いざ勝負の時。
ジェイド先輩の助言を受けてから、ひとりオンボロ寮の鏡の前で夜な夜な、いかに綺麗に口を開けるかと練習する日々が続いた。
今日、その練習の成果を見せるべく、欠伸をしながら"さあ今から抱きしめるぞ"と言わんばかりに、片腕を広げて私との距離を詰めるフロイド先輩の瞳をしっかり見つめる。
いつもと違う様子の私に気付いたフロイド先輩は、眠そうな目をパチリと瞬かせた後「なあに?」と首を傾げ尋ねてきた。
その問に答えず──否、これからのことでいっぱいいっぱいな私は答えることが出来ず、ぐっと奥歯を噛み締めながらフロイド先輩を見上げた。
もう手を伸ばせば優に届く距離まで来た先輩は、私を不審げに見下ろす。
「小エビちゃん、何か今日変じゃない?」
その疑問にも答える余裕もなく、フロイド先輩が私のことをちゃんと見ていることだけを確認し、思い切って大きく口を開けた。
しばらくそうしていたが、目の前の気配は微塵も動く様子がない。
まだ足りないかと思い、そのまま待つこと数秒。
痛いくらいの沈黙が流れ続ける。
私は大きく口を開けると同時に、顔面の崩壊をなるべく防ぐため目を閉じてしまっているので、周りの様子が分からない。
ここは人気の少ない場所なので、人目については安心していいだろうが……。
え?本当にどうなってんの?
全然反応無いんだけど?
もうそろそろ良いだろうと区切りをつけ、そろりと目を開ける。
「ヒュッ」
今、変な音が喉から出た。
え?こわ、こわこわ怖い!怖すぎる!!
それ程目の前のフロイド先輩が怖かったのだ。
何やってんのと怒っている訳でも、気持ち悪がっている訳でも、おかしくて笑っている訳でもない。
無、なのだ。
全ての感情を削げ落としたかのような無表情で、私をただただ見ていた。
心做しか異なる色を持った瞳のハイライトがなくなっている気がしなくもない。
「せ、先輩……?」
「……ん?なに?小エビちゃん」
先輩はひとつ、やけにゆっくり感じる瞬きをした後、気のせいかと思うほど自然に私の声に反応した。
続けて、恐る恐る私の行動について聞いてみる。
「あの、今私が何したか分かりますか?」
フロイド先輩は心底不思議そうな表情をする。
「え〜?何が?
何かしたの?小エビちゃん」
「あ、はい、あの……え?」
あんなにもがっつり見てたのに、見ていない振りをする先輩。
そんな先輩に釣られて、あれ?私何もしていないのでは?と馬鹿げた思考が一瞬頭をよぎった。
すぐにその思考は振り払う。
いやいや、何十秒と馬鹿みたいに口を大きく開けてましたけど??
これを何もしてないと言えるはずがないのだ。
何故、フロイド先輩は見なかった振りをするのだろう。
これは遠回しにフラれているのだろうか。
「何で、何もなかった振りをするんですか……?」
「……だからぁ何言ってんのって、小エビちゃん」
そう言う先輩の声は、この状況には似つかわしくないほど自然に聞こえるのだが、どう見ても挙動が不審だった。
絶対に私とは目を合わせないとばかりに、何も無い宙に視線をやっている。
そんな先輩の様子をさらに追求しようと口を開くと同時に、フロイド先輩は何かを思い出したように声を上げた。
「そうだぁ、オレ今日アズールに呼ばれてんだった。
すぐ行かねぇと。じゃあね〜、小エビちゃん」
絶対嘘だ。
こじつけの様な理由である。
しかし、フロイド先輩は私に有無を言う暇を与えるつもりはないのだろう。
それから終始私の顔を見ることなく、あっという間にこの場を去ってしまった。
そして、ひとり取り残された私。
ちょっと、酷くない?
無視なんて、一番有り得ないんですけど?
何?フラれたの?これ。
いやでも明確な答えは聞いてないし、ちゃんと伝わってない可能性もある。
一先ず、もう一回教わったウツボの求愛行動とやらを試してみよう。