と導く光…そして闇にもなっていた。その赤井の前に立つ名前は、酷く眩しく穢れもなく、ひたすらに赤井に真っ直ぐだったのだ。

諦めさせようと、そういう気持ちは確かにあった。無碍にしている訳ではない。している訳ではなかったが、これ以上、誰か大事な者が増えるのが、赤井の中で弱味になると感じていたのもまた事実だった。自分のことだけを考えて、名前の気持ちを全く考えていなかった自分は、本当に名前の気持ちを心から無碍にしていないと、蔑にしていないと、そう言えるのか?赤井は、紙袋を握った手に力を込めた。

……名前のことを、考え始めようとしたときに、知っていこうと思った矢先に、名前はFBIを退職し自分の前から去ってしまった。

…―― けれど、今…ここでまた逢えたのだ。また、名前に。

彼は、赤井とは気付かずに昴という今の存在に微笑みかけてくれた。そして、こんなに近くで生活している。彼はシチューが大好きだといって嬉しそうに笑った。趣味がお菓子作りなのだと、照れたように微笑んだ。自分の作ったシチューを美味しいと食べてくれた。

「……彼には、笑顔が似合うな」


―― 記憶の中で、宮野明美は泣いていた。とても一途な女だった。自分が組織のために明美に近付いたことを知っていたのに、それを言わずに赤井を慕い続けた女。そして、助けることも出来ず、この世から亡くなってしまった。

「…次は、そうはさせないさ」

昴は、穏やかな陽射しに照らされていた名前の横顔を思い出しながら、そう低く呟いたのだった。