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 君は言ったね、僕の吐く息が好きだと。

 優しい人の何気ない言葉を、いつまでも、いつまでも胸に掲げて、凍てついた道を歩いた。

 そんな言葉を僕に贈ったことすら、君は忘れているだろう。僕はネックレスをつけないけれど、優しさは天然の宝石だ。触れると、少し冷たいかな。

 ──星は、赤い瞳をしていた。
 吐く息の白さで、ときどき確かめるんだ、溶けて消えない自分を。僕はここにいる、そう思いながら前に進めた。

 冬空に息を吹きかけるような、あどけない僕の孤独だ。凍えた手のひらと、漆黒の空との距離は遠く、景色の隙間を埋められるものは何もなかった。



◇ white shine



「何だってこんな春の日に、お前はパズルなんかやってるんだ」
「……遊んでるわけじゃないよ、落としちゃって」

 窓から鋭角に射しこんでくる光が、時計の針みたいに明るかった。君が来る時間を間違えていたみたいだ、もう少しかかると思っていた。外はとっくに日が昇っている。

「見てないで、手伝ってくれない?」
「こんなの放っておいて、さっさと出かけないか」
「そうもいかないよ、大事なものだもん」

 床にしゃがみこんだ僕は、額縁に手をかけた。完成したパズルを眺めるため、額に入れて飾っておいたのが、壁から落ちたのだ。はりきって掃除なんてするものじゃなかった。

 君は渋々といった体で隣に膝をつき、ピースを拾い集めてくれる。

「パズルなんて、子どもみたいだな」
「そう?」
「贈りものか?」
「うん」

 誰から貰ったのだと訊かれて、忘れてしまったと返事する。思い出せない、自分で買ったのではないはずだ。いくら独りの時間が長いからといって、この手のひとり遊びに没頭した記憶はない。

「……あれ?」

 思わず手を止めた。大事なものだから、飾っておいたはずなのに。

「忘れたってことは、どうでもいいんだろ」
「違うよ、でも……」
「いいから、もう行くぞ」

 拾い集めただけで、あてはまらないままのピースを置いて、僕らは家を出た。

 ぐずぐずしている暇はないのだ、分かっている。君が急かすのも無理はない、もうすっかり春だ。短い季節は、はじまると同時に終わりに近づく。



* * *



 車両に舞い込んできた花弁を、指ですくってみる。ほのかな薄紅を、透明な風のなかで洗いさってきたような色だ。しっとりと白いひとひらが、指の腹にすいつく。

 大雑把な僕には、りんごと桜が見分けられない。クレムリンの周囲に咲き、都心の空を彩ってくれる白い花は、春を告げる存在だ。

「景色も見ないで、何してる?」
「……遊んでるんだ」

 白い剥片が五枚あれば、花のかたちをつくれる。ふっ、と微笑みながら、膝にそれをならべた。

 君は不機嫌さを一生懸命デコレーションしたような、ある種の得意げな顔で、じっとこちらを見ていた。強く結んだ唇が、今にもむずむずと開きそうだ。

 分かってるよ。僕、少しおかしいよね。

「なんだか、ぼうっとして」
「冬眠明けだもんな」
「もう!」
「ほら」

 窓の桟から指先に花をつまんで、君は僕に差し出した。ここに置いて、と僕は膝の上を指さす。五弁の形がそろって、花になる。

「あぁ、ありがとう」

 トラムが停まり、人が乗ってくるたびに、春めいた装いが目についた。あたたかな風が吹きこんでくる。
 近くばかり見つめて、僕はどうしたのだろう。せっかくの季節なのに。

 遠くを眺めてみなければと、やっと顔を上げたところで、何かが眩しくきらめいて──思わず光を手でさえぎった。

「どうした? 目に何か入ったか?」
「ううん、違う、まぶしくて……」

 ──いつもこうして、指の隙間から全てを見ている気がする。

 あぁ、やっぱり春のはじめは、少しおかしくなるみたいだ。

 景色や、季節との距離は遠く、自分が当てはまらないような気がしてならなかった。大きくて、持て余す。仕方なくその場に身を置いているだけで、繋がることができない。

「…………」

 こんな時は、両手に息を吹きかけると落ち着いた。長い冬に身についた癖のようなものだ。
 吐く息は白くなかった、かじかんだ手の冷たさもない。意味のないことをしている、それは分かっていた。

 春になったとたんに、冬を懐かしむなんて、まるで無いものねだりだ。

「…………ふぅ、」

 君の目からは、たぶん、ただ両手で顔を覆ったように見えるはず。ついでに、目頭をぐりぐりと指で押してみる。疲れているのかもしれない、きっとそうだと思う。

「へたくそ」
「え?」
「いっぺんに見ようとするから、余計なもので気が散らかるんだ」

 ぱっと君の顔を確認すると、こらえきれない、といった様子で笑いだすところだった。いつもの不機嫌なフリをやめると、急に少年っぽさが出る。

「イヴァン、手を貸せ」
「うん」

 素直に手を出せば、君の手が重なって、こうすればいいのだと教えてくれる。親指、人差し指をそれぞれくっつけて、三角の窓をつくった。

「こうすると、他のものが目に入らなくなる」

 そんな、子どもみたいな。からかっているのだろうか。

 けれどその時、指でつくった小窓から、五枚の花弁が目に飛び込んできた。さっき膝の上で遊んだ花の、白さがくっきりと映える。

「あっ」

 そのまま顔を上げてみれば、抜けるように真っ青な空が見えた。窓枠も、間にある街並みも外れて、それだけが──目に沁みるように青い。

「ほらな? よく見えるだろ」
「うん……、うん」

 君は何でもないことのように言ったけれど、僕は心から驚いていた。

 トラムは街のなかを滑るように進んでいく。なんて青空が映えるのだろう。ふっ、と風さえ変わったように感じたとき、大聖堂広場が見えてきた。

 白亜の建物が美しく、空に向かってそびえ立つ。りんごと、桜、白い花びらが舞っているのが、遠くに見える。

「……きれい」

 手のなかに囲ってみるだけで、花や緑がこんなにも印象を増して、はっきりと見えるだなんて、思ってもみなかった。

 僕は自分の手のなかに、風景を切り取ることに夢中になった。金のドームをそっと写したとき、あまりにも綺麗で、いっぱいに息を吸いこんだ。

 胸をふくらませた気持ちが、不意に、目からこぼれ落ちそうになる。でも本当に泣いたりはしない、だって嬉しいだけだから。

「すごいね、ありがとう」
「なんだよ、そんな大げさに喜んで」
「ううん、だって……本当に……」

 君は呆れたように笑っている。
 君の何気ない言葉、行為に、僕はまた助けられてしまった。

「変なやつだな」
「ふふ。うん、僕、ちょっとおかしいんだ」

 うれしい! うれしくて、顔が自然とほころんでしまう。

「降りるか」
「うん」

 僕らは光に誘われるように、トラムを降りて歩きだす。
 足からひらひらと花びらが落ちて、笑いながら、踏まないように避けて歩く。

 自然と手をおろしていたけど、僕はもう落ちついていた。もう眩しくはなかった。
 おそるおそる、周囲を見まわしてみた。景色は金色の縁どりがついたように明るくて、青さ、白さ、街にある全ての色がひきたつ。

 ──この金色の縁どりに、きっと人は『春』という名前をつけたのだろう。その中心に自分もいることが、なんだか不思議だ。

「イヴァン、ちゃんと歩けよ」

 やっぱり、少し眩しい。足取りがふらつきそうになる、でも、それがまた楽しい。重たいコートを脱いだ体だ、腕まわりがすうすうして、おかしな気分になる。

 石畳に響く足音も、冬のように冷たくはない。そわそわして落ち着かないのと同時に、心のどこかで凝りかたまっていたものが、やっとほどけていく安心感がある。

「ねぇ、君は、季節の変わり目に困ることってある?」
「なんだよ、急に」
「僕はずっと、どうしてなんだろう、って考えていたんだ。いつも、うまくいかなかったんだ。誰かと同じだったらいいなと思うけど、そもそも上手く言葉にできないから、確かめることもできなくて、それで、」
「……お前、今日は静かだと思ってたら、いきなりよく喋るな?」

 指摘されて、ぽっ、と頬が熱くなる。
 確かに、家を出てから、まったく君に話しかけていなかった。ごめんね、せっかくのお出かけなのに。

「いい、気にすんな。面白がってただけだ」

 僕はもう正直に、自分が感じていたことを口にした。

「……僕は、自分がパズルのピースみたいだと思っていたんだ」
「なんだ? それ」
「あてはまらない、ってこと」
「……不格好だからか?」

 意地悪な口ぶりだけど、君の目は優しかった。
 これ以上は何かを言える気がしない。僕は再び両手を目の前に掲げて、景色を切り取りながら歩く。

 ふと思い立ち、君の前に立ち塞がってみた。背格好の良い姿を、指の窓におさめてみる。綺麗だ。出来栄えに満足して手をおろすと、なぜか、君の唇がむずむずと緩んでいく。

「……逆だろ、イヴァン」
「え?」

 とうとう噴き出して、大きな口を開けて笑いだす。
 それはなかなか止まらず、僕は首を傾げながら、君が話に戻るのを待たなければいけなかった。

「お前はどこにも嵌まらなくて当然だ、でかいんだから」
「う、うん」
「そうやって景色のほうをあてはめてろよ、自分のなかに」
「…………」

 次のトラムが後方から来て、僕らを追い抜いていった。特に今日の行き先は決めていない、トラムを降りたのも気まぐれだ。

 今は白亜の建物を目指して歩いているけれど、どこで道を曲がってもいい。それぐらいの気安さが、僕らの間にはある。

 君はさっそうと僕を追い抜いて、前に進んだ。
 僕は言われたことの意味を考えながら、ゆっくりと君に続く。もう一度、指でつくった窓を目の前に掲げてみる。

「…………ふぅ」

 吹きかける息は白くなかった、かじかんだ手の冷たさもない。

 そのかわりに、手のなかの景色がふくらんでいく。 君の後ろ姿、舞い散る花、空、街並み──切り取った瞬間に、永遠ではなくなる──だから、僕のものだ。なんとなく、そう思えてくる。

「なんだか、喉が渇いたね」
「やっと調子が出てきたな」

 気がついた時には、ただ、春が輝いていた。






fin.








* * *





<花の命は短い。春の命は限りない。>




Thanks BGM ♪
《AUBE 黎明》ELECTROCUTICA




 イヴァン・ブラギンスキのことを考えて書いたお話です。「君」の部分は、ふわっとお読みください。


 小さなパズルのピースとして、社会のどこかに当てはまらないといけないんじゃなくて、
 社会や世界がパズルのピースで、大きな自分のどこかにいろいろ当てはめていけばいい。

 自分も含めて、そんな風に経験を積んでいけたら幸せなのかなと、ぼんやり考えています。


 お誕生日祝いにかこつけて、またも私が書きたいものを書いてしまいました。

 みなさまもどうか素敵な季節をお過ごしください。
 



2018.4/17 初出 うこ