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 ◇ 真珠 ◇ 

 
 曇りがちの空から、ゆっくりと日が差してきた。寄せる波間に、光の架け橋はたやすく落ちる。空と地上を結んだ橋が、ゆらゆら、行ったり来たり。翠色にたゆたう海面と、水底とを照らす。
 砂浜の砂は、どれもまあるく磨かれている。何百何千と層を成す、歴史の骨や貝殻が、どれもおなじく白い。

 イヴァンが海へ行こうと誘うので、てっきり、波とたわむれるつもりなのかと、軽く考えていた。

「あんまり遠くへ行くなよ? 帰れなくなる」
「……うん」

 遠い目をして、まるで何かを数えているようにも見える。波のうねりに浮かんだブイの数か、それとも白い海鳥の数か。いずれにせよ、遠く、沖まで連なっている。
 気が済むまで、好きに歩かせてみよう、そう思った。波にさらわれる心配をするほど、か弱くもないはずだ。自分は休むことにして、人気のない岩場に腰を下ろす。

「ここに座ってる」
「…………、」

 もはや返事もない。それこそ、波の音にさらわれたのかもしれないが、来てからずっと“心ここにあらず”なのは確かだ。

 持ってきた文庫本をめくる。

『光は影を照らすのではなく 影を溶かす』

 出掛けになんとなく手に取ったのが、小難しい哲学の本だったらしい。こんな日にかぎって、どうしてだろう。
 赤い花、リボンのついた栞。いつから読みかけのままなのか、思い出せない。

「……イヴァン、どこに行った?」

 顔を上げると、姿が見えなくなっていた。

「うん」
「なんだ、そこにいたのか」

 少し離れたところから、声が聞こえる。ぴょこんと頭が出るのを見つけて、ほっと息を吐いた。岩の隙間にしゃがみこんで、湧きだす水を見ていたようだ。

「そこにいるなら、いい」

 気が済むまで見ていろと、軽く手を振り、微笑んでやった。余裕の笑みだ。イヴァンの誘いに乗った時点で、休日を返上する覚悟はできている。

 素直な言動が、わがままと紙一重だったり。そのくせ隠し持った感情も多く、人を困惑させる。ふくみ笑いは大人しいどころか、かえって子どもじみていて、いつだって誰かを必要としている。

 もろもろの事情は了承済みだ。全て承知で、今日も付き合っているのだから。心のなかで頷きながら、また頁をめくった。

 春でも少し寒い。海風にさらされて、しろっぽい空がふくらんでいく。光の波長がゆらぐたび、波の色もゆらいで見えるが、どこまでも明るい海だ。浅瀬では、青みがかった緑に見えた。
 たしか緑青は、錆のひとつ、腐食をふせぐ役目がある。ぼうっとして、取り留めのないことを考える。
 海の香りが、記憶に刻みつけられそうだった。底ばかり見ていると、くらくら目眩がしてくる。ふと近くの波に目をやれば、あぶくが白くて、ほっとした。潮騒を聴くうち、意識が現実に引き戻される。

「イヴァン?」

 歩きだしていたイヴァンの影が、視界の端にうつる。今度は波打ち際に近づき、何かを覗きこんでいた。裾が今にも濡れそうだ。
 
「返事くらいしろ、できるだろ」

 海風が、ぱらぱらと頁をめくった。紙の上から活字がほどけて散らばり、明るい海に溶けていく。

 どうしてイヴァンがふさぎ込んでいるのか、未だにまったく掴めていない。

 横顔、ぽってりとした鼻の稜線が、水面からの照り返しに映し出される。プラチナも冴えて、ほとんど白いような髪色だ、それも寂しげに風に吹かれていた。
 波の反射と、砂浜の眩しさ。お前の姿は、ふわりとした光に包まれた。輪郭がうっすらと縁どられている。その白い縁どりすら、今にも、何処かへ溶けてしまいそうで――。

「黙ったままだと、泡になって消えるって……知らないのか?」

 それは、冗談めかして言った台詞のつもりだった。

「ぼく、しゃべれるよ!」

 まさか、泣かせてしまうとは。

 ぱっと夢から覚めたように、イヴァンは立ち上がった。ぎゅっと手を握りしめ、こちらを振り向いて。一瞬で、顔をくしゃくしゃに歪める。
 息もつかせない苦しさが、スローモーションのように再生され、心臓を鷲掴みにされた。

「……ぼく、ここにいるよ!」

 大きな粒が、浜辺にばらける。ぽろぽろと粒が落ちる、それが逆光に照らされるのを、見た気がする。

 気がついた時には、本を投げ出し、駆けだしていた。

 転びそうになり、手をついて、すぐにまた体を起こして走った。靴のなかに、細かい砂が入ったようだ。しゃり、と硬い音をたてる。

 息をきらせて正面に立った時、イヴァンは何が起きたか分からないような顔をして、その場に突っ立っていた。
 どうしてお前が驚いてるんだ、こっちは呼吸を整えるだけで必死なのに。

「分かってる……そんなことで、泣かなくていい」

 首を傾げれば、同じように真似をする。はらはらと落ちる涙に触り、そこで初めて気づいたように、自分でぬぐった。それから、やっと、しゃくりあげるように泣き始める。
 頬に触れようかと迷う。だが、こちらが迷っているうちに、ひとしきり泣いて、おのずと涙を止めた。

「口がきけなくなったのかと思った」
「……ううん、しゃべれるよ」

 涙さえ止まれば、案外さっぱりした声だ。ぐすん、と一度だけ鼻をすする。無自覚のまま発散して、それでも気持ちの整理はついたのだろうか。

 そっと頭を撫でてみる。いつまでも目をこすっているので、見せてみろと覗き込んだ。

「あ、」

 ぱちりと開いた瞬間、零れ落ちそうなほど大きく見えた。最後の粒が光り、流れていく。

「……なんか、落っこちそうな目、してるな」
「ほんと? いっぱい……溜まっちゃって……だからかな」
「何が?」

 きょとん、と、丸くしたその目は、底まで明るい。
 すぐそばに、打ち寄せる波の音があり、どこか深くで反響する。

「思い出が、いっぱい、溜まってたんだ」
「……本当だ、真っ白だ」

 それは本当に、真珠のように白かった。

 光は影を照らすのでなく、影を溶かすのだとしたら。この空の下、さみしさ≠焉Aお前のなかに溶けているのだろうか。

 白い光にふくらんだ思い出の、焦点が合っていく。いつか全ての流れが、海に辿り着くように。

「……そんなに見ないで、恥ずかしいよ」

 まばたきひとつで、イヴァンの瞳はいつもの紫に戻った。
 そんなことを言ったくせして、自分からは目を反らさない。それから数秒にらみ合ったのちに、いったい何をしているのだろうと、二人して笑った。

 ――生を歩むということが、失くしていくばかりの道筋だとしても。忘れないでほしい、繋いでほしい。

 隣で見ているだけの自分が、そう思うのは勝手だろうか。本人が過去をどう捉えているのかは分からない。

「なんだか、すっきりしたよ。もう帰ろう」

 そう言った顔は、本当に晴れやかだった。それなら、それで良いことにしようか。何が良いのか、もろもろを曖昧にしたまま、貝殻をひとつポケットにしまう。

 子どものように駆けだしたイヴァンの、笑う声が聴こえる。岩場の水たまりから、本を拾ったようだ。礼を言うかわりに、軽く手を振った。




fin.


* * *


Thanks!
inspired by the works of
さち,狗炉

material byやの



* * *




<骨は珊瑚、目は真珠。朽ちゆくものみな、海のめぐりうけ、尊きものに成りかわる。>
『The Tempest』William Shakespeare

<光は影を照らすのではなく、影を溶かす。>
Gaston Berger











Thanks BGM ♪
《サリー》安藤裕子



 お誕生日祝いのつもりで、以前から書きたかったものを、勢いだけでわっと書きました。
 イヴァン・ブラギンスキの相手は特定していないつもりです、といっても口調からだいぶ絞られてしまいますが、お好きなキャラにどうぞ置き換えてみてください……。

 素敵なお写真から着想を得たのですが、とんだポエムで申し訳ありません。



2016.4/17 初出 うこ