どこかの街角、どこかで見たことのあるような二人。
雨上がりの交差点と、名前のないクマ≠フお話。
◇ プティフール ◇
「ねぇ、このクマはなぁに?」
交差点に朝日がクロスする。二つの通りに面したカフェには人が絶えない。広場からもほど近く、バスやタクシーを降りた人々がきょろきょろと辺りを見渡し、明るい街のなかへと歩きだす。時にはほっと一息をついて、通りを興味深げに眺める人もいる。
さらさらと心地よい風の吹く、アカシアの木の下、その店はいつも人の目を留めた。店先のショウケースはいつもよく磨き込まれ、色とりどりの菓子を扱っている。
「このクマの名前は? ケーキじゃなくて、この子の……ふふ、名前はないの、かわいそうにね」
吸い寄せられるよう、ふらっと来店する客は珍しくない。
「なかはバタークリームなんだぁ……ここはカフェなの? 持ち帰りできる?」
旬の果物に彩られたケーキが並ぶなか、定番のチョコレートに惹き寄せられる、それも決して珍しくはない。ただ、クマの顔をしたプティフールは、子ども向けの商品だったが。
それでも彼の発する優しい声は、とても自然にそれを選んだ。
「わぁ、嬉しい……えっ、持ち歩く時間? そうか、溶けちゃうよね」
ぱっとほころんだ顔が、とたんに眉を下げ、腕時計に目を落とす。
「そうだな、ぼく、これから仕事だから……」
今度は言い終わらないうちに端末を取り出す。
くるくる変わる表情は、あどけない子どものようだ。しかしきちんとした装いをしていた。着慣れている様子の背広に、光沢のあるストールは、絹だろうか。目立った特徴ばかりあって、素性を示すものは何もない。
「あぁ、ぼくだよ。あのね、お願いがあるんだけど……いいでしょ、おねがい……」
どうやら、今はまだ買わないようだ。
「うん……ありがとう、そう言ってくれると思った」
ショーウィンドウに微笑みかけ、ばいばい、と手を振って歩きだす。耳にあてた端末に、歌うように囁きながら。
「名前? 名前はないんだ、かわいそうな子なんだよ。うん、忘れないで……」
足音とともに声は遠ざかる。木漏れ日が、ひらひらと揺れていた。
* * *
横断歩道に、ぽつりと雨粒が落ちた。誰かが新しい靴を履いている、かろやかに駆けてきて、軒先で止まる靴先が、赤く、にわかに光った。雨宿りをしようかどうか、広げた手のひらと空とを見比べ、また走りだし、通りの向こうへ消えていく。
雨によって、交差点ではそんな一幕が起こり、アカシアの木の下にあるカフェも、人の出入りが少し落ち着いていた。
突然の雨に降られても、あたたかい春の日にはまだどこか余裕があった。太陽はゆっくりと暮れていくところだ。
「名前のないクマ≠チてのは、こいつだと思うか?」
その男性は迷いなく店の扉を開け、ふぅっと息を吐きながら、被っていたフードを下ろした。床にちらばった水滴が、夕陽に照らされ光っている。
「……初めて来たけど、繁盛してるな、この店」
赤い自転車が停められている。
勢いよく漕いできたのだろう、レインコートの背中がほとんど濡れていない。
さも重たげに口を開いたわりに、あっさりと笑顔を見せた。明るい声がする。表情が左右非対称にすこし歪む、それは雨に降られて不機嫌なわけでなく、単にそういう癖らしい。
「きっとこいつだな、世界でいちばん不幸なクマ、って顔だ」
指さしたクマの眉は、たしかに下がりすぎていた。パティシエの手がすべったのだろう。ケースの隅から、所在なさげに客を見上げている。
「こっちの苺と、あとピスタチオも。そうだな、二つずつ……あぁ、クマは一匹でいい、俺は食わない」
いちばん不器用な顔をしたクマは、朝から様々な客を見上げてきて、少しくたびれたのかもしれない。やっと選ばれたというのに、やはり眉を下げたまま、ちょこんと箱の隅へ収まる。
「雨? 降ってるな、でも小降りだ」
店員が箱に雨避けのカバーを掛けるが、まったく見ていない。苺にもピスタチオにも、それほど興味は無いのかもしれない。
彼は自分のためにケーキを買ったのではない、そういうことなのだろう。
窓の外、雨ばかり見ているのも、いったい誰の心配をしているのか。
「……ん、できたか、ダンケ」
彼は、そういえば自転車だったと、外に出てようやく気づいた様子だ。肩をすくめる仕草が優しい。結局、袋を手にさげたまま、自転車を押して歩きだす。
雲はすぐに晴れ、交差点は夕陽のなか。家々の窓に、未だ明かりはともらない、夕陽が街を抱いている。
Fin.
* * *
2016.3/19 前垢@juoujにて